「主にあって喜びなさい」
1997年12月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピ4・4‐7
アドベントの第三週となりました。アドベントに灯される四本のキャンドルの 内、第三番目のものは「喜びのキャンドル」と呼ばれます。今日は御一緒に「喜 び」について語っている聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。
常に喜びなさい
先ほど、フィリピの信徒への手紙4章4節以下をお読みしました。この手紙に は「喜び」という言葉が多く見られますので、しばしば「喜びの手紙」などと呼 ばれます。ここにも「喜び」という言葉が繰り返されております。しかし、ここ で私たちが耳にしますのは大変不思議な言葉です。パウロは「常に喜びなさい」 と言うのです。「喜び」というのは私たちの感情に関わる事柄です。そして、私 たちの感情というものは往々にして私たちの思い通りにはならないということを 私たちは良く知っております。外的な要因に左右されるのです。外的な要因は常 に変動しております。いつも喜ばしいことがあるわけではありません。私たちが 通常考えるような「喜ばしいことがあったから喜ぶ」ということであるならば、 「常に喜べ」という勧めは無意味です。そうすると、ここで語られているのは 「嬉しいことがあって喜ぶ」という次元のことではなさそうです。むしろ、「外 的な状況如何によらず、あなたがたは喜ぶことができるのだ」ということであり、 さらに言うならば「困難のただ中でさえ、苦しみや悲しみのただ中でさえ、あな たがたは喜ぶことができるのだ」ということであるに違いありません。そのよう な喜びでなければ、「常に喜べ」という言葉は意味をなさないからです。
私たちはこのパウロの言葉が内容を伴わない主張ではないことを知っておりま す。パウロ自身、そのような喜びに生きた人だからであります。先週も申し上げ たとおり、パウロはこの手紙を獄中から書き送っております。裁判の成り行き次 第では死刑になるかも知れないことをパウロは知っています。にもかかわらず、 パウロはそこで自らの喜びを語るのです。「更に、信仰に基づいてあなたがたが いけにえを捧げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わた しは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。(2・17)」そもそも、パウ ロの苦しみはこの獄中に始まったわけではありません。キリストに従い、宣教の 働きに召されてからのパウロの人生は、まさに苦難の連続でありました。コリン トの信徒に宛てた手紙の中で、彼はこう語っています。「ユダヤ人から四十に一 つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられ たことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。し ばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、 荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、し ばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でい たこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るや っかい事、あらゆる教会についての心配事があります。(2コリント11・24 ‐28)」これらの経験は私たちの想像を絶するものでしょう。しかもこれらの 苦しみは決して見える形では報いられることはありませんでした。彼はテモテに こう書いています。「わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆 わたしを見捨てました。(2テモテ4・16)」しかし、そのような苦難も彼か ら喜びを奪うことはできなかったことを私たちはその手紙を通して知ることがで きます。ここで「常に喜びなさい」と言っているのは、まさにそのような人なの です。
そして、さらにパウロは「あなたがたの広い心がすべての人に知られるように しなさい」と語ります。これもまた「あなたがたは広い心をもって生きることが できるのだから」ということに他ならないでしょう。ここで「広い心」と訳され ている言葉は大変豊かな内容を持つ言葉でありまして、この他に「忍耐」「寛容 」「優しさ」などのようにも訳されます。ここでどのように訳すかはさておき、 パウロがこのことを持ち出したのは、教会において二人の婦人たちが対立してい る問題があったからでしょう。直前の2節以下に記されている通りです。そして、 この言葉が出てきたのは、決して唐突なことではないのです。というのも、これ が「忍耐」であろうと「寛容」であろうと、喜びに関わることに違いないからで あります。私たちが忍耐強くあろう、寛容であろうとしても出来ないとするなら ば、それは本当の喜びを失っているからに他なりません。逆もまた言えるでしょ う。喜びに満たされているならば、その人は広い心で、寛容に、忍耐強く生きる ことができるのです。それゆえこの勧めが「常に喜べ」という言葉の次に来るの です。
