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「神を待ち望め」

1997年10月19日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 詩編42編

 以前、私が友人と話をしていました時に、ある伝道者が書いた一冊の本のこと が話題に上りました。私はその伝道者のことを知らなかったのですが、彼が牧会 する教会は病気の癒しや奇跡が起こるということで知られているそうです。その 本の内容は、簡単に言えば「イエスの御名に信頼して祈るならば今でも奇跡は起 こる」というものでした。私自身は決して奇跡を否定するものでもありませんし、 神による病の癒しを否定する者でもありません。しかし、彼がその本について語 ることを聞いているうちに、どうもいくつかの点が気になったので、「少し神学 的に問題があるみたいだね」と私は言いました。すると彼はその言葉が気に障っ たらしく、「君の神学は頭ばかりだ」と言い返してきたのです。「現実に、君の 教会では事が起こらないではないか。しるしと奇跡が見られないではないか。私 は事が起こっている方の言葉を信じる」と彼は言うのです。

 さて、私は教会で多くの人が病気の癒しの奇跡を経験するよりも、むしろ多く のご高齢の方々が病気にならずに元気であることの方がよっぽど素晴らしいと思 っているのですが、それはさておき、彼の言ったことは一面においては当たって いると思います。大阪のぞみ教会に来たら重病人が皆癒されるという話は聞きま せんし、目の見えなかった人が奇跡的に目が見えるようになったという話も聞い たことがありません。むしろ、長い間大きな悩みを抱えている人もいれば、体の 弱さの故に苦しんでいる人もいるわけです。私の妻もその一人です。このような 状況は、この日本において癒しを売り物とする新興宗教から見たら、はなはだ力 のない宗教に見えるのではないかと思います。いや、問題は他宗教の人がどう見 るかではありません。キリスト者自身がどう考えるかということの方がより重要 だと思います。私の友人のような極端なことを言う人はそれほどいないでしょう。 むしろ、「私たちは御利益宗教ではない」と多くのキリスト者は答えるだろうと 思います。しかし、正直なところ、皆さんはどうお考えになりますでしょうか。

 例えば、ここに二人のキリスト者がいるとします。一人の人は信仰者となって 神に祈ったら、彼の抱えている難しい問題がたちどころに解決して、現在喜々と して信仰の大切さを友人たちにも伝えている。もう一人は、長い間祈り続けてい るけれども、依然として状況は変わらず悩みを抱えたままで、信仰者でない友人 たちから「お前の神様はどこにいるんだ」などと言われている。さて、今度の伝 道集会でどちらかに信仰の証しをしていただきましょうということになったら、 皆さんはどちらを選びますでしょうか。どちらの話を聞きたいと思いますか。あ るいはどちらの話を未信者の友人に聞かせたいと思いますか。

神を求める人

 私がなぜこのようなことを話しているかと言いますと、実はこのことが今日お 読みしました詩編に関わっているからであります。詩編42編は43編と共に一 つの歌を形作っております。これを一読してすぐに分かりますように、この詩人 は先に例として挙げた二人のキリスト者のうち、圧倒的に後者に近い人物であり ます。信仰なき人々から「お前の神はどこにいる」と嘲られている人物なのです。 彼は祖国を失った捕囚民の一人であるようです。エルサレムから遠く離れ、ヨル ダン川の水源地であるヘルモンとミザルの山近くに捕らえ移されているのです。 そこで異教の民に囲まれて、惨めな生活を強いられている。敵に虐げられながら、 彼は「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり(4節)」であると語っているのです。 そのような悲しみと悩みの中にあって、彼の祈りはあたかもまったく神に顧みら れていないかのようです。この詩人は「なぜ、わたしをお忘れになったのか(1 0節)」と訴えざるを得ない。そのような彼の姿を見て、人々はますます嘲るの です。「お前の神はどこにいる」と。

