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「嵐の中で」 

1997年11月9日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒27・1‐26

 27章に入りました。パウロは二年に渡るカイサリアでの獄中生活を終え、ロ ーマに護送されることになります。ここからは旅の細かい描写を中心として物語 が綴られていきます。1節に「わたしたち」という言葉が現れてきますので、こ の旅にルカが伴っていることが分かります。彼は自らの旅日記をもとにして、こ の箇所を書き記しているのでしょう。今日お読みしたところに明らかなように、 この旅は決して平穏無事なものではありませんでした。彼らは難船によって死に 瀕する経験をするのです。その旅に伴った者による記録であることを考えますと、 ここに書き記されている一つ一つの言葉がずっと重みをもって私たちに迫ってま いります。ルカはそこで何を見たのでしょうか。そして、その出来事の描写を通 して、何を私たちに伝えようとしているのでしょう。

向かい風による難航

 初めに1節から8節までを御覧ください。パウロの護送に当たったのは、皇帝 直属部隊の百人隊長ユリウスという人物でありました。他の数名の囚人も彼に託 されたようです。彼らはカイサリアからアドラミティオン港の船に乗って出航し ました。そして翌日、船はまずシドンに寄港いたします。ここでパウロはシドン のキリスト者たちとの交わりを許されました。ローマの市民権を持っているパウ ロが、百人隊長ユリウスからも好意的な扱いを受けていることがわかります。そ の後、間もなく船は出航しましたが、ここで船は向かい風に遭います。これは西 から吹く季節風であったと思われます。そのため船は北上し、キプロス島の北側 に向かい、キリキア州とパンフィリア州の沖において陸の方から吹きおろす風に よって西に向かったのでした。この船旅は難航したようで、船はリキア州のミラ に停泊することになります。ミラは風のために航行できない船の避難所ともいえ るような港でありました。恐らくこのミラへの寄港は予定されていたものではな かったと思われます。しかし、ここで百人隊長はイタリアに行くアレクサンドリ アの船を見つけることができ、パウロたちを乗り込ませました。これはアレキサ ンドリアとローマとの間の穀物取引に従事した船舶であったようです。ところが、 この船もまた強い北西の風のため船足がはかどりません。やっとのことでクニド ス港に近づきました。しかし、そこでも彼らは風に行く手を阻まれます。結局、 船はサルモネ岬を回ってクレタ島の陰を航行し、島の岸に沿って進むことになり ました。そしてようやくラサヤという小さな町に近い「良い港」と呼ばれる所に 着いたのです。

 さて、ここまで読んで気付きますことは、ルカがしきりに「風」に言及してい ることであります。風によって航路が変更され、あるいは決定され、それによっ て当初の予定通り事が進んでいかないのであります。それは原動機を持たない帆 船であるならば、決して不思議なことではなく、むしろ当たり前のことでありま す。地中海の航路においては、このようなことはいくらでも起こり得たことなの でしょう。しかし、この物語がさらに暴風の中で翻弄される人間の描写へと進ん でいくことを考えますと、これがただ単に当たり前の出来事の記録としてルカが 記しているのではなさそうです。実際、この27章全体の展開において「風」が 主要な役割を演じているのです。

 言うまでもなく、ここに語られている「風」は自然の力です。自然の力という のはまた、人間の手によってはどうすることもできない諸力の代表であるとも言 えるでしょう。この物語では、その力によって進む方向が左右されているのです。 現代においては、このようなことはないかもしれません。風のことだけを考える ならば、原動機が船に付けられることによって解決されたと見てよいかと思いま す。しかし、人の力を越えた力によって方向が左右され、予定が変更され、決し て思い通りにことは進まないという人間の現実は、ある意味で古代においても現 代においても少しも変わりないと言うこともできるでしょう。そうしますと逆風 に悩む帆船を繰る人間の姿は、あの時代の姿と言うよりも、あらゆる時代を通じ て変わらない基本的な人間のありようを象徴しているようにも思えます。人間は いつの時代であっても、自分が人生の主人であるかのように、歴史の主人である かのように、傲慢に振る舞って生きているわけですが、実際は主人になり得たこ となどないのです。いつでも様々な風によって進路の変更を余儀なくされ、振り 回されてきたのであります。もちろん、私たちもまた例外ではありません。私た ちはここに、私たち自身の姿を見るべきであろうと思います。

