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「キリストの日に備えて」

1997年12月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピ1・3‐11

 今日はアドベントの第二主日です。フィリピの信徒への手紙1章3節以下をお 読みしました。実は昨年にもこの同じ箇所から説教がなされております。やはり 同じアドベントの第二主日でありました。同じ聖書の言葉が、あれから一年を経 て、再びこの礼拝において読まれました。そのこと自体に特別な意味があろうか と思います。主御自身が新たに語りなおしてくださる御言葉に照らして、過ぐる 一年を省みることにもなるでしょう。私たちが既に良く知っている箇所でありま すが、この日心新たに主の語りかけに耳を傾けたいと思います。

わたしは感謝する!

 ここで読まれましたのは、パウロがフィリピの教会に宛てた手紙の冒頭部分で あります。3節から手紙の本文に入ります。原文においては「わたしは感謝する !」という言葉から始まります。これは実に印象的な書き出しです。特に彼の置 かれていた境遇を考えますと、この「わたしは感謝する」という言葉は単なる形 式的な書き出しではないことが分かります。ご存知のように、フィリピの信徒へ の手紙は獄中書簡と呼ばれております。彼は獄中における未決囚としてこれを書 きました。しかも、パウロが獄中にいる間、彼に反対する者たちが自らの勢力を 拡張するために働きを進めていたのです。15節以下に次のように書かれている 通りです。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者も いれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわ れているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求 めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ 知らせているのです。(15‐17節)」彼が神に感謝を捧げているのは、単に 彼の為していることが順調に進み、彼が望ましい境遇にあるからというわけでは ありませんでした。普通に考えるならば感謝の言葉など出て来ようはずもない状 況のただ中で、彼はフィリピの教会を思いつつ、神に感謝を捧げていたのです。 「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなた がた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。(3‐4節)」

 では、パウロが感謝を捧げているのは、フィリピの教会が平和と調和を保った 理想的な教会だったからなのでしょうか。問題だらけの諸教会のただ中にあって、 フィリピの教会だけには問題がなかったゆえに、パウロはそのことを神に感謝し ているのでしょうか。しかし、この手紙を読んでいますと、そのような推測もど うやら当を得ていないようであります。例えば、2章2節でパウロは次のように 書いております。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに して、わたしの喜びを満たしてください。」ということは、現実にはそうなって いないということなのでしょう。そして、事実4章では具体的な二人の婦人たち の名前を挙げてこう記しているのです。「わたしはエボディアに勧め、またシン ティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」要するに彼らの間で仲 違いがあったということであります。また、この教会も他の教会と同じように、 誤った教えによる危険に晒されておりました。教会を荒らす偽教師たちが入り込 んでいたのです。パウロは激しい言葉でこのように書き送ります。「あの犬ども に注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割 礼を持つ者たちを警戒しなさい。(3・2)」ですから、フィリピの教会とて他 の教会と同じように、獄中にいるパウロの心を痛め、悩ませる要素を沢山持って いたのだと思うのです。では、パウロはどうして彼らを思い起こす度に神に感謝 し、「あなたがた一同のために祈る度に、喜びをもって祈っています」と言い得 たのでしょう。すると5節に書かれている言葉が目に留まります。「それは、あ なたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。」これがパ ウロが感謝を捧げている最大の理由でありました。

