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「いつも目を覚まして」

1997年11月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ21・25‐36

 今日からアドベント(待降節)に入ります。教会歴においては、この日から新 年が始まります。この「アドベント」という名前は、ラテン語の「アドベントゥ ス(adventus) 」に由来するものでありまして「到来」を意味します。もちろん 「到来」とは「キリストの到来」に他なりません。つまり、かつてイスラエルの 民がキリストを待ち望んだことを覚える時であると同時に、終末におけるキリス トの再臨を覚える時でもあるわけです。そうしますと、この期間は教会歴の一年 冒頭に置かれておりますが、内容的には「始まり」よりも「終わり」に深く関わ っている期間であると言えるでしょう。

 ところで、私たちが使う「終わり」という言葉は二通りの意味合いを持ち得る 言葉であります。目指していたこと、あるいは待ち望んでいたことが成就し、新 しい始まりとなる「終わり」、つまり一つのゴールと言える「終わり」がありま す。しかし、もう一方で、すべてが水泡に帰し、それまでが無意味となってしま う破局としての「終わり」があります。例えば身近なところで入学試験を考えて みてください。一つの達成として試験を終えた者が「終わった!」と叫びますの と、まったく手が着かない白紙の答案を前にして「終わりだ…」と呟くのでは 「終わり」の意味合いが全く違います。同様なことは、一回の試験よりももっと 大事なことについても言えるでしょう。人生の終わりについても然り。世界の歴 史の終局についても然り、です。そして、この二通りの「終わり」について誰も が知っていますことは、どちらの終わりにしても現在が深く関わっているという ことです。現在と無関係な終わりなどありません。終わりのあり方というのは、 現在に対する審判がそこでなされるのだ、ということも言えるだろうと思います。 現在が終わりを決定するのであります。

 そこで終わりを見つめつつ現在を思うべき時が、アドベントと呼ばれるこの期 間であると言えるでしょう。そこで今日はそのアドベントの第一主日の礼拝にお いて、キリストが語られた「終わり」についての言葉に耳を傾けたいと思うので あります。

エルサレムの滅亡

 今日はルカによる福音書21章25節からお読みしました。しかし、その箇所 をより良く理解するために、少し前の20節以下にまず触れておきたいと思いま す。そこでキリストは一つの「終わり」と言える出来事に言及しております。 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさ い。(20節)」それはキリストが語られた約40年後に現実となった歴史的な 出来事です。

 使徒言行録12章に、ヘロデ・アグリッパ一世が出てきますが、彼はユダヤ人 たちの意向を重んじたので、それまでのローマ総督支配に比べると、彼の治世は 比較的平穏でありました。しかし、使徒言行録12章23節にありますように、 彼は急死いたします。紀元44年のことです。それから再びユダヤはローマ属州 として総督支配下に置かれることになりました。そして、時の総督たちはユダヤ 人の宗教的感情を逆なでするような行為や失政を繰り返し、ユダヤ人たちの間に おける反ローマ感情は一気に高まっていったのです。その結果、ついに紀元66 年、熱心党や祭司長たちを中心として事態は第一次ユダヤ戦争へと突入したので した。ローマは内乱のため平定に手間取ることになりますが、ついに70年、エ ルサレム陥落と神殿の炎上をもって反乱は鎮圧されるに至ります。まさに主が語 られた通り、エルサレムは滅亡し、神殿は崩れ去ったのでした。

 さて、このような破局的出来事の中では、世の終わりにまつわる熱狂主義が起 こるものです。それは現代にもしばしば起こることですから、想像は着くでしょ う。しかし、主はこのエルサレムにおける出来事と、世の終わりとを混同するこ とはありませんでした。むしろ主はここで「異邦人の時代(24節)」に触れる のです。福音は異邦人に向けられていく。そして、悔い改めへの呼びかけと救い への招きは異邦人に語られていくのです。そして、その「異邦人の時代が完了す るまで」という期間があるのです。その上で終末における出来事に触れるのであ ります。これは、特にエルサレム陥落前後の教会にとって、これは大切な認識だ ったに違いありません。今日の私たちにとっても大切な認識です。歴史的な出来 事とこの世の終末とを単純に結びつけてはならない、ということです。むしろあ る定められた時代が完了して(直訳すると「時が満ちて」)終わりが来るのであ り、その完了へと向かうある定められた期間の中に自分がいるのだ、という認識 が大事なのです。つまり「様々な出来事から『終わりの時』をどのように知るか 」ということに中心があるのではなく、「今をいかに生きるべきか」ということ に中心があるのです。