 もし「事が起こっている」ということが、そこに聞くに値する言葉があること の根拠であるならば、このような人の言葉はまったく聞くに値しないということ になるでしょう。事が起こっていないのですから。異教の民にさえ馬鹿にされて いるのですから。しかし、そのような人の言葉が、まさに聖書の中に記されてい るのです。それゆえに、今日もこの礼拝において読まれているのです。代々の教 会に読まれ続けてきたのです。それはいったいなぜであるのか。私たちはその意 味をもう一度よく考えたいと思うのです。そして、私たちが日頃考えている信仰 の世界と聖書が語る信仰の世界にずれがあるならば、今日ここにおいて神の御言 葉のもとにしっかりと捉え直さなくてはならないと思うのであります。

 そこでまず2節をご覧ください。「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、 わたしの魂はあなたを求める。」ここを読みますだけで、すぐに一つのことに気 づかされます。この人はここで「神に」何かを求めているのではない、というこ とです。「神を」求めている人だということであります。彼は捕囚の民として、 現実に苦しいことや悲しいことがたくさんあるに違いありません。具体的な神の 助けも必要であるはずです。しかし、彼の宗教の中心は神の助けを求めることで はないのです。神を求めることなのです。神の御顔を仰ぐことを求め、神との生 ける交わりを求めているのです。そして、これは私たちの世界を考えます時に、 決して当たり前のことではありません。パウロはいみじくもローマの信徒への手 紙の中でこう記しています。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、 神を探し求める者もいない。(ローマ3・10‐11)」人の関心は多くの場合、 神から来る「何か」にしかないものです。「信仰」とは呼べども、本当の意味で 神を仰いではいないものです。このパウロの言葉は他人事ではありません。実際、 ここに集っている私たちはどうなのでしょうか。まずそのことを自らに問いなが らこの先を読まなくてはならないだろうと思うのです。

 「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。」 この意味するところを私たちが深く味わっていきますときに、実はこの言葉がこ の詩編全体を貫いていることに気づかされます。例えば、このような彼の信仰が ないところからは、10節以下のような言葉は絶対に出てこないであろうと思い ます。彼はこのように言うのです。「わたしの岩、わたしの神に言おう。『なぜ、 わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか。 』わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き、絶え間なく嘲って言う『お前の神は どこにいる』と。(10‐11節)」

 「神に助けを求めてそれを得ることが宗教だ」と思っている人は、神に忘れら れていると思えるような状況になったら、もう祈ることをやめてしまうものです。 祈っても何も変わらない、何も答えがないと感じた時点で、その宗教を捨ててし まうのです。しかし、この詩人はそうではありませんでした。確かに、「お前の 神はどこにいる」と言われても、彼は一言も言い返すことができません。彼の現 実を見れば、そう言われても仕方ないからです。しかし、彼はそのことを神の御 前で嘆き、訴えているのです。「なぜ、お忘れになったのか」と言いながら、そ れを他ならぬ神に訴えているのです。考えて見ればおかしな話ではありませんか。 しかし、その奇妙なことがなぜ起こっているのかをよく考えてみる必要があろう かと思うのです。

 「なぜ、わたしをお忘れになったのか」。そのように神に訴え得たのはどうし てなのでしょう。それは、そう言いながらも、彼は神を信じているからなのです。 彼の言葉を確かに聞いていてくださる方を信じているからなのです。つまり、 「お前の神はどこにいる」と言われようが何しようが、そのようなことで決して 失われることのない神との人格的な交わりに、彼は生きているということなので す。神との生きた関係がそこにあるのです。「神に」ではなく、「神を」求める 人だけが知ることのできる、神との愛の交わりを彼は知っているのであります。

御顔こそ、わたしの救い

 では、そのような神との交わりはどこにおいて生まれ、どこにおいて育てられ てきたのでしょうか。それは、彼がこの悲しみと苦しみのただ中で、何を思い起 こすかということによって知ることができます。5節をご覧ください。「わたし は魂を注ぎ出し、思い起こす、喜び歌い感謝を献げる声の中を、祭りに集う人の 群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを。」彼はここで、かつて神に よって奇跡的に助けられた、というようなことを思い起こしているのではありま せん。彼が思い起こしたのは、神の民の一人として神を礼拝したことなのです。 過越祭など、大きな祭りの時には、全国からエルサレムの神殿に向かう巡礼者の 群れがありました。人々は神を誉め讃えながらエルサレムに上ったのです。この 詩人もまた、その一行の先達として人々をエルサレムへと導き上り、彼らと共に 主を礼拝したのでしょう。彼は神の民の一人として共に主を礼拝することのでき たその幸いをここで思い起こしているのです。ですから、彼が渇いた魂をもって 命の神を求めていると言う時、具体的には礼拝者として神にまみえることを彼は 求めているのです。

