「救いに備える」
1997年11月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1ペトロ1・1‐9
本日、十一月第一聖日は「聖徒の日」と呼ばれております。この日、私たちは 故人を記念して礼拝を守ります。毎年行われますこの礼拝は「永眠者記念礼拝」 と呼ばれております。
永眠者記念礼拝だからと言って、この礼拝において何か特別なことが語られる わけではありません。いつものように今日も聖書が神の言葉として解き明かされ るのです。聖書は私たちに「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉は とこしえに立つ」と語ります。(イザヤ40・8)目に見えるものは過ぎ去りま す。この世界も過ぎ行きます。私たちの人生も過ぎ行き、必ず終わりが来るので す。神を離れて永遠なるものはありません。私たちの週毎の礼拝では、その動か し難い事実の上に立って、なお永遠なるお方に向かいます。そして、とこしえに 立つと言われる神の言葉に耳を傾けるのです。ですから今日の礼拝において行わ れていることは、いつもの礼拝において行われていることと本質においては何も 変わらないのです。しかし、死者を記念するこの礼拝においては、私たちが前提 としている事実が、もっとはっきりと意識できる時であるとは言えるでしょう。 なぜなら、こうして記念している人々はこの歴史の中において具体的な名を持っ た存在であり、私たちはその方々を知っているからであります。そして、彼らの この世における人生は確かに終わったのだという紛れもない事実が、私たちの目 の前にあるわけです。
彼らが終わりに向かって生き、代々の人々が終わりに向かって生きた。そのこ とについては、私たちもまた決して例外とはならないことを私たちは知っており ます。ですから、私たちは今日も永遠なるお方に向かうのです。亡き人を思い起 こし、偲びつつ礼拝をいたしますが、故人を拝むのではありません。神を拝むの です。こうして故人を記念する礼拝において、彼らの生涯を思いつつ、私たち自 身についてもまた終わりへの備えがなされていくのであります。
新たに生まれさせ給う神
本日、共にお読みしましたのはペトロの手紙です。この手紙には先に挙げたイ ザヤ書の言葉が1章24節に引用されております。今日はその手紙の最初の部分 をお読みいたしました。特に3節以降に心を向けたいと思っております。
この手紙そのものは、冒頭に書かれておりますように、ポントス、ガラテヤ、 カパドキア、アジア、ベティニアの各地にある諸教会に宛てられたものです。一 種の回覧状と見てよいでしょう。これが書かれましたのは既に教会に対する迫害 が激しくなり始めていた時代です。この手紙の受け取り人であるキリスト者たち は、人々からの軽蔑や嘲笑を耐えなくてはならなかっただけでなく、ある時は悪 人呼ばわりされ、あるいは不当な苦しみを強いられていたのであります。そして、 そのような困難と苦難がますます度合いを増してきていた。そのような中に生き ているキリスト者を励まし力づけるために、この手紙は書かれたのであります。 また、特に1章3節から4章11節までは、洗礼式における説教をもとにして書 かれたのではないかとも言われます。確かに私たちはそのような性格をこの文章 の中に見ることもできるでしょう。そうしますと、3節以下の言葉は、迫害や苦 難を覚悟した上で、あえて洗礼を受けてキリスト者となろうという人々にも語ら れた言葉であったと理解することができます。
いずれにせよ、苦難に直面し、あるいは経験している人々に語られた言葉の最 初が「私たちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように 」であることは注目に値いたします。ペトロはまずここで神賛美の言葉を語るの です。神賛美とは他のいかなるものに目を向けるのではなく、ただ神のみに目を 向けるところから生まれる行為であります。その神賛美へと、この読者を招くの です。共に神を賛美するように、共に神に目を向けるようにと招くのです。苦難 の中にいる人々が闇の現実に捕らえられてしまうことなく、彼らを既に照らし始 めている一条の光の方向に目を転じることができるように、まずペトロ自身が 「ほむべきかな!」と叫んでいるのです。