 私たちはここで、パウロは「あなたがたが福音にあずかっているからです」と 言っているのであって、「あなたがたが福音宣教に参与しているからです」とは 言っていないことに注意しなくてはなりません。確かにフィリピの教会はその初 めから福音宣教に参与し、伝道者パウロを支えてきた教会でありました。その教 会の始まりは使徒言行録16章に記されております。この町で最初にキリスト者 となったのは紫布を商う人でリディアという名の婦人でした。彼女とその家族が 洗礼を受けますと、すぐにその家にパウロたちを招き入れ、そこが集会所となっ たのでした。その後、パウロたちがテサロニケに移った後も、彼らはパウロの伝 道旅行を経済的にも支えるようになります。パウロがこの手紙で次のように書い ている通りです。「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたし が福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働き に参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニ ケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送っ てくれました。(4・15‐16)」そして、ここで「参加」と訳されている言 葉は、1章5節で「あずかる(こと)」と訳されている言葉と同じなのです。し かし、それにもかかわらず、1章5節において語られていることと、4章で語ら れていることは同じではありません。パウロがまずフィリピの教会について喜び を覚え、神に感謝していたことは、彼らがパウロの働きに参加したことではない のです。

 それは次の6節を読めば分かります。パウロはこのように言うのです。「あな たがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を 成し遂げてくださると、わたしは確信しています。(6節)」ここで語られてい るのは人間の働きではありません。始められ成し遂げられるのは人間の事業では ないのです。神の業であります。それはパウロがローマの信徒の手紙において 「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたら す神の力だからです(ローマ1・16)」と語っている、福音自体の力強い働き であります。その働きに彼ら自身が与っている。与り続けている。そのことをパ ウロは何よりも喜び、神に感謝しているということなのです。彼らがパウロの働 きに参与し、伝道の働きを続けてきたのは、いわば彼らが福音にあずかってきた 結果であり実りなのです。

 そしてさらに言いますならば、ここで「あずかる(こと)」と訳されている言 葉はまた「交わり」とも訳し得る言葉です。フィリピの信徒たちとパウロが神の 救いの恵みに共にあずかっている。そこに真の交わりが存在するのだと言うこと もできるでしょう。7節においてパウロがフィリピの信徒たちについて「共に恵 みにあずかる者」と語っている通りです。先にも言いましたように、人間的な意 味においては互いの関係において問題がないわけではないし、また彼らとパウロ との間がいつも喜ばしい関係によって結ばれていたというわけでもないでしょう。 しかし、たとえ様々な問題があろうとも、同じ恵みに与り続けていることさえは っきりしていれば良いのです。そこには確かに真に主にある交わりが存在するの です。そこから真の一致へと向かうことができる。だから、パウロはそのことを 喜ぶことができたし、またその交わりを思えば神への感謝が溢れてきたのであり ます。

福音に与り続ける

 ところで、先に「彼らが福音に与り続けている」という表現を用いました。あ えてここで継続を表す言葉を用いたのは、パウロが「最初の日から今日まで」と 語っているからです。今、この「最初の日から今日まで」という言葉に、しばし 心を向けることにしましょう。既に見てきましたように、ここで語られているこ とは何ら特別なことではありません。要するに継続的な信仰生活のことであり、 共に主にある交わりにおいてキリストの体なる教会を形作っていく継続的な教会 生活のことであります。パウロは獄中にあります。フィリピの信徒たちもまた、 信仰生活においては様々な試練があることを知っているし、事実経験もしている。 しかし、様々なこの世における困難や信仰の戦いや迫害の中にあってもなお共に 集まり、共にパンを裂き、キリストの体と血とに与りつつ、その命に生きる共同 体に連なっているのです。そうして神の恵みに共にあずかりつつ、その恵みの中 に留まって生きている。それがここで語られていることに他ならないのです。そ して、大切なことは、パウロの言葉において、明らかに「今日まで」という言葉 が、「最初の日」という言葉と同じ重みを持っているという事実です。このこと を私たちはしっかりと心に留めるべきであろうと思います。というのも、私たち はしばしばこれらを同じ重さを持つ言葉としては考えていないからであります。

