「神の約束とその実現」
1997年10月12日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒26・1‐18
先週、私たちはパウロがアグリッパ王の前に引き出されるところまでをお読み しました。26章に入りまして、アグリッパはパウロに対して「お前は自分のこ とを話してよい」と弁明を許可します。かつて復活のキリストがパウロについて 語ったことがこうして成就しました。9章15節において「あの者は、異邦人や 王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器 である」と語られている通りです。すなわち、ここでアグリッパがパウロをその 前に引き出して語ることを許可しているように見えるのですが、実はそうするこ とによってアグリッパこそ神の前に引き出されているのであります。すべての虚 飾を剥ぎ取られて、王としてではなく一人の罪人として、神の前に引き出されて いるのです。それは彼に対してイエスの名が伝えられ、福音が宣べ伝えられるた めでした。その内容が26章に記されております。今日は前半をお読みしました。 ルカがこれを単なる過去の記録として記していると考えてはなりません。そうで はなくて、使徒言行録の読んでいる私たちもまた、アグリッパと同じところに立 ってパウロの語る福音の言葉を聞くようにと、この箇所は記されているのであり ます。
ユダヤ人パウロ
短い前置きの後、パウロはアグリッパにまず自分自身のことを語り始めます。 4節以下をご覧ください。「さて、私の若いころからの生活が、同胞の間であれ、 またエルサレムの中であれ、最初のころからどうであったかは、ユダヤ人ならだ れでも知っています。彼らは以前から私を知っているのです。だから、私たちの 宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として私が生活してい たことを、彼らは証言しようと思えば、証言できるのです。今、私がここに立っ て裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望 みをかけているからです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その 約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、 ユダヤ人から訴えられているのです。神が死者を復活させてくださるということ を、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。(26・4‐8)」
パウロはキリキア州のタルソスで生まれたことには触れず、ただ自分がファリ サイ派に属するユダヤ人であることを語ります。偉大な教師であるラバン・ガマ リエルのもとで厳しい教育を受けてきたことは、他のユダヤ人たちにも知られて おりました。ですから彼らもまたその事実を証言することができるはずだ、とパ ウロは言います。そしてそのことを確認した上で、パウロは他のユダヤ人たちと 同じ希望を共有しているのだ、ということを語り始めるのです。すなわちそれは 終末における神の国の希望であり、メシアの到来と復活の希望であります。サド カイ派の人々はこれを信じてはいないけれども、少なくともこの当時においては、 復活の希望はユダヤの正統的な信仰の重要な要素となっておりました。ファリサ イ派を初め、多くの人々はこの約束の実現を信じ、希望し、待ち望んでいたので す。ルカによる福音書2章に出てくるシメオンやアンナのように、素朴な希望を 抱きつつ神の国を待ち望んでひたすら祈り続けている人々もいたのです。パウロ もまた一人のユダヤ人としてこれを信じていることを強調します。このことはフ ェリクスの前でなされた弁明(24章)においても言及されておりました。とこ ろが、その神の約束の実現を待ち望んでいるために、かえってユダヤ人たちから 訴えられ、裁判を受けている。そのことをパウロは二度繰り返して語ります。つ まり、これがどれほど理にかなわないことであるかと訴えているのであります。
さて、この部分は非常に単純化されて書かれていますので、かえって話が分か りにくくなっております。話を端折ってしまったのがパウロ本人なのか、これを 記しているルカなのか分かりませんが、いずれにせよ私たちはここである程度言 葉を補って聞かなくてはなりません。後に23節にパウロはこう言っています。 「私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異 邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」つまりパウロは単に終末 における復活の希望を抱いていたということではないのです。彼が何に基づいて その希望を抱いていたかということが大事なのです。パウロの希望の根拠は、彼 自身が語っている通り、メシアが既に来られ、聖書に書かれている通り苦難を受 けられ、死者の中から最初に復活されたという出来事でありました。そのメシア こそナザレのイエスであるとパウロは宣べ伝えてきたのです。それは決してユダ ヤ人の正統的な信仰から逸脱することではないと、パウロはここで主張している のであります。むしろパウロは一人のユダヤ人として、ますますこの同じ希望に 生きる者となった。なのに同じ希望を抱いている人々から訴えられていることの 理不尽をここで語っているのです。