そしてペトロは、「神はその憐れみによって私たちを新たに生まれさせ…(3 節)」と続けます。ペトロは、神がいかなる方として私たちに関わってくださっ ているか、神が教会にいかなる救いを与えてくださっているかを語り始めるので す。神は新生を与えてくださる方です。私たちを新たに生まれさせてくださいま した。そして、今も人をみもとに招いて新たに生まれさせ給います。キリストを 信じる信仰が与えられ、信仰によって生き始めるということは、今までの人生に 何かアクセサリーのようなものが加えられることではありません。神は古いもの に継ぎ当てをするようなことをしようとしているのではありません。罪の中に朽 ちゆく存在である私たちを一時的に着飾らせるようなことを望んでおられるので はありません。永遠なる神との交わりにおける永遠なる存在へと新たに生まれさ せてくださるのです。
ペトロは神の与えてくださった新生について、特に二つのことを記しておりま す。まず第一に、神は私たちを新たに生まれさせ、生き生きとした希望を与えて くださいます。神は生ける希望の中へと私たちを新たに生み出してくださるので あります。
私たちがもともと持っていた希望は、決して「生きている」希望ではありませ んでした。その希望は、目先の問題のやや向こう側を見るようなものであって、 せいぜいこの限られた人生をいかにしてか良く生きることを望む程度のことであ りました。私たちが語る希望は、決して墓を越え、死を突き抜けるような力ある ものではなかったのであります。いわば、それは滾々と湧き出る泉の生ける水の ような生きた希望ではありませんでした。それは手で造った水溜の中によどんだ 死せる水であって、やがて干上がらざるを得ないものであったのです。避けがた い終わりに近づくならば、それらの死せる希望はどうしても失われていかざるを 得ないものであることを、私たちの誰もが本当は知っているのです。
しかし、神はそのような私たちに生ける希望を与え、その中に生きる新しい被 造物として生み出してくださいました。その希望は人の心や思いから生まれた、 根拠のない単なる気休めの言葉ではありません。神は具体的にその憐れみをこの 世界の中において示されたのです。「死者の中からのイエス・キリストの復活に よって」この希望を与えてくださったのであります。神はこの歴史の中に現れた 一人の御人格において、来るべき世の栄光を現してくださいました。その来るべ き世の栄光を仰ぎ見る確かな希望に生きる新生を、神は私たちに与えてくださっ たのです。
そして、さらにペトロは、「また、あなたがたのために天に蓄えられている、 朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」と語りま す。ここで語られているのは「相続財産」のことです。この世において相続する 財産については、多くの人々が多大の関心を払います。しかし、それらは相続し たとしても、本当の意味では私たちの「所有」とはなりません。この世に属する ものは私たちの所有とはならないのです。それは、ここで記念されている人たち がすべてを置いて世を去ったことから明らかです。相続したものはやがて誰かに 相続されます。そしてその過程において、やがてはいかなるものも朽ちていき、 汚れていき、しぼんでいきます。永遠なるものはありません。
私たちにとって本当に受け継ぎ所有することができるのは、来るべき世におい て受け継ぐものだけです。それは既に私たちのために「天に蓄えられている」も のです。それは私たちが積み立てたものではありません。相続財産の比喩がその ことをよく表しています。私たちが自分の功績によって受ける資格を獲得したわ けでもありません。ただこれは神の憐れみによってであります。神が相続者とし て新たに生まれさせてくださったのであります。
そして、ペトロはさらに「あなたがたは…守られています」と語ります。永遠 の希望を与えられ、神の国を受け継ぐ者とされた。しかし、その救いに与るのは 先の話であります。それは嵐のガリラヤ湖を向こう岸に向かって漕いでいるよう なものです。途中で沈んでしまうのではないかと思ってしまう。自分自身を考え る時に、その信仰の歩みはあまりにも不確かに見えることもあるでしょう。しか し、ペトロは言うのです。「大丈夫。神が守ってくださる!」私たちは「神の力 により」守られて生きるのです。最終的に救いの成就を見るまで、守られて生き るのです。その神の力の通路となるのが「信仰」です。ですから「信仰によって (直訳は「信仰を通して」)」と語られているのです。要するに、そこでもやは り私たちは自分に目を向けるのではなく、神を仰ぎ続けるのです。神に信頼し、 神を仰ぎつつ、終わりの日に向けて自らを備えるのであります。
信仰生活における試練
