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「マグニフィカート」

1997年12月21日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ1・46‐56

 今日は「マリアの賛歌」を共にお読みしました。この部分は古くからラテン語 訳における冒頭の言葉を取って「マグニフィカート」と呼ばれてきました。そし て、この賛歌は教会の歌として代々歌い継がれてきたのであります。東方教会で は朝の礼拝において、私たちの属する西方教会では晩課において歌われてきたと いう伝統もあります。マリアが特別な人物であって、マリアを称賛する意味で歌 われてきたのではありません。教会はマリアの信仰の言葉を自らの言葉として歌 ってきたのです。今日の聖書を読みますときにも、私たちはそのように、マリア と私たちを重ね合わせて読むべきであろうと思います。後で私たちもマリアの賛 歌を歌います。私たちはこの聖書の言葉を通して神様の語りかけに耳を傾け、そ して改めてこれを私たちの言葉として歌いたいと思うのであります。

わたしの魂は主をあがめる

 それではまず46節から49節前半までもう一度お読みいたしましょう。「そ こでマリアは言った。『わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神 を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったか らです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある 方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。…(46‐49節)」

 明らかにこの歌の基調音は「喜び」です。ここには幸いな者の喜びが満ちあふ れています。その喜びの響きは、天使ガブリエルがマリアのもとに現れた時から 始まりました。受胎告知と呼ばれている場面です。聖書では丁度今日読みました ところの少し前、1章26節以下に書かれています。天使は彼女に現れてこう言 いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。(28節) 」キリストの受胎を告知されたマリアは親族であるエリサベトの家に向かいます。 エリサベトはマリアに言いました。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内 のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来て くださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にした とき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると 信じた方は、なんと幸いでしょう。(42‐45節)」これを受けて歌った歌が このマリアの賛歌です。そこにおいても、マリアは言います。「今から後、いつ の世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう(48節)」聖書は一貫してマリ アを「祝福された者」「幸いな者」として記します。主が共におられ、目を留め てくださった幸いな者と呼んでいるのです。

 しかし、はたしてここに記されている出来事は、単純に幸いな喜ばしい出来事 と呼べるのでしょうか。そう考えて前後を読んでみます時に、決してそうではな いことに気づかされます。マリアはこの時、ヨセフと婚約しておりました。結婚 の祝いの日が近づくのを今か今かと待ち望んでいたことでしょう。当時の民衆の 生活は、ローマ帝国の支配のもとにあって、決して楽ではなかったに違いありま せん。しかし、そのような時勢であっても、ヨセフと共に信仰の家庭を築いてい くことにささやかな幸せを夢見ていた、そんなごく普通の一人の乙女であっただ ろうと思うのです。何も大それた野心に燃えていたわけではありません。マリア が当たり前の幸福な人生を望んでいたとして、そこに何のいけないことがあるで しょう。しかし、そのようなささやかな望みが、この天使の言葉で打ち壊されて しまったのです。天使はこう告げたからです。「あなたは身ごもって男の子を産 むが、その子をイエスと名付けなさい。(31節)」

 マタイによる福音書によれば、いいなづけであるヨセフは「ひそかに縁を切ろ うと決心した(マタイ1・19)」と書かれております。大変悩んだ末のことで しょう。当然です。マリアにしてもヨセフにしても、この受胎がユダヤの社会に おいてどのように受け止められるかをよく知っていたはずです。どこの誰が「聖 霊によって身ごもった」などという話を信じるでしょうか。マリアの出来事は姦 淫として告発されれば死刑の判決を免れないでしょう。しかも、これはマリアの 苦難の始まりにしか過ぎません。その後、自らの子が公の生涯に出て神の国を宣 べ伝え始める。やがて権力者たちから敵意を向けられるようになる。マリアの悩 みと苦しみはどれほどだったでしょうか。そしてついに、マリアは主イエスの十 字架の前に立つに至るのです。自らの子が血を流して死んでいくのを目の前にす ることになるのです。