世の終わり

 さて以上のことを踏まえた上で、この25節以下をお読みしたいと思います。 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、 諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるの かとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからであ る。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は 見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなた がたの解放の時が近いからだ。(25‐28節)」

 主は、世界の終末を「崩壊する世界」として、二つの表象をもって描いており ます。第一は天体における徴です。古代の人々にとって天体とは不変の秩序に従 った信頼できるものの代表でありました。いわば何によっても揺り動かされざる ものの代名詞であったわけです。しかし、その「天体が揺り動かされる」と主は 言われます。これは何を意味するのでしょうか。何一つ信頼に値するものはなく なるということです。人間が確かなものと考えていた全てのものが崩壊するのだ、 ということであります。第二は海における徴です。「海がどよめき荒れ狂う」と はいったい何を意味しているのでしょうか。古代の人々にとって海とは原初の混 沌をもたらす力でありました。ここではその混沌の力が解き放たれるということ が語られているのです。すなわち、これら二つの表象をもって、この世界の秩序 が崩壊し混沌となることを主は語っておられるのです。

 キリストは、明らかに、科学と文化における発達に伴って人類が成熟しその社 会が秩序を保った理想社会となっていくという楽観的な歴史観を持ってはいませ んでした。それはこの世界の諸問題が、単に人間の未成熟な無知や愚かさによる のではなく、神に逆らった人間の罪に由来することを誰よりも良く知っていたか らに違いありません。人間の内にある深刻な罪の問題をないがしろにして、単に 体制が変われば、社会の構造が変われば人間は救われるというような幻想を主は 語られませんでした。「みんなが手をつなげば世界はうまくいくのさ」というよ うな甘い夢想を語られませんでした。そこにあるのは人間の罪とその結果を見つ める徹底的なリアリズムです。まさにユダヤ人の罪がエルサレムの崩壊を招いた ように、同じことがこの世界全体に起こる。これがキリストの語られた終末の世 界でありました。

 しかし、それは単なる破局で終わるものではありません。そこで主はさらに言 われるのです。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る のを、人々は見る。(27節)」最後の審判者が到来するのです。これを教会は 「キリストの再臨」と呼んできました。「雲に乗って」という表現はダニエル書 から来ています。(ダニエル7・13)その意味するところは、地に属する者と してではなく天からのお方として来られるということです。超歴史的存在として、 超自然的存在として、神の権威を帯びて来られるということであります。そして、 正しい裁きをなして神の支配を完全な形で確立されるのであります。この世界の 救いと回復は正しい裁きと共に歴史を超越したところから来るのであります。 「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。」私たちが週毎 に告白していることが実現するのです。

 「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたが たの解放の時が近いからだ。(28節)」終末は単なる破局や恐怖の対象ではあ りません。そこで私たちは頭を上げることができるのです。最後の審判者が、か つて十字架にかかられ私たちの罪を贖ってくださった方であると知る者は、そこ で頭を上げることができるのです。十字架にかかられた方の御名によって罪を赦 され、神に立ち帰り、神と共に生きてきた人、そして神の支配の完全なる現れを 待ち望んでいた人は、そこで身を起こして頭を上げることができるのです。それ はその人にとって待ち望んでいた救いの日に他なりません。もちろん、正しい審 判もそこにあります。自分が中心であると思っていた人、自分を基準として他者 を裁いて生きてきた人は、決して自分が中心ではなく、自分が裁かれる存在であ ることを思い知らされることになるでしょう。人間は人生の主人でも歴史の主人 でもないことが明らかにされる時となるでしょう。それは自らが主人であると思 っていた人にとっては確かに恐るべき時となるでしょう。