暴風に襲われる

 次に9節から20節までをお読みしましょう。「かなり時がたって」と書かれ ていますが、これは予定より船旅がかなり長引いているということでしょう。既 に断食日を過ぎていたので、航海が危険な季節となっていました。「断食日」と いうのは、旧約聖書レビ記16章29節に規定されている大贖罪日の前の五日間 でありまして、今の暦では9月末から10月初めに当たります。そこでパウロは 人々に忠告を与えます。「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷 や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大な損失をもたらすことにな ります。(10節)」これはパウロの特別な預言の賜物というよりは、一般的な 常識からの発言と見てよいでしょう。あるいはパウロは三回も難船したことがあ るので(2コリント11・25)、その経験からの忠告かもしれません。しかし、 このパウロの言葉は受け入れられませんでした。船長や船主が航海を続けること を主張したからです。また大多数の者たちも、そこから70キロ足らずの距離に あるフェニクス港に行き、そこで冬を過ごすことを求めました。そこは冬を過ご すにはより適しているように思われたからです。

 ここで神の御心によってローマに向かっていると信じているパウロが慎重意見 を出し、同船している人々の方がむしろ積極的な意見を出していることは大変興 味深いことです。信仰的であるということと無謀であるということは異なります。 また、いわゆる「積極的思考」と、パウロの抱いている「信仰」とはまったくの 別物です。「出来ると信じれば出来るのだ」という思考は、パウロの内には微塵 もありませんでした。確かにパウロはやがてローマの地に自分が立つことを信じ ています。それは神の御心であるゆえに必ず実現することを信じているのです。 しかし、だからこそ彼は「進んでも大丈夫だ」とは言わずに、「待つべきだ」と 言うのであります。

 結局、百人隊長は航海の続行をすべく決定を下しました。「ときに、南風が静 かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島 の岸に沿って進んだ(13節)」と記されております。また「風」の話です。そ れは順風でした。機会を捕らえることは大切です。しかし、その時点で彼らに欠 けていたものがありました。それは自らがその手の及ばない様々な力のもとに生 きているのだという認識であり、そこから生まれる謙虚さであります。「人々は 望みどおりに事が運ぶと考えて」錨を上げたのだ、と聖書は語ります。(この翻 訳は原文のニュアンスをよく伝えています。)しかし、彼らの姿は何と私たちに 身近なことでしょう。私たちもまたいつの間にか同じことを考えているのです。 「望みどおりに事が運ぶと考えて…」。私たちは実に根拠もなくそんなことを考 えているものです。ちょっとした順風が吹くとそんなことを考えてしまうのです。

 しかし、事は人間が考えたり望んだりするようには運ばないものです。突然、 嵐が起こりました。「しかし、間もなく『エウラキロン』と呼ばれる暴風が、島 の方から吹き下ろして来た。船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことがで きなかったので、わたしたちは流されるにまかせた(14‐15節)」と書かれ ております。

 さて、人は嵐のような大きな力に翻弄され、その身に危機が及ぶとき、いった い何を考えるものでしょうか。ルカは次のように書き記しております。「しかし、 ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、三日目に は自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。幾日もの間、太陽も星も見えず、 暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。 (18‐20節)」ここに描かれている人間の姿を通して、私たちは様々なこと を考えさせられます。初めは船主が「積み荷を守れ!」と叫んでいたに違いあり ません。必死で積み荷と船を守ろうとしたことでしょう。それを失ったら大きな 損失となるのですから。しかし、やがて人々は積み荷を捨て始めたのです。船主 も船長もまた手ずから積み荷を投げ捨てたことでしょう。