迫害者パウロ
しかし、パウロはこう語る一方で、なぜ自分に対してこれほどまでにユダヤ人 たちが敵意を抱くのかをよく知っておりました。ナザレのイエスがメシアとして 苦難を受け復活した、というまさにパウロのメッセージの中心的出来事が、ユダ ヤ人にとっては大問題であったのです。なぜなら、このイエスこそ、彼らが十字 架にかけてしまった人物に他ならないからです。神の御名のもとに、彼らの正義 をもってイエスを裁いて殺してしまったからです。そして、その後もイエスの弟 子たちを迫害してきたのです。多くのキリスト者を投獄し、死に至らしめてきた のです。その彼らにとって、ナザレのイエスをメシアであると認めるということ は、彼ら自身の罪を認めることになってしまう。それは自らの正しさを主張して きた自分自身を否定し、自分を捨てることに他なりません。それがいかに難しい ことであるかは、私たち自身の経験を考えても分かるでしょう。彼らがパウロを 亡き者としようとしているのは、結局パウロが聖書に反することを語っているか らではないのです。まったく理にかなわないことを言っているからでもないので す。自らを義としてやまない自分自身を捨てることができないという、彼ら自身 の問題なのであります。
パウロはそのことをよく知っておりました。というのも、実は、パウロも同じ だったからです。彼もまたかつてこのイエスの御名に反対していたのです。そこ で彼はその頃のことを語り始めます。「実は私自身も、あのナザレの人イエスの 名に大いに反対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行に 移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼 らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。また、至るところの会堂 で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく 怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。(9‐11節)」
十字架にかけられたキリストが復活して現れたと宣べ伝える使徒たち。そして、 彼らの証言を受け入れて復活のキリストに従って生き始めたキリスト者たち。そ の群れは瞬く間にエルサレム中に広がっていきました。私たちが使徒言行録にお いて見た通りです。復活の希望に生きる彼らは、大祭司たちユダヤ人社会の権力 者たちによる脅しに屈するどころか、ますます力と希望に溢れてキリストの復活 を宣べ伝えていったのです。この事態は若き日のパウロにとっても見過ごしに出 来ない問題でした。彼は真剣に迫害したのです。ある時にはキリスト者を死刑に することに荷担し、ある時にはイエスの復活を否定させ、その御名を冒涜させよ うとしたのでした。
そして、ダマスコ途上における回心の物語が続きます。既に使徒言行録におい ては9章と22章において二回語られてきました。しかし、ここで初めて語られ ることがあります。キリストがパウロに語った言葉です。そこに私たちは注目し たいと思います。主は言われました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害す るのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う。」
「とげの付いた棒」は、家畜を追う突き棒のことです。家畜がそれを嫌がって 蹴ったりしたら、痛い思いをするのは家畜の方なのです。これはどこにでもあり そうな格言です。それをパウロは聞いた。そして、三十年ほどの年月を過ぎてな お、その言葉は彼の心深くに残っているのです。それは、まさにその格言が彼の 状態を言い当てていたということであり、彼自身がそのことを認識していたとい うことを意味します。つまり、彼はキリスト者を迫害しながら、もう一方で自分 の内に広がる痛みと苦しみを否定できなかった。そのような彼の姿が、とげの付 いた棒を蹴り続けている愚かな家畜の姿と重なったのだと思います。