 そこで私たちの多くはやはり問いたくなります。果たしてそれはいったいいつ なのか。すると「1999年である」とか、「今年の10月である」とか言い出 す者が必ず現れます。多くの人々が惑わされ、騒ぎ始めます。しかし、主はいつ であるかということを語られません。代わりに次のようなたとえを話されます。 「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、 既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、こ れらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。(29‐ 31節)」

 「これらのこと」とは21章7節以下に書かれているすべてのことと見てよい でしょう。そこに書かれている弟子たちへの迫害は現実となりました。エルサレ ムの陥落も現実となりました。天体や海における徴は現れてはいないとも言えま すが、一方で確かなものが次々と崩壊し、無秩序と混沌の力が解き放たれている という意味では既に見られることでもあります。いずれにせよ、大切なことは、 夏が必ず来るように、神の国も必ず来るということです。終わりは必ず来るので す。そして、季節が決して後戻りしないように、この世界も確実に終わりの日に 近づいているのです。そのことさえ分かれば良いのです。なぜなら主の言葉は終 わりに向けての時間的な順序を予報したり予告したりすることに目的があるので はないからです。そのようなつまらないことはオカルト的な「大予言」の類にま かせておいたらよいでしょう。主にとってはいつでも大切なことは「現在」です。 今をいかに生きるべきかということなのです。現在と無関係な終わりなどないか らです。現在のあり方がどのような終わりをもたらすかを決定するのです。

心が鈍くならないように

 それゆえ、主は続けて言われます。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くな らないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがた を襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかか るからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのこと から逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りな さい。(34‐36節)」

 終末が語られるのは、大騒ぎをするためではありません。終末が近いと言って 興奮して奇行に走ることは、おおよそ主の望んでおられることではありません。 終末が語られるのは、私たちが真に冷静になり、様々な試練の中にあっても真に 忍耐強く生きるためであります。何が本当に大切なことであり、何が大切なこと でないかを識別し、覚めた心で、透徹した明瞭な意識をもって、忍耐強く生きる ためなのであります。この世界は、目先の楽しみ、当座の満足、刹那的な享楽を 追い求めて狂乱している世界です。「もっと喜びを、もっと満足を、もっと充実 を、もっと快楽を」という欲望のうねりの中に私たちも生きている。そのような 中でいつの間にか「心が鈍く」なってしまっているものです。また、この世界は、 安易な解決と安価な救いを追い求めて狂奔している世界です。確かに、この世界 に生きる限り、悩みと悲しみ、思い煩いの種に事欠くことはありません。しかし、 本当の悲劇は皆が目の前の問題の解決を近視眼的に追い求め、焦りと苛立ちの中 で、立ち止まれば倒れてしまう自転車のように、車輪を回し続けて同じ所をぐる ぐると回っていること、立ち止まれなくなっていることです。そのような中で私 たちも一緒になってわけの分からないまま走り続けていると、いつの間にか来る べき終わりを忘れ、待ち望むべき終わりを忘れ、それゆえに何が大切なことであ るかを忘れ、「心が鈍く」なってしまうのです。

 「心が鈍くならないように注意しなさい」と主は言われます。それがここで終 末の語られている意味なのです。終わりが思いがけない形で来ることがないよう にしなくてはなりません。目覚めていなくてはならない。そこで主は「いつも目 を覚まして祈りなさい」と言われます。問題は神を忘れ、やがて再臨の主の前に 立つことを忘れてしまっているところにあるのです。「いつも…祈りなさい」と は常に神と共に生き、主を待ち望んで生きるということに他なりません。間違っ てはなりません。終わりは私たちの手の内にはないのです。本当に終わりを手に しておられる方を覚えて生きる。その方の御心を求めて生きる。神の国を求めて 生きる。主が来られるその時を待ち望んで生きる。そうやって確実に来る終わり に向かって生きる。それが「いつも目を覚まして祈る」ということです。繰り返 します、終わりは現在と無関係ではありません。アドベントのこの時、それぞれ 神に立ち帰り、良き終わりを思いつつ良き現在を生きることを真剣に考えたいも のです。

 
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