 しるしや奇跡によって生まれた神への信頼は、しるしと奇跡が失われる時に、 同時に失われていきます。病気が癒され、悩みが解決したことを根拠として神を 信じている人は、新たな悩みが生じ、あるいは病気が再発したときに、その信仰 も失われていくことでしょう。そうしますと、命の神、生ける神との真実な関係 は、その人の様々な問題がすぐに具体的に解決されたか、見える形で事が起こっ ているか、というような表層的な事とは本質的には無関係であることが分かりま す。むしろ、その人がまことの礼拝者となっているかどうかに関わっているので す。

 そして、そのような神との真実な関係を知る人は、様々な心の状態の変遷を経 たとしても、必ず一つのところに行き着くことを、この詩編は示しております。 この詩人は自らに向かってこう語るのです。「なぜうなだれるのか、わたしの魂 よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう、『御顔こそ、わ たしの救い』と。わたしの神よ。」この部分はリフレインに当たります。42章 と43章併せて三回繰り返されます。なぜ繰り返されているのか。必ずそこに行 き着くからです。

 「なぜうなだれるのか、なぜ呻くのか。」うなだれたり、呻いたりするのは信 仰の弱い人のすることだと考える人は、自分がそうなった時に自分自身の「不信 仰」を責めることでしょう。信仰者は常に確信に満ち、喜びに満ちあふれている べきであるということであるなら、まさにこの詩人は信仰者に値しないというこ とになるかも知れません。この詩全体を見てください。彼の言葉はなんと安定を 欠き、矛盾に満ちていることでしょう。9節において「昼、主は命じて慈しみを わたしに送り、夜、主の歌がわたしと共にある、わたしの命の神への祈りが」と 言ったかと思うと、その次には、「なぜ、わたしをお忘れになったのか」と神に 呟いている。それがこの人です。

 しかし、それでよいのです。うなだれてもよいのです。呻いてもよい。むしろ、 安心してうなだれてよいのです。なぜなら神は生ける神だからです。信仰は信念 とは違います。命の神との生きた関係です。大切なのは、信仰者の心の内にある 何かではありません。うなだれようが、呻こうが、その深淵の底からでも仰ぐこ とのできる方がおられる。それが決定的な意味を持つのです。その方の御顔を求 めているかぎり、必ず一つのところに行き着くのであります。「わたしの魂よ、 神を待ち望め」。神がまことの神として御自身を現し給うその時を待ち望むこと ができる。うなだれようが、呻こうが、絶対に希望を失うことはないのです。

 それゆえこの人は告白するのです。「告白する」と訳されている言葉は、「賛 美する」とも訳し得る言葉です。彼は賛美するのです。うなだれて呻いていた者 が賛美に至るのです。何と言って神を誉め讃えているのでしょう。「御顔こそ、 わたしの救い。」と彼は言うのです。これもまた様々に訳し得る言葉ですが、こ の新共同訳は実に味わい深い言葉に訳しています。「御顔こそ、わたしの救い。 」慈しみに満ちた神の臨在、神の「御顔」こそが救いなのだ、とこの人は語って いるのであります。未だ状況は何一つ変わっていないように見えるかも知れない。 重荷は何一つ取り去られてはいないかも知れない。しかし、神御自身がその慈し みに満ちた臨在を示し、御顔を現してくださるならば、既に救いはそこにある。 神が愛であり、その愛である神が御顔を向けていてくださることを示してくださ るならば、そこにこそ真の救いはあるのです。

 「御顔こそ、わたしの救い。」これこそまさに神を求める者、そして神を礼拝 することを知っている者だけが語り得る言葉だと言うことができるでしょう。は たして私たちはどうでしょうか。様々な悩みと悲しみの中で、いったいどのよう な言葉に行き着くのでしょうか。私たちもこの詩人と共に、「御顔こそ、わたし の救い」と告白する者とならせていただきたいと思うのであります。

 
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