「暗い夜が明けて」
1997年11月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒27・27‐28・10
先週お読みした物語を少し振り返って、本日の内容に入りましょう。クレタ島 沖において「エウラキロン」と呼ばれる暴風に巻き込まれた船は、幾日も海上を 漂うこととなります。人々は積み荷を海に捨て始め、船具までを投げ捨てて船と 自らを救おうといたしました。しかし、来る日も来る日も暴風が激しくふきすさ び、太陽も星も見えないので自分たちがどこにいるのか、どこに向かっているの かさえ分かりません。ついに彼らは助かる望みをまったく失ってしまいました。 しかし、そこでパウロが人々のただ中に立ち上がります。彼は言いました。「わ たしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言わ れました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。 神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』で すから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げ られたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上 げられるはずです。(27・23‐26)」彼は暴風の中で望みを失ってしまっ た人々に対し、暴風をさえ支配しておられる方のことを語り始めるのです。神か らの「恐れるな」という語りかけを受けたパウロであるからこそ、彼は人々に対 して「元気を出しなさい」と語るのであります。
静けさと平安
今日お読みした箇所はその続きです。船がアドリア海に漂って十四日目の夜、 真夜中頃船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じました。経験を積 んだ彼らの耳は、確かに波が岩に当たって砕け散る音を聞き分けたのでしょう。 そこで水深を測ってみると20オルギィア(約37メートル)ありました。少し 進んでまた測ってみると15オルギィア(約28メートル)となっています。船 がかなりの速度で陸に近づいていることは明らかでした。しかし、暗礁に乗り上 げてしまっては大変です。そこで彼らは船尾から錨を四つ投げ込み、船が進むの を止め、夜の明けるのを待つことにしました。ところが、船員たちは船首からも 錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしていたのです。彼らは自分たちだけ船か ら逃げ出そうとしていたのでした。その企ては発覚するところとなり、パウロは 百人隊長と兵士たちに告げます。「あの人たちが船にとどまっていなければ、あ なたがたは助からない。」そこで兵士たちは、綱を断ち切って小舟を流してしま いました。
その後の33節以降には、大変印象的な場面が描かれております。今日は特に この場面に注目したいと思います。
暗く長い夜が明けかけていたころ、パウロは一同に食事をするように勧めまし た。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごして きました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからで す。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。(33‐34 節)」こう言ってパウロは一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてか ら、それを裂いて食べ始めました。この「パンを取り」「感謝の祈りをささげ」 「(パンを)裂いた」という三つの言葉は、実は主イエスが十字架にかけられる 前に弟子たちとなされた最後の晩餐の場面に出て来る言葉です。つまり、明らか にルカは、これを主の晩餐と重ね合わせているのです。もちろん、その船に乗っ ていた殆どの人はキリスト者ではなかったでしょうし、この食事がそのまま聖餐 であるというわけではありません。しかし、それにもかからわず、あの長い夜が 明けようとしていたその時になされた食事は、ただの食事ではなくて、キリスト の臨在のもとにあって心を一つにした祈りと礼拝を暗示するものであった。その ように言うことができるだろうと思います。そのような食事によって彼らは元気 付き、十分に食べてから穀物を海に投げ捨てて、上陸に備えたのでした。