 日本の教会においては、まだキリスト者の二世三世がそれほど大きい部分を占 めているわけではありません。幼児洗礼の是非はさておき、日本の教会でなされ る洗礼は、特にプロテスタントの教会においては、幼児洗礼よりも成人洗礼の方 が圧倒的に多いことは事実です。大部分の方々は異教的な環境から入信し教会に 加わられるのです。そのため、受洗者の多くは、受洗に至るまで悩み、考え、大 きな決断を強いられ、畏れをもって洗礼をお受けになられます。それはそれで良 いことであると思います。また、人によっては、大きな生活上の転換、特殊な霊 的な体験、感情的な変化を伴った回心の経験を経て受洗に至ります。それもまた 悪いことではありません。しかし、残念なことに、そのような入信の出来事と同 じ重さが、その信仰生活の「継続」にもあるのだということがしばしば忘れられ ていることも事実です。本当に大切なことは「与り続ける」ことであるのに、そ れが忘れられてしまうのです。その結果何が起こってくるでしょうか。洗礼につ いて感じていたあの重みを、その後繰り返される聖餐式に覚えることなく過ごし てしまうことが起こってまいります。洗礼の時に覚えたあの恐れとおののきを、 聖餐においてはもはや考えることなくパンとぶどう酒に手を伸ばすことになって しまう。そのような意識しか持っていないから、時には平気で聖餐を軽んじるよ うなことが起こってくるのです。私たちは「最初の日から今日まで」というパウ ロの言葉を忘れてはなりません。今日も共に聖餐に与ります。最初の日から今日 まで福音に与ってきた者として、今日も聖餐に与りたいと思うのであります。

完成してくださる神

 さて、そのようにパウロが「最初の日」と同じく「今日まで」を大切にします のは、その先に「キリスト・イエスの日」があるからであります。6節をもう一 度読んでみましょう。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・ イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。 」「キリスト・イエスの日」というのは、終末におけるキリスト再臨の日です。 私たちが「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と告白し ている方が到来されるその日です。私たちが生ける者であろうが死ねる者であろ うがその方の前に立たなくてはならないその日です。

 その日までに成し遂げられなくてはならないことがあります。それは私たちの 働きではありません。先にも言いましたように、ここに語られているのは私たち の事業ではないのです。私たちが終わりの日までに神の国を建設するのではあり ません。神の国は来るのです。私たちが「御国を来たらせたまえ」と祈っている 通りです。やがて神の支配が完全な形において表されるのです。ですから、その 日までに完成されなくてはならないのは私たちの働きではなく、私たち自身です。 私たちが完成され、神の国に備えられなくてはならないのです。終わりの日まで に備えられなくてはならないのです。

 それはどのようなことであるのか。パウロはその祈りにおいて明確に言い表し ております。9節以下を御覧ください。「わたしは、こう祈ります。知る力と見 抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なこ とを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられ るところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれ るほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。(9‐11 節)」何という祈りでしょう。パウロはこのようなことを本当に信じて祈ってい るのでしょうか。ここで祈られていることが終わりの日への備えであるならば、 私たちは本当に完成に向かっていると言えるのでしょうか。自らの現状を思いま す時に、はたと考え込んでしまいます。

 しかし、この祈りの前にうつむかざるを得ない私たちに、再び6節の言葉が響 いてきます。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの 日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」パウロ がこう祈るのは確信があるからです。これは私たちの事業ではなく、神の事業だ からです。ならば、大切なことは何でしょうか。福音に与り続けるということで あります。「共に恵みにあずかる者」であり続けるということです。現在はプロ セスに過ぎません。結論が出るのはキリスト・イエスの日です。私たちは自分で 自分を見限ってはなりません。私たちが福音に与り続けているならば、私たちの 内に始められた善い業を完成したまうのは神御自身の責任です。安心してよいの です。

 昨年同じ御言葉に耳を傾けて一年経ちました。主が完成へと向けて私たちの内 に善き業を続けてくださった日々でありました。これからも私たちは共に福音に 与りつつ生きていく者でありたいと思います。「キリストの日に備えて、清い者、 とがめられるところのない者となり、 イエス・キリストによって与えられる義の 実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。 」アーメン。

 
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