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「すべての人を照らす光」

1997年10月26日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒26・19‐32

 アグリッパ王はパウロに言いました。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリ スト信者にしてしまうつもりか。」するとパウロは言います。「短い時間であろ うと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべて の方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につなが れることは別ですが。」これが王や町のおもだった人々の前に引き出された囚人 パウロの最終的な言葉でありました。「わたしのようになってほしい。」―パウ ロは、人が知っても知らなくても大差ないような事柄について話しているのでは ないのです。そうではなく、王であろうが、この世の地位ある者であろうが、そ れを知って生きることなくしてはまったく不幸であると言わざるを得ない重大な メッセージを、パウロはここで語っているのであります。今日は26章の後半を お読みしました。すべてを失って鎖に繋がれているパウロをして「わたしのよう になってほしい」と言わしめているのは、いったい何であるのか。私たちは今週 も聖書を通して私たちに語りかけられている神の福音に耳を傾けていきたいと思 います。

悔い改めへの呼びかけ

 まず19節から23節までをお読みしたいと思います。「アグリッパ王よ、こ ういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めと して、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改め て神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。そのた めにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。とこ ろで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな 者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以 外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死 者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べ たのです。(使徒26・19‐23)」

 「こういう次第で」とパウロは話を続けます。これはどのようなことを指して いるのでしょう。少し前半部分を振り返っておきたいと思います。パウロがそこ で語りましたのは、迫害者であったパウロ自身の回心の物語でありました。ダマ スコへ向かう途中、パウロとまた同行していた者たちは天からの光に包まれ、そ こで彼は主の御声を聞いたのです。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害する のか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う。(26・14)」パウロはそ の語りかけの中で、まさにとげの付いた突き棒を蹴り上げて痛い思いをしている 愚かな家畜のような自分自身の姿を認めたのでした。そして、彼はついに自分の 誤りと罪とを主の前に認め、とげの付いた棒を蹴るのをやめたのであります。す ると主は更にパウロに派遣の言葉を与えられました。「わたしは、あなたをこの 民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、 闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰 によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかる ようになるためである。(17‐18節)」ここにパウロの託された福音がいっ たい何であるかが簡潔に言い表されております。そして、この目的のために他な らぬ主が、パウロを彼ら、すなわちユダヤ人と異邦人に遣わされたのでした。

 「こういう次第で」とパウロは続けます。天から示されたことに従ってパウロ がなしたことは、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ 全土の人々、そして異邦人に対して次のように伝えることでありました。「悔い 改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするように。(20節)」福 音の言葉は単に人々の知的好奇心を満足させるための言葉でも、一時的な慰めや 生活の知恵を与えるための言葉でもありません。主は人々を闇から光に、サタン の支配から神に立ち帰らせるためにパウロを遣わしたのでありますから、当然そ のメッセージは具体的なこの勧めの言葉に至ります。彼は人々に神の言葉に対す る応答を求めるのです。パウロはこのことを、ユダヤ人と異邦人と両者に対して 区別なく伝えたと言うのであります。「悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふ さわしい行いをするように。」

 パウロがあえてここで「悔い改めにふさわしい行い」に言及していることは重 要です。悔い改めはただ単に「悔いる」ことではないのです。この世の中には後 悔する人はたくさんいます。しかし、後悔そのものは決して救いをもたらしはし ません。悔い改めるとは神に立ち帰ることであります。そして、それはただ単に 心の問題ではありません。具体的に人生の方向を変えることなのです。神に立ち 帰り、具体的に神と共に生き始めることであります。神を畏れ、神の御前にある 者として生き始めることです。これは毎日の目に見える生活に関わることなので す。その具体性の故に、例えばペトロなどはこれを洗礼を結びつけて語っている のであります。ペンテコステにおいて教会が誕生したあの日に、ペトロが人々に 語った言葉を思い起こしてください。彼はこう言ったのです。「悔い改めなさい。 めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を許していただきなさ い。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(2・38)」洗礼を受けたその 瞬間から、悔い改めにふさわしい行いを完全に行える人間となるということでは ないでしょう。しかし、「悔い改めにふさわしい行い」と呼ばれるものが不完全 であろうと不十分であろうと、ともかく悔い改めが決して観念の領域に留まるも のでなく具体的なスタートであることを、目に見える「洗礼」がよく表している のであります。

 パウロは、この「悔い改め」をユダヤ人にも異邦人にも区別なく求めたのでし た。生まれながらのユダヤ人だからと言って、神との関係が特権的に自動的に与 えられているのではないのです。彼もまた悔い改めて神に立ち帰らなくてはなら ないのです。一方異邦人だからと言って、彼に対して既に救いの戸が閉ざされて しまっているということはないのであります。それまでどれほど神に背いて生き てきた者であっても、また神ならぬ偶像に仕えてきた者であっても、彼に対して 救いの戸が閉ざされてしまっていることはないのです。彼もまた同じように悔い 改めて、神に立ち帰ればよいのです。

 しかし、このことは神の選民を自負し、そこに自らの誇りを置いているユダヤ 人たちには許し難いことでありました。誇り高い人は悔い改めへの呼びかけに答 えることが出来ません。かえって神の恵み深い呼びかけに対して敵意を表すこと になるのです。「そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺 そうとしたのです」とパウロは語ります。しかし、これは大変おかしなことであ りました。というのも、パウロが語っていた悔い改めへの呼びかけの根拠は、す べて彼らユダヤ人たちの持っている聖書に書かれていることだったからです。そ れゆえ、パウロはこのように続けるのです。「ところで、私は神からの助けを今 日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、 預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。 つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民に も異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。(22‐23節)」パ ウロの語ってきたことこそ、まさに復活したメシアがユダヤ人にも異邦人にも等 しく与えてくださった光に他ならなかったのであると、ここでパウロは証言して いるのです。