 なぜマリアなのでしょう。なぜ他の者でなかったのか。分かりません。「マリ アは清かったから。」「マリアは信仰深かったから。」そのようなありきたりの 理由付けが吹っ飛んでしまうような厳しい状況がここにあります。結局は神が彼 女を選ばれたとしか言いようがありません。ガブリエルの言葉は一方的です。 「おめでとう、恵まれた方。」もう決まっているのです。マリアの同意を求めて いるのではありません。これはマリアに与えられている定めであり運命なのです。 このマリアの場合に限らず、人には選べることと選べないことが確かにあります。 逃れられることと逃れ得ないことがあるのです。どうしても負わざるを得ないこ と、受け入れようが拒否しようが、逃げられないことがあるのです。マリアにと って、その逃れがたい定めが、天使のお告げによって明らかにされているのです。

 さて、そのような状況において歌われた歌が、先ほど読みましたマリアの賛歌 なのであります。救い主の誕生にまつわる物語なのだから賛歌が出てきて当たり 前―そのようにここを読んではならないのです。当たり前でないことが起こって いるのです。マリアは「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うで しょう」と語ります。なぜでしょうか。それは一面においては、マリアがこの出 来事を受け入れたからだと言えるでしょう。どうせ定まっていることであるなら ば、抵抗して拒否して生きるよりは受け入れて生きる方がよい。そのようなこと は誰でも考えます。しかし、事はそれほど単純でしょうか。小さな出来事を受け 入れることさえ現実には非常に難しいものです。自分がその場に立った時に分か ります。話は単純ではありません。ここで語られていることは、単なる心理学的 な「現実の受容」ではないのです。

 マリアは神をあがめているのです。「わたしの魂は主をあがめる」。そうマリ アは歌っているのです。「あがめる」とは文字通りには「大きくする」ことを意 味します。「わたし」が大きくされるのではなくて、「主」が大きくされるので す。「わたし」を大きくしよう大きくしようとしている人生においては、大切な ことは自己の願望の実現であるでしょう。しかし、「主」が大きくされる、あが められる人生においては、もっとも重要なことは主の御心が実現していくことだ ったのです。マリアが自分の願いが実現することしか喜ぶことができないならば、 ここで自分を幸いな者とは呼ばなかったでしょう。しかし、彼女はそうではなか った。彼女は天使にも言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、 この身に成りますように。(38節)」彼女の思いの中心を占めていたのは、神 の御業が「この身になる」ということであり、マリアを通して神の御心が実現し ていくことだったのです。これが真に神をあがめるということであります。彼女 が天使のお告げを受け入れることができたのも、彼女が厳しい現実を受け入れる ことができたのも、それは受け入れた方が楽だからではないのです。そうではな くて、彼女が神をあがめるに至ったからであります。

新たな世の幕開け

 では、なぜマリアはこの厳しい現実の中において神をあがめるに至ったのでし ょうか。その次にこのように書かれております。「身分の低い、この主のはした めにも目を留めてくださったからです(48節)」。ここに理由が明らかにされ ております。しかし、その後の50節以下には一見すると「革命歌」か何かのよ うな言葉が続きます。ここを読みますと、マリアはただ単に「神が自分に目を留 めてくださったから神をあがめるのだ」と言っているのではなさそうです。マリ アに起こった出来事は、マリア個人のことに留まらないのです。

 メシアがまことの王であるならば高貴なところから誕生すると考えるのがこの 世の常識でしょう。しかし、受胎告知の物語はこの常識を覆しています。自分を 「身分の低い者」と呼ぶマリアからメシアは生まれると天使は告げたのです。そ のことによって描き出されているのは逆転した世界の始まりです。人間中心のこ の世界の常識が通用しない新しい世界が決定的な仕方で開始されることを意味し ているのです。キリストの降誕によって、人間中心のこの世界のただ中に、人間 が中心でない世界、神の支配する神の世界、新しい世が始まったことを告げてい るのです。