確かに彼は自分のしていることが正しいと信じてキリスト者を迫害し始めたの です。そして、彼が語るごとく、キリスト者を投獄し、ある者たちを死に至らし めた。しかし、復活の希望に満ち溢れつつ投獄に甘んじる人々や死んでいく人々 を目の前にして、彼の確信は崩れていったに違いありません。「主イエスよ、わ たしの霊をお受けください」と言い、ひざまずいて「主よ、この罪を彼らに負わ せないでください」と大声で叫びながら、石で打たれて死んでいったステファノ の姿。その彼の死を前にして、今まで律法を遵守し正しい者として生きてきたと 思っていたパウロの誇りが、まったく虚しいものとして崩れ始めるのを感じてい たのだろうと思います。しかし、それでも人は正しくない自分を認められない者 なのです。どうしても自分を貫かなくてはならない。今までの自分を捨てるわけ にいかない。そう思うときに、人はますます攻撃的になるものです。パウロがま すます荒れ狂って迫害に奔走し、ダマスコにまで迫害の手を伸ばしたのは理解で きないことではありません。しかし、そのように攻撃的になって自分を守ろうと すればするほど、それは自分を苦しめることになるのです。自分にしがみつけば しがみつくほど、人は苦しむことになるのです。ダマスコに向かった時のパウロ はそのような状態であったに違いない。だから主が語られた言葉が心に残ったの です。「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う。」彼はそこで、とげの付い た棒を蹴り続けることが自分に滅びを招くことであることを悟ったに違いありま せん。そして、キリストの光のもとに打ち倒され砕かれた彼は、そこでとげの付 いた棒をけることをやめたのであります。
福音宣教者パウロ
パウロはここでアナニアとの出会い、そして彼から洗礼を受けたことなどをす べて省略しております。ただ、復活のキリストがパウロを遣わしたということだ けが語られております。主は何のためにパウロは遣わされたのか。「それは彼ら の目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうして彼らが わたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分 け前にあずかるようになるためである」と語られております。パウロはここで、 キリストの証人であり宣教者であるパウロに与えられた使命を短く要約しており ます。パウロ自身も受け、かつ彼に託されている福音がいったい何であるかを明 確に言い表しているのであります。
「闇から光へ立ち返らせるために」とキリストは言われました。福音は人間の 闇に関わるのです。ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、皆、闇の中にいるか らです。私たちはこの闇をどのように考えるでしょうか。「わたしの人生はそれ ほど暗くない」と人は言うかも知れません。「この社会は闇と呼ぶほど暗くはな い」と人は言うかも知れません。しかし、誰でも自分が闇の内にいることを知る ときが来るものです。それは様々な苦難においてであるかも知れないし、深い悲 しみの中であるかも知れませんし、死の床においてであるかも知れません。しか し、そこで人は初めて闇を生きるのかと言うと、実はそうではないのです。既に 闇の内をずっと生きてきたのです。どこから来て、どこに居て、どこに向かって いるかも分からない。本当の平安もなければ確かな希望もない。罪深い自分自身 をどうすることもできない。そのような闇の中に生きてきたことに気づかされる だけなのです。
ではなぜ闇なのか。光がないからではありません。目が閉ざされているからだ と言うのです。光は既に与えられております。太陽は既に上っているのです。神 はキリストを復活させて、人を罪と死と滅びから完全に救い得るその力を現され ました。永遠の命の光は既に現されたのであります。ですから人はもはや闇の中 を生きる必要はないのです。しかし、目が閉ざされている時に、人は闇の中を生 きざるを得ない。それは単に人が愚かだからということではありません。人は神 から引き離す大きな力のもとにあるのです。人の目を閉ざし、闇の中に人を留め 置こうとする大きな力のもとにあるのです。聖書はそれを「サタンの支配」と呼 びます。ですから、人の目が開かれて、光の中を生きるようになるということは、 サタンの支配から解放されて、神に立ち返ることに他ならないのです。
こうして、人は神に立ち返り、罪の赦しを得、「聖なる者とされた人々と共に 恵みの分け前にあずかるようになる」と語られております。すなわち、こうして 私たちは神のものとされ、神の民とされ、神の国を受け継ぐ者とされるのであり ます。私たちはやがて罪と死と滅びの縄目から完全に救われ、命の世界に復活し た者として、神の全き御支配のもとに生きる者とされるのです。そこではもはや ユダヤ人も異邦人もありません。主はただ「わたしへの信仰によって」と言われ ます。ただ、私たちのために苦しみを受けられた方、そして復活されたこの方を 信ずる信仰によってこの救いが実現するのです。いにしえの日に神の与えてくだ さった約束が私たちの上にもまた完全に実現することを望み見つつ、私たちは光 の内を生きるようにと招かれている。主がパウロを遣わされ、代々の伝道者を遣 わされ、今も私たちに福音の言葉が語られているというのは、そういうことであ ります。