真実で理にかなったこと

 しかし、パウロの証言はフェストゥスの声によって中断されてしまいました。 24節から27節までをご覧ください。「パウロがこう弁明していると、フェス トゥスは大声で言った。『パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おか しくなったのだ。』パウロは言った。『フェストゥス閣下、わたしは頭がおかし いわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。王はこれ らのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、 どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないも のはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられま すか。信じておられることと思います。』(使徒26・24‐27)」

 ローマ人であるフェストゥスにとって、メシアの苦難、そして死者の中からの 復活という事柄はまったく信じがたいことであったし、理解を越えたことであっ たに違いありません。まさにパウロの狂気としか思えなかったのでしょう。これ はある意味で仕方のないことであろうかと思います。死を越えた復活と来るべき 世に関わる事柄は永遠なる神に属するのであって、人間の経験には属していない からです。そして、人間の経験に属してはいない事に関する話がまったくの狂気 にしか聞こえないということは、十分にあり得ることであります。丁度、赤道直 下の南の島から一歩も出たことがない人にとって、空から氷の結晶が降ってくる (つまり雪が降る)などという話は狂気の沙汰としか思えないのと同じです。

 しかし、それでは神の救いに関わる真理は、結局理性とは無関係なところでし か捉え得ないということになるのでしょうか。神に関わることは理性を離れた神 秘的な体験においてしか知り得ないことなのでしょうか。あるいは理性を捨てて 何かを「信じ込む」しかないのでしょうか。いいえ決してそうではありません。 パウロはフェストゥスに対してこう答えているのです。「フェストゥス閣下、わ たしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話している のです。」理にかなわないことを信じ込むのは迷信です。パウロが語っているこ とは迷信とは無関係です。神は救いに関わる事柄を天に留め置かれませんでした。 具体的にこの世界の中に神の民を形成し、彼らに与えられた約束に従ってメシア を与えられたのであります。福音には筋道があります。神がこの世界に明らかに された理にかなった筋道があるのです。

 彼の語ってきたことをもう一度考えてみてください。そもそも話はパウロの抱 いている希望から始まったのでした。「今、私がここに立って裁判を受けている のは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているから です。(6節)」パウロの語っていることは、人間の最終的な救い、神の国と復 活の希望に関わることであります。神のみが支配する命の世界に生きる者とされ ることこそ、人間に与えられた救いの希望なのであります。罪と死に支配されて いる人間にとって、神を離れてどこにも救いの希望はありません。だから「悔い 改めて神に立ち帰りなさい」という呼びかけがなされるのです。

 しかし、神がこのように呼びかけられるということは、決して当たり前のこと ではありません。なぜなら、「神に立ち帰りなさい」という呼びかけは、神の赦 しを前提としているからです。神が罪を赦されるということは、決して当たり前 のことではありません。神は聖なる方であって罪を憎まれるからです。そのお方 がなおも悔い改めて立ち帰ることを求められ、罪人を赦されるのはなぜなのか。 そこでパウロは「預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと」があると言う のです。それは何でしょうか。パウロは言います。「つまり私は、メシアが苦し みを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げ ることになると述べたのです。(23節)」メシアの苦しみ、それこそが神の赦 しの根拠でありました。そして、メシアの復活、これこそ神がメシアの苦しみを よしとされ、代償として受け入れられたしるしでありました。それはまた、死人 の中からの復活の初穂であって、私たちもまたこの命に与る希望を指し示すしる しでもあるのです。

 パウロはここで単なる観念的な一つの思想を語っているのではありません。そ うではなくて、預言とその成就、ナザレのイエスというお方を通して実現した出 来事を語っているのです。それは、この歴史の中に神によって深々と打ち込まれ た楔のようなものであると言ってよいでしょう。ですから、パウロはアグリッパ 王にこう語りかけます。「王はこれらのことについてよくご存じですので、はっ きりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。 ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。アグリッパ 王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。(2 6‐27節)」預言者たちの語ったことは、この歴史の地平において実現し、こ うして復活の主はユダヤ人にも異邦人にも等しく救いの光をもたらしたのです。 神の赦しと救いの根拠がただキリストにあるのであるならば、そこにはユダヤ人 も異邦人もないからです。既に罪の代価は支払われました。人に求められている のは、悔い改めて神に立ち帰り、神と共に生き始めることだけなのであります。

 アグリッパ王はパウロに言いました。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリ スト信者にしてしまうつもりか。」するとパウロは言います。「短い時間であろ うと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべて の方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につなが れることは別ですが。」たとえ王であろうが町のおもだった人々であろうが、悔 い改めて神に立ち帰ることを知らないならばまことに不幸と言わざるを得ない。 そう確信するパウロは言うのです。「わたしのようになってくださることを神に 祈る。」私たちはここに、他ならぬ私たち自身への語りかけを聞かなくてはなり ません。すべてを失って鎖に繋がれているパウロをして「わたしのようになって ほしい」と言わしめるその福音の真理が私たちに示されました。すべての人に与 えられている大いなる光が明らかにされました。そして、「あなたはこの言葉を どう受け止めるのか、パウロと同じ道を歩むのか」と聖書は私たちに問いかけて いるのであります。

 
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