 こうして生まれたキリストの姿は、こうして始まった神の世界がいかなるもの であるかを示しております。まことの王である方は馬小屋の中の汚い飼い葉桶の 中に寝かされておりました。まことの王である方は、支配する者としてではなく て、仕える者として御自身を現されました。まことの王である方は、栄光をお受 けになるためにエルサレムに向かわれたのではなくて、十字架にかかるためにエ ルサレムに向かわれたのでした。まことの王である方は罪人の一人として墓に葬 られました。しかし、その向こうに復活の光、永遠の命の支配する世界の光が輝 いておりました。逆転した世界を主は見せてくださいました。そして、その逆転 した世界こそ永遠なのだということを見せてくださったのです。

 あの最初のクリスマスの出来事から神の決定的な御業は始まりました。そして、 人間の支配する世界、人間が中心である世界が最後に残るのではないのです。神 の支配が完成するのです。最後に残るのは神の世界なのです。最後に残るのは人 間の願望の実現ではなくて、神の御心の成就なのです。人間が支配する世界しか 見ていない者は、「最後にものを言うのは権力と富である」と思うものです。こ の世はがむしゃらに力と富とを求めて動いています。ちっぽけな私たちの人生に おいてもそうです。周りを思い通りに自由に出来る力と、自分を支えてくれるで あろう何かを一生懸命に求めて動いているものです。そのような世界であるゆえ に、この世界は不幸と悲惨とに満ちています。しかし、マリアはそのような世界 のただ中で、キリストの誕生において開始しやがて完成する神の支配に目を向け ておりました。神の永遠なる支配、永遠なる神の国に目を向けていたのです。そ れゆえに、このように歌を続けるのです。「その御名は尊く、その憐れみは代々 に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその上で力を振るい、思い上がる者 を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。(49‐5 3節)」神の国において、神の権威と力のもとにあって、最後に意味を持つのは 人間の権力でも富でもありません。神はやがて人間の奢りと高ぶりを最終的に打 ち砕かれるのです。逆転が起こるのです。

 神によって低い者は高くされ、貧しい者や飢えた者は良い物で満たされます。 しかし、52節と53節に書かれていることを、私たちは単に経済的なこととし て捉えてはなりません。現実的には富んでいても神の前に謙った者もいれば、経 済的に困窮していてもなお神の前に傲慢な者はいくらでもいるからです。マリア は続けてアブラハムとその子孫、すなわち信仰の民について歌います。「その僕 イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。わたしたちの先祖にお っしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」つまり、これ は単なる社会的な革命歌ではないのです。あくまでもマリアが歌っているのは信 仰の事柄なのです。ですから50節にもあえて次のように記されているのです。 「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」主を畏れるとは、 自分は人間であり神は神であると弁えて生きることです。言い換えるならば、神 が中心であることを覚えて、神を礼拝する者として生きることです。神を神とし てあがめず、神をあくまでも人間のための神としか考えず、最終的には力と富と によって自らの人生もこの世界も思い通りになると考えている思い上がった者は、 やがて完全に覆される。それがここにおいて歌われていることなのです。

 キリスト受胎を告げられたマリアは、そこから始まる神の支配に目を向けつつ、 神をあがめ、神をたたえました。私たちもまた、御子の御降誕を祝おうとしてい るこの時、神の支配、神の国に思いを向けなくてはなりません。神はあの時から 今日に至るまで、この世界のただ中で、人間中心の世界であるゆえに悲惨を極め ているこの世界のただ中で、その救いの御計画を完成へと進めておられるのです。 やがて神の支配が完成するのです。であるならば、大切なことは、私たちの小さ な願望が実現することではなく、小さな私たちを通して神の大いなる御業が実現 していくことであります。私たちには選び得ないこと、負わざるを得ないことが あります。しかし、私たちは不幸な運命を背負った不幸な人間として生きる必要 はありません。私たちを通して神が御業を進め給うことを信じ、マリアと共に声 を合わせて歌いたいと思うのです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救 い主である神を喜びたたえます。」アーメン。

 
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