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「虚飾と真実」

1997年10月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒25・1‐27

 今日お読みしました25章の直前には次のように書かれています。「さて、二 年たって、フェリクスの後任者としてポルキウス・フェストゥスが赴任したが、 フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにして おいた。」パウロがフェリクスの前で自らの無実を明らかにしたにもかかわらず、 結局釈放されることはありませんでした。そして二年に渡る歳月の後、フェリク スが失脚し、ポルキウス・フェストゥスが後任として就任する時もなお、パウロ は監禁されたままだったのです。それはフェリクスが「ユダヤ人に気に入られよ うとして」行ったことであるとルカは説明しております。実は後任のフェストゥ スについても、この「ユダヤ人に気に入られようとして」という言葉は用いられ ております。(9節)ルカはここに一つの強調点を置いているようです。そして、 この言葉は私たちに一人の人物を思い起こさせます。やはりユダヤ人に気に入ら れようとして正しい裁きを曲げた一人の総督―ユダヤの総督ポンテオ・ピラトで す。つまり、ここでルカは福音書の23章における主イエスとピラトの場面を思 い起こさせるようにして、この箇所を描いているのであります。そこで私たちは、 福音書のあの場面と今日の箇所とを照らし合わせながら、その意味するところを ご一緒に考えたいと思うのであります。

パウロとフェストゥス

 使徒言行録25章1節以下をご覧ください。フェストゥスは総督として着任し て三日後にエルサレムに上りました。彼はパレスチナの総督にはなったのですが、 ユダヤ人の事柄についてはまったく未経験であったようです。さらに言えば、前 任者が熟知していたキリスト教会とユダヤ教徒との間の問題についてはほとんど 知らなかったようなのであります。そこでまず彼は、就任すると直ぐ、ユダヤ人 議会と接触をし、指導者たちと会見すべきであると考えました。そこでユダヤ人 たちは、フェストゥスの未経験に乗じて、再びパウロの問題を持ち出します。パ ウロをエルサレムへ送り返すように求めたのです。彼らは以前計画していたパウ ロの暗殺を再び実行に移そうとしておりました。しかし、フェストゥスは前任者 が残していった問題として、改めて審理するのが適当であると考えました。それ ゆえ、むしろユダヤ人たちの代表団が彼と共にカイサリアに下って行って告発す るようにと勧めます。こうして、パウロについての審理が再開されることとなり ました。

 6節以下に再審の様子が記されております。ルカは改めて内容を詳しく記して はおりません。「重い罪状をあれこれ言い立てたが、それを立証することはでき なかった(7節)」とだけ書いております。立証することができないのですから、 パウロが為すべきことは罪状を否定することだけでした。「私は、ユダヤ人の律 法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありませ ん」と彼は弁明いたします。パウロの無罪は明らかです。これで判決は出るはず でした。

 しかし、フェストゥスは無罪を宣言しパウロを釈放するのではなく、パウロに 「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらのことについて、わたしの前で裁 判を受けたいと思うか」と尋ねたのです。ルカはこれを「ユダヤ人に気に入られ ようとして」と説明いたします。明らかにこれは妥協策でした。パウロはローマ 法に照らせば明らかに無罪です。しかし、ここでパウロを釈放すればエルサレム の指導者層と対立せざるを得ません。かといってパウロの身柄をそのまま引き渡 すわけにもいきません。結局、ユダヤ人たちはパウロの身柄をエルサレムに戻す ことを求めているのですから、その要求は受け入れようとしたのです。しかし、 裁判そのものはフェストゥスが引き続き行うという形にする。ならば問題は残ら ないと考えたのでした。しかし、パウロはこの勧めを拒否いたします。そして、 皇帝に上訴したのでした。これはフェストゥスにとっても有り難いことです。こ のやっかいな問題が彼の手を離れるのですから。そこでフェストゥスは陪審の人 々と協議し、結論をパウロに伝えました。「皇帝に上訴したのだから、皇帝のも とに出頭するように。」