主はすぐ近くにおられる
さて、それでは、パウロがこのように勧め、かつ自らそのように生きることが できたその根拠はいったい何なのでしょうか。彼はこの二つの勧めをした後にこ う書き加えます。「主はすぐ近くにおられます。」これはいったい何を意味する のでしょうか。
古代の教会において合い言葉のように用いられていた一つの表現がありました。 「マラナ・タ」という言葉がそれです。新約聖書の中でただ一度、第一コリント 16章22節にもとのアラム語の発音のままで出てきます。これは「主よ、来て ください」という意味です。キリストの再臨を待ち望む祈りです。そうしますと、 パウロが言う「主はすぐ近くにおられます」という言葉は、第一に「主の再臨は 近い」ということであったに違いありません。しかし、パウロにしても、他の人 々にしても、キリストが来られるまではキリストは不在であり、再臨のときに始 めて遠くの方から来られると考えていたかというと、決してそうではないのです。 キリストは共にいてくださる。現実の中においてその権威と力を現してくださる。 そのことを彼らは確かに信じていましたし、「わたしは世の終わりまで、いつも あなたがたと共にいる(マタイ28・20)」という言葉を彼らは信じておりま した。つまり、キリストの再臨は、不在であった方が来られるのではなくて、そ の神性において共にいてくださった方が、最終的な裁き主かつ救い主としてその 権威と力をもって御自身を現してくださるときとして待ち望まれていたのです。 それゆえ、パウロが「主はすぐ近くにおられます」と言うとき、ただキリストの 再臨が近いというだけでなく、もう一つの意味は明らかに「主は共におられます 」ということであっただろうと思うのです。
このように、パウロが「常に喜べ」と言い、「あなたがたの広い心がすべての 人に知られるように」と言っていたのは、キリスト再臨の希望とキリスト臨在の 恵みを彼が知っていたことによるのです。ここに外的な状況によらない喜びの源 があるのです。それはパウロが単に「常に喜びなさい」と言わずに、「主におい て常に喜びなさい」と語っていることからも明らかです。これは直訳すると「主 の内にある」という言葉です。この言葉がこの手紙の理解の鍵となることは、こ の短い手紙の中で「主において」と訳され得る言葉が八回、「キリスト・イエス において」と訳され得る言葉が八回も用いられていることからも分かります。
「主において」あるいは「主の内にある」という言葉が意味することの第一は、 やはり終末と関わります。それはキリスト再臨によって完全に現れる神の国の光 の中を生きる始めることを意味します。この世にあって既に来るべき世に属する 者として生きることであります。パウロは言いました。「だから、キリストと結 ばれる人はだれでも(直訳すると、キリストの中にある人はだれでも)新しく創 造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(2コリント5 ・17)」このように、「主にある」ということは、来るべき世に属する新しい 被造物として生きることに他ならないのです。そして、「主の中にある」ことの もう一つの意味は、「キリストの臨在」に関わります。すなわち、キリストとの 交わりです。先に引用したパウロの言葉において「キリストと結ばれる人は」と 訳されていたのは、その意味合いを含めてのことです。信仰者はキリストと、そ の死と命を分かつ一体の交わりに生きるのです。
しかし、以上述べました「来るべき世に属する者として生きる」ということに しても、「キリストとの交わりに生きる」ということにしても、これをただ単に 神秘的な感覚を問題にしていると考えるならば、私たちはパウロの言葉を誤解す ることになるでしょう。パウロが語っているのは単なる個人的な経験や特別な人 だけが知り得る神秘的な主との一体感ではないからです。なぜなら、パウロが 「キリストの内にある」と言うときに、明らかにもう一つの大切なことを考えて いるからです。それは「教会」です。彼はローマの信徒に対してこう書き送って おります。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて(キリストの内にあ って)一つの体を形作っており、各自は互いに部分なのです。(ローマ12・5) 」ここから明らかなように、パウロが「主の内にある」と言うとき、そこでイメ ージされているのは、教会に連なって生きる信仰生活であり、具体的に共に礼拝 する交わりの中で形成されていく祈りの生活なのであります。
人知を越えた平和が心と考えを守る