さて、この場面が意味するところを理解するためには、状況を正確に捉えてお く必要があります。船がようやく陸に近づいてきたので、人々はやっと安心して 食事を取ることができた。一見するとそんな様子に見えないこともありません。 しかし、前後を注意深く読んでいきますと、そうではないのです。その後の41 節には次のように書かれています。「ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかっ て船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊 れだした。」まだ、決して風は止んでおらず、船尾を壊すほどの激しい波を起こ していることが分かります。そして、注目すべきは、真夜中における船員たちの 大変奇妙な行動です。彼らは船から逃げ出そうとしたと書かれていました。いく ら陸地が近づき、水深が浅くなってきたとは言っても、真夜中の闇夜をあてども なく漕ぎ進むということは、いくら何でも無謀な行為です。暗礁もあるでしょう し、海は相変わらず荒れているのですから、そこに小舟を出すということは自殺 行為に等しいと思います。はたしてそんなことを経験ある船員たちがするでしょ うか。ということで、これはパウロかもしくはこれを書いたルカが誤解したので はないかと理解する学者もいるのです。しかし、わたしはやはり聖書に書いてあ るとおり、彼らは逃げ出そうとしたのだと思います。ということは、船員たちは 逃げ出すほうがまだ安全だと考えていたということになります。つまり、船が夜 明けまではもたないかも知れないと考えたということです。船の一部が既に破れ そうになっていたということでしょう。そして、事実、そのことを裏付けるかの ように、先ほど読みました41節には「船尾は激しい波で壊れだした」と書かれ ているのです。船尾が暗礁に当たって破壊されたというのではないのです。波で 壊れたということは、もはや持ちこたえない状態になっていたということです。
要するに、これらのことを総合しますと、夜明けを待つ長い夜は、もはや助か ることが確実になったという状況ではないのです。むしろ、助かるか助からない かという狭間に立って、不安と恐れのために皆が心休まることなく、ひたすら夜 明けを待ちわびていたという状況であったことが分かるのです。そして、さらに 言うならば、ここで人々が助かったということは、まさに「間一髪」の救出劇で あって、少し間違えば全員命を落としていたという場面なのです。
そのように理解して初めて、33節以下に記されている出来事の意味するとこ ろが明らかになってまいります。この場面には不思議な静けさと平安と希望に満 ちています。それは今まで見てきましたように、助かることが確実となったゆえ の静けさと平安ではないのです。未だ嵐の中にあり、闇の中にあり、命の危険の 中にあるのです。先はまだまったく見えていないのです。そうすると、ここに書 かれているのは、決して当たり前の出来事ではないのです。特別なことがそこで 起こっているのであります。
私はかつて学生時代に演劇をやっていたことがありますので、聖書のこのよう な箇所を読みます時に、しばしばこれが劇であるならばどのような舞台になるだ ろうかということを考えます。闇の中に吹きすさぶ風の音、波の音がすーっと消 えていって無声になる。静けさが舞台を覆うと、そこに光が差し込んでパウロを 中心として立っている人々を照らし出す。それは夜明けの光というよりも、天か らの淡い光であって、その方向にパウロは顔を上げて感謝の祈りをささげる。一 同も心を会わせて祈っている。あたかも彼らの命が風前の灯火となっている嵐吹 き荒れる空間の中に、もう一つのまったく別な空間が開けているような、そんな 舞台になるのではないかと想像いたします。
ルカはそのような特別な出来事を記すことによって、いくつかの大切なことを 示しております。第一に、既に嵐が去ったわけでもないし、危険な状況が過ぎ去 ったわけでもないのですが、パウロがパンを裂いて感謝の祈りを捧げているその 時に、そして皆が自分の命を救うことにあくせくすることを止めてその食事に与 っている時に、そしてただ黙して待つしかないその時に、もはやその他のことを 何一つ為し得なくなっているその時に、実は確実に一歩一歩救いは近づいていた のだということであります。遅れることなく、滞ることなく、確実に救いの時は 近づいていたのであります。いや、ただ救いの時が近づいているというだけでは なく、既に彼らは救いの中にいるとさえ言うことができます。まだ夜が明けてし まったわけではない、朝になっているわけではありません。しかし、パウロが感 謝の祈りを捧げているその時に、共に神を仰いでいるその時に、彼らは既に朝の 光の中にいるのです。何一つまだ起こってはいないのだけれど、彼らは既に救い の喜びの中にいるのです。「一同も元気づいて食事をした。」いい言葉ではあり ませんか。それはパウロが既に語った「元気を出しなさい」という言葉に基づく ものであって、神からの元気であり、神の救いの先取りによる元気に他ならない のであります。嵐と危険のただ中で、その元気に彼らは既に与っているのです。