 さて、ここに見るフェストゥスとパウロの姿は、福音書に見るピラトと主イエ スの姿と重なります。ルカによる福音書23章を御覧ください。パウロは総督フ ェストゥスの前に無力な囚人として立ちました。同じように、釈放することも十 字架につけることもできる権威を持つ者としてピラトが福音書の中に描かれ、そ の裁きの前に立たされている無力な犯罪人としての主イエスの姿を私たちは見る のであります。フェストゥスの時代でもピラトの時代でも、ユダヤ人には人を死 刑にする権限はありませんでした。その権限を持つのはローマの権力者だったの です。しかし、ピラトはこの世の権力を振りかざしながらも、もう一方でびくび くしているのです。恐れているのです。もしユダヤ人たちを敵に回したら自分は どうなるか分からないと思っているのです。ヨハネによる福音書はそのようなピ ラトの心境をはっきりとこう記しています。「ユダヤ人たちは答えた。『わたし たちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と 自称したからです。』ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸 の中に入って、『お前はどこから来たのか』とイエスに言った。しかし、イエス は答えようとされなかった。(ヨハネ19・7‐8)」主イエスを裁きながら、 実は本当の意味で神の裁きの前に立たされているのはピラトなのです。恐れに捕 らえられながら、そのあり方を問われているのは、ピラト自身なのです。

 今日の箇所でも同じです。使徒言行録に戻ります。ここで生殺与奪の権を持ち、 自らが築き上げてきた権力によってその場を支配しているように見える人物が、 実は恐れによって動かされていおります。そして、フェストゥスの姿は誰もが身 に覚えのある人間の現実であります。人があたかも力ある者であるかのように互 いに見せている仮面の裏に隠された真実であります。何でも自分の思い通りに動 かせるかのように見せながら、自分の人生もまた自分の思い通りになるかのよう に見せながら、実は不安と恐れでいっぱいになっている。それは多かれ少なかれ 誰もが経験している日常の姿であろうと思うのです。

 しかし、フェストゥスの前にもう一人の人物が立っております。パウロです。 聖書はこの人物の中に、もう一つの人間のあり様を明確に示しております。彼に は見るべき面影もなく、輝かしい風格もありません。見窄らしい一人の囚人です。 しかし、彼は恐れに支配されてはおりません。誰に支配されているかを知ってい るからです。それはかつてあのピラトの前に立たれた方です。同じように見るべ き面影無く、輝かしい風格もなかった方、しかし、最終的に正しく裁き給う天の 父にすべての裁きをまかせて立っておられた方であります。そして、人間の裁き のもとに無惨に十字架にかけられて死なれた方、しかし、それで終わりではなか った方、復活された勝利者イエスこそ彼の主であることを、パウロは知っている のです。この方こそが、パウロの未来をその手に握っておられる。そのことを知 るゆえに、パウロは皇帝に上訴したのでした。その時、パウロはしっかりと悟っ たに違いありません。こうして彼はローマへと導かれていること、そしてそれは パウロの思いを越えた仕方において実現へと向かっているということを。復活の 主は、総督の前に立つパウロと共にい給い、ローマへと導いておられることを、 確かに表しておられるのであります。

パウロとアグリッパ

 さて、数日たって、アグリッパ王とベルニケが、フェストゥスに敬意を表する ためにカイサリアに来ました。このアグリッパ二世はヘロデ家最後の王です。こ の人の父であるヘロデ・アグリッパ一世は12章に出てきました。初期の教会を 迫害し、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で斬り殺した人物です。ヘロデ・アグリッパ一 世の父、すなわちここに出てくるアグリッパ王の祖父はヘロデ・アンティパスで す。洗礼者ヨハネの首をはねた人物です。彼は先に読みましたルカによる福音書 23章にも出てきます。つまり、ここにも福音書との平行関係が見られるのです。

 もう一度ルカ福音書23章をお開きください。総督ピラトは主イエスがガリラ ヤ人であることを知ると、主をヘロデのもとに送りました。ヘロデはガリラヤの 領主であり、当時エルサレムに滞在していたからです。そこで何と書いてあるで しょうか。「彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさ を聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行う のを見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと尋問したが、イエスは 何もお答えにならなかった。(ルカ23・8‐9)」つまり興味半分で主を自分 の前に引き出したわけです。そして尋問いたします。しかし、主は何も答えませ んでした。結局、「ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱し たあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した(11節)」と書かれておりま す。