ですからここでパウロは、具体的な祈りのことに話を進めるのです。6節、7 節を御覧ください。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、 感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そう すれば、あらゆる人知を越える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト ・イエスによって守るでしょう。」祈りが教会の中において形成されていくので なければ、それは単なる願い事以上のものにはならないでしょう。そして、「何 事につけ、感謝を込めて」ということにはならないだろうと思うのです。ここで 語られているのは、単なる願いごと以上のことであります。それは「感謝を込め て祈りと願いをささげ」と語られていることからも明らかです。
それは必ずしも、いつも「感謝の言葉だけを神に申し上げる」ということでは ないでしょう。祈りにおいては神の前で嘆くこともあれば、神に訴えることもあ るのです。私たちが旧約聖書の詩編を読みますときに、その祈りの世界の広さと 深さに圧倒される思いがいたします。ですから、ここで言われているのは無理を して表面的につくろった感謝の言葉だけを神に捧げるということではないのです。 そうではなくて、たとえどんな言葉で祈ろうと、その最も基礎の部分に神への感 謝があるということであります。言い換えるならば、「神は私たちを愛しておら れて、私たちに最善を為してくださる」という神への信頼が祈りの底にあるとい うことです。丁度、風の強い日に川面がどれほど波立とうが、その底流において はゆっくりと一つの方向へと川が確実に流れているようにです。そして、そのよ うな神への信頼は、キリストの十字架と復活が語られ、その福音に基づいて礼拝 がなされている交わりにおいて初めて形成されていくものなのです。
そのような信頼に基づいた祈りのあるところに何が起こるのでしょうか。その ような信頼に基づいて求めるところが神に打ち明けられるところに何が起こるの でしょうか。パウロは言います。「そうすれば、あらゆる人知を越える神の平和 が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって(キリスト・イエスの 内にあって)守るでしょう。(7節)」主の内に生きるパウロ自らその存在をも って証明し、確実なこととして私たちに手渡してくれている約束の言葉です。
「あなたがたの心と考えとを守るでしょう」とパウロは言います。私たちはい つでも様々な手段をもって自らを守ろうといたします。例えば、病気に冒されて いる人は病気から自らを守ろうとします。不況の世においては経済的な困窮から 自らを守ろうとするものです。諍いやトラブルに巻き込まれたならば、そこで不 利益を被らないように、自らを守ろうとするでしょう。しかし、往々にして私た ちは自分を守るということがどういうことか分かっていないものです。「心と考 え」が守られなければ、本当の意味で守られたことにならないことに気付きませ ん。病気から肉体を守ろうとすることだけに心奪われているうちに、いつのまに か心と考えとが陥落した城のような状態になっていることだってあり得ます。金 の出入りばかりに気を奪われているうちに、心と考えとは悲惨な廃墟のようにな っていることだってあり得るのです。それで守られたことになるでしょうか。な らないでしょう。
ここで語っているのは、獄中にある未決囚です。明日の命も知れぬ状況にある 者です。しかし彼は、人知を越える神の平和、神の平安によって心と考えを守ら れている人であります。このような人をこそ、「守られている人」と呼ぶべきで す。そして、それはただパウロだけに与えられていることではないのです。パウ ロは言うのです。「そうすれば、あらゆる人知を越える神の平和が、あなたがた の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」これは、主の内にあ るすべての者に約束されている恵みなのであります。
このように読んできますと、なぜ「主において常に喜びなさい。重ねて言いま す。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい」 とパウロが言っているのかが分かってきます。最初に申しましたように、これは 「あなたがたは喜ぶことができるのだ。喜びをもって生きることができるのだ」 ということであり、「あなたがたは広い心をもって生きることができるのだ」と いうことに他なりません。無理をして喜ぼうとすることではなく、無理をして寛 容になろうとすることではないのです。そうではなくて、大切なことは「主にお いて」というこの一事に生きることなのです。それは先にも言いましたように、 個人的な神秘経験を求めることではありません。福音によって生かされている命 の共同体にしっかりと繋がり、神への信頼に基づいた礼拝と祈りの生活を確かな ものとしていくことであります。