先にも言いましたように、ルカはこの食事をただの食事として描いておりませ ん。この食事の中に、キリストの臨在のもとにある共同の食事、キリストの御名 のもとにある心を合わせた祈りと礼拝が重ね合わされております。ルカはそのよ うに描くことによって、また嵐のような試練の中にある教会の状況を重ね合わせ ているのかも知れません。たとえ彼がそこまで意識していなかったとしても、こ こに書かれている事柄はまた、代々の教会が、聖餐におけるキリストの臨在のも とで、共に心を合わせてささげる礼拝と祈りにおいて経験してきたことに他なら ないのであります。先に、「嵐吹き荒れる空間の中に、もう一つのまったく別な 空間が開けているような」と表現しました。それが私たちのただ中にも起こるの です。人は嵐の中にあっても、既に神の支配したもう揺るぎない平安と静けさと、 救いの喜びと先取りした元気に与ることができるのです。逆に、「船が沈没しそ うなこの状況において、食事などしておられるか、祈ってなどいられるか、礼拝 などしておられるか」と言っている人は、残念ながらこの恵みを知ることはでき ないのであります。
真の主人公なる神
物語に戻ります。朝になり、彼らは砂浜のある入り江を見つけ、そこに船を乗 り入れることにしました。ところが浅瀬にぶつかって船を乗り上げ、波によって 船が壊れ出しました。兵士たちは囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと図 ります。それがそのまま実行されていたら、パウロもまた殺されていたことでし ょう。しかし、百人隊長の計らいで、この計画はおもいとどまらせられました。 そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板きれや船員につか まって泳いでいくことになります。そのようにして、全員が無事に上陸したので した。
28章に入りますと、彼らが打ち上げられた島での様子が記されております。 その島はマルタと呼ばれる島でした。島の住民が大変親切にしてくれたと書かれ ています。彼らが、降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいてくれた時、パウ ロが一束の枯れ枝を火にくべるとそこから出てきた蝮がパウロの手に絡みつきま した。ところが、パウロはその蛇を火の中に振り落として、何の害も受けなかっ たのです。これを純粋に奇跡と見てよいかどうかは議論の分かれるところです。 毒のない蛇だったのかも知れませんし、深く噛まれていなかっただけかも知れま せん。しかし、それは重要なことではなく、ここに書かれていることは、ルカに よる福音書において主イエスが次のように語ったこととの関連で見てよいでしょ う。「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあな たがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。(ルカ1 0・19)」つまり、この出来事の中に、神からの権威と力が現れているという ことであり、主が弟子たちに約束した神の支配のしるしが、パウロにおいても実 現しているということであります。
それは続いて起こる出来事を見てもよく分かります。その場所の近くに住んで いたプブリウスという島の長官が、パウロたちの一行を手厚くもてなします。そ こで、「ときに、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロ はその家に行って祈り、手を置いていやした(8節)」と書かれております。ま たこのことのゆえに、島のほかの病人たちもやってきて、いやしてもらったと言 うのです。このようなパウロによるいやしの働きは既に様々な場面で見てきまし た。そして、それらが神の支配を現し、神の国を指し示すしるしであるというこ とも見てまいりました。つまり、ここで様々な奇跡やしるしが描かれていること によって明らかにされていることは、この場面の中心はパウロではないのだとい うことなのです。中心は神であり、神の救いの働きなのであります。この物語の 真の主人公は神御自身なのです。
そうしますと、今まで見てきた嵐の中での出来事についても、やはり同じこと が言えるということが分かります。この全員救出という出来事もパウロの英雄的 な勇気や、決断力や判断力に帰してはならないということです。また、もちろん 嵐に遭ったことが不運であり、助かったことが幸運であったということでもあり ません。パウロを通して現れているのは、生ける神の御支配なのであります。パ ウロを召し、その御計画のもとにローマにまで行かせようとしておられる神が、 この一連の出来事をも御支配の内に導いておられるのです。
そして、使徒言行録を読んでいます私たちがこの物語を読んで気付かなくては ならないことは、様々な出来事の中で私たちもまた同じこの神の御支配の内にあ るのだということであります。やがて完全に現れて私たちに救いをもたらす神の 支配の内に、私たちは生かされているのだ、ということなのです。そのことを信 じ、告白して生きるところに、「御国を来たらせたまえ」と祈りつつ神を礼拝し て生きる私たちの生活があるのです。