 嵐の中で、大切に思えたものがいざというとき邪魔にしかならないことに気付 くものです。自らの命が危機に曝される時に、人は本当に必要なものはそれほど 多くはないことに気付かされるのであります。ある大金持ちがその余命幾ばくも ないと知らされた時、「全財産をやるから寿命を延ばしてくれ!」と叫んだとい う話を、以前何かで読んだことがあります。この世の命が問題になった時であっ ても、人は何が大切であり何がそうではないかを考えるものです。しかし、考え て見るならば、命が問題となる時は誰にでも必ず訪れるのであります。自分の存 在が危機に晒される時は、必ず来るのです。先の大金持ちの話ではありませんが、 その時に初めて何が大切であるかを考えるのでは、まことにお粗末であると言わ ざるを得ないでしょう。いや、さらに言うならば、その時にはただ単にこの世に おける生死が問題となっているのではなくて、永遠の命が問題となり、救いか滅 びかが問われる時でもあるのです。自分は何に執着しているのか。それは本当に 執着する価値あるものなのか。何を本当に大切にしているのか。何が最終的に必 要であるのか。私たちはこの船の上の人々の姿を思いつつ、よく考えてみる必要 があろうかと思います。

神の励まし

 さて、不必要なものを投げ捨て、為し得ることを最大限に為して、なお幾日も の間暴風に翻弄されていた彼らに、ついに助かる望みは全く消え失せようとして おりました。人は自分の手で自分を救えないとなると、もはや望みを失わざるを 得ないのです。しかし、そのような絶望した人々と共に、一人の人物が立ってい ます。パウロです。彼は他の人々とはまったく異なる姿で立っているのです。彼 は言います。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなけ れば、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。しかし今、あなたが たに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命 を失う者はないのです。わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたし のそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に 出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任 せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信 じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、 必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。(21‐26節)」

 ここで大切なことは、望みを失っている彼らに、パウロが神のことを語ってい るということです。いわば水平の方向で望みを失っている人々に対し、垂直の方 向の事柄を語っているということなのです。人間の手に負えない力に翻弄されて いる人々に対し、それらの力さえもその上から支配しているもっと大きなお方に ついて語っているということなのです。そのお方をパウロは知っているのです。 その方は、パウロが「わたしが仕え、礼拝している神」と呼んでいる方だからで す。神とのそのような関係に生きてきたのです。だからパウロはここで共に望み を失う者ではなくて、むしろ人々を励まし希望を与える者となっているのです。

 「天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。…」天使がどのよう な姿で立ったのか、それが幻だったのか夢だったのか、よく分かりません。しか し、一つのことだけは分かります。人々が嵐の中で自分を救うことに必死になり、 やがてその望みすら失っていったその時に、パウロは静かに神に向かっていたと いうことです。天使が現れた云々よりも、パウロと人々との決定的な違いはここ にあったとも言えるでしょう。パウロはそこで御使いを通して語られる神の「恐 れるな」という言葉を聞いたのであります。彼にもまたその言葉が必要であった のでしょう。彼もまた嵐の中にありました。彼もまた恐れの中にありました。し かし、彼は「恐れるな」という天からの言葉を聞いたのであります。

 神に仕え、神を礼拝する者が、そのゆえに嵐を免れるということはありません。 神に仕え、神を礼拝する者もやはり同じように嵐に遭うのです。恐るべき状況に も置かれるのです。同じように風に翻弄されるのです。恐れることもあるでしょ う。この世における望みがまったく失われてしまうこともあるでしょう。しかし、 神に仕え、神を礼拝する者は、そこでもなお神に向かうのです。ひたすら神を待 ち望むのです。そして、神からの「恐れるな」という言葉を聞くのであります。 そのように神からの「恐れるな」という言葉を聞いた者が、また世に対して垂直 の次元の事柄を語ることができるのです。

 この嵐の中のパウロの姿は、また嵐の吹きすさぶこの世界のただ中に置かれて いる教会のあるべき姿と言えるでしょう。私たちは嵐の中でこの世の人々と一緒 に翻弄されて望みを失ってしまってはならないのです。それはただ単に私たち自 身のためだけではありません。私たちが神に仕え、神を礼拝し、神を待ち望み、 神の言葉を聞くのは、私たち自身のためだけではないのです。神の言葉を聞き、 神の言葉によって立ち上がり、神の言葉をこの世界に語り、嵐を支配し給う神に よる希望を明らかにするのは、この世に置かれている私たちの負うべき責任なの です。神の支配を現すべくこの世に置かれている教会に与えられている責任なの であります。

 
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