 本日読みましたところでは、総督フェストゥスがパウロの件を王に持ち出して おります。パウロが皇帝に上訴しまして、一つだけ困ったことがありました。パ ウロを囚人として護送するのに、書き送るべき罪状がなかったのです。そこでユ ダヤ人社会においては内部の者として経験も豊かなアグリッパに助けを求めたの でしょう。アグリッパは、「わたしも、その男の言うことを聞いてみたいと思い ます」と答えました。実際のところ、アグリッパにとっては、パウロという存在 も単に興味の対象でしかなかったと思われます。こうして、翌日、彼らは町のお もだった人々と共に謁見室に入ります。そこに囚人パウロが引き出されてきたの でした。

 さて、私たちはここで23節に注目したいと思います。「アグリッパとベルニ ケが盛装して到着し」と書かれています。夫婦のように並べて名前が書かれてお りますが、実のところ、彼らは夫婦ではありません。ベルニケはアグリッパの実 の妹であります。しかし、同時に彼女はアグリッパの愛人として知られておりま した。欲情の奴隷となった非合法な関係は、当時の支配者階級において珍しいこ とではなかったのでしょう。(私たちはここでもまた、洗礼者ヨハネに糾弾され たヘロデ・アンティパスとヘロディアの関係を思い起こします。)その彼らが 「盛装」して到着したと言うのです。これは「虚飾」とも訳し得る言葉ですが、 彼らの実状を知っていたであろうルカがあえてこの言葉を用いた意味が分かるよ うな気がいたします。見せかけは王であっても、その実は罪の奴隷である。従者 を従え大いに威儀をととのえて現れたとしても、その実は自分自身をすら治め得 ない惨めな罪人に他なりません。その彼らがパウロを引き出します。自分とは関 係がないかのように、興味半分でパウロを自分たちの前に引き出すわけです。し かし、私たちはここで、かつてキリストがパウロについて語った言葉との関連に 気付かされます。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたし の名を伝えるために、わたしが選んだ器である。(使徒9・15)」あの言葉が ここで実現しているのです。つまり、彼らはパウロを自分の前に引き出している つもりであるかもしれないけれど、実は彼らが神の前に引き出されているのです。 いっさいの虚飾を剥がれた惨めな罪人として神の前に引き出されているのであり ます。

 実は私たちに起こっていることも同じなのです。私たちは、常に自分が行為の 主体であると思っているものです。領主ヘロデやアグリッパのように不真面目な 興味の対象としてではないかも知れないけれど、それでもやはり自分が主体であ って、神御自身に関わる事柄もキリストの福音も、自分の前に引き出そうとする のです。「聖書でも読んでみようか。」「教会に行って話でも聞いてみようか。 」「キリスト教の何たるかを少し勉強でもしてみようか。」そのような志自体は 決して悪いことではありません。むしろ真面目に求道を始められることは称賛す べきことであります。しかし、どうぞ知ってください。私たちがそうすることに よって、実は私たち自身が神の前に引き出されているのです。私たちが気付こう と気付くまいと、誤魔化しの利かない神の前に、見せかけのいっさいを剥ぎ取ら れて立たされているのであります。そして、そこにおいて私たちが聞くべき言葉 がある。一人の罪人として神の前に立たされた者が聞くべき言葉がある。それが パウロの語り続けてきた福音の言葉であり、今なお教会を通して語られている福 音の言葉なのです。

 アグリッパ王に対して語られた福音の内容については次回より二回に分けて学 びたいと思いますが、今日は一つのことだけを心に留めておきましょう。それは この出来事の背後にある主の憐れみです。先にも申しましたように、アグリッパ はヘロデ家最後の王であります。彼の父と祖父については既に触れましたが、実 は祖父ヘロデ・アンティパスの父親は有名なヘロデ大王であって、ベツレヘムと 周辺一帯にいた二歳以下の男の子を皆殺しにして、幼子キリストを抹殺しようと した人物でありました。(マタイ2・16)このように、ヘロデの家はある意味 でキリストに敵対し続けてきた家系として、聖書の中に描かれているのです。い わばヘロデの家は、神の恵みを拒み、キリストに敵対するこの世の代表なのです。 しかし、神はここで王を御前に引き出し、福音を語られるのであります。何に基 づいてでしょうか。ただ憐れみによってです。敵対する者に対する神の憐れみに よってなのです。そして、同じ憐れみによって、私たちも今こうして御前にある のであります。

 
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