このように、ペトロはまず神に目を向けるところから書き始めています。しか し、神に目を向けることは、単に現実の厳しさから目をそらして自らを誤魔化す ことを意味してはおりません。むしろ、神に向かうことにより、現実のありのま まを正しく受け止めることが出来るようになるのです。ペトロは言います。「今 しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが…」信仰者 となったら災いは及ばず、悲しみも悩みもたちどころに解決するかのように語る まやかしの言葉に惑わされてはなりません。神はキリストにおいて既に決定的な 勝利を取っておられますが、未だこの地の上には、罪と死が、神から人を引き離 して滅ぼさんとする地獄の勢力が、今なお力を及ぼして支配しているのです。こ の世においては私たちはあくまでも仮住まいをする者であって、永遠の安息の地 はここにはありません。世の人であっても悩みと悲しみを背負いながら墓に向か って生きなくてはならないのであるならば、ましてや神に属する者として永遠の 都に向かう巡礼者ならばは「様々な試練」を経験せざるを得ないのです。
しかし、ここで彼は「今しばらくの間」と語ります。永遠ではないのです。永 遠に神が支配し給う来るべき世を思うならば、私たちの経験する試練は一時に過 ぎません。そして、その一時の試練には意味があります。無意味ではありません。 ペトロは何と言っているでしょうか。「あなたがたの信仰は、その試練によって 本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、 イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。 (7節)」
ここで単なる「避けがたい苦しみ」について語られているのではなくて、「試 練」について語られているということは、なんと素晴らしいことでしょうか。 「試練」という言葉は、テストを意味する言葉であって、金属の精錬に関係しま す。ここに純金の塊があるとします。それはもともと純金であったのではありま せん。金鉱が破砕され、粉砕され、選鉱され、最終的に火によって精錬されて不 純物が取り除かれ、テストを経て純金であることが明らかにされるのです。こう して純粋なものとして人の前に現れるのです。今、「純粋なものとして現れる」 と言いましたが、そう訳してもよい言葉がここでも用いられております。「本物 と証明され」と訳されている言葉です。金はそのように精錬され純粋にされても やがて朽ちていきます。神はもっと尊いものを造り出そうとしておられる。それ は純粋な信仰です。精錬された金と対比されていることを考えますと、試練は信 仰のテストであると同時に、不純物を取り除き純粋さを与えるプロセスでもある と言えるでしょう。考えて見れば、私たちが信仰と呼ぶものは往々にして不純物 だらけなのです。不純物は取り除かれなくてはなりません。そのためには火を経 る過程が必要なのです。しかし、プロセスはあくまでもプロセスなのであって、 永遠に続くのではないのです。神の目的はその先にあります。神は最終的に称賛 と光栄と誉れを与えようとしておられるのであります。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じてお り、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あ なたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。(8‐9節)」 神によって永遠の希望に生きる者とされ、神の国を受け継ぐ者とされ、神の守 りのうちにあって試練を精錬のプロセスとして生き始めている人は、その救いの 実現は未来であるにしても、既に「救いを受けている」と言うことができるでし ょう。その救いは「魂の救い」と呼ばれているからと言って、これを単なる「精 神的な救い」と誤解してはなりません。私たちはともすると「あなたの慰めの言 葉によって救われました」などと言って「救い」という言葉を軽々しく使います が、既に見てきましたように、聖書が語っている救いとはそのようなものではあ りません。「魂」が指すのは自分自身の全存在であって、その自分自身の救いが、 既に与えられていると言うのです。聖書の他の表現で言うならば「永遠の命」と いうのに近いと考えてよいでしょう。その救いは既に与えられているゆえに、様 々な試練の中にあってなお「言葉では言い尽くせないすばらしい喜び」に満ち溢 れて生きることを可能とするのであります。
こうして既に一生を終えられた方々を記念しつつ神を礼拝します時に、今なお 私たちがこの世に時を与えられ生かされていることの厳粛さを思います。私たち は、その時の間を既に救いを受けている者として生きるのです。神の与え給う喜 びに与りつつ、神が私たちに与え給ういかなる過程をも真実に受け止めながら、 終わりの日に現されるべく備えられている救いに向けて、自らを備えていきたい と思います。やがてその時が必ず来るからです。