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「聖家族」

1997年12月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ2・41‐52

 私たちが経験する最初の人間関係は親子の関係です。人は親を選ぶことができ ません。これは強制的に与えられる最初の人間関係でもあります。そのように生 まれ育って、多くの人は自ら人の親になります。こうして家族の歴史が形成され ていきます。私たちの人生の多くの時は家族との関わりの中で過ごされます。そ うしますと、自分が子供であり親であることの意味、家族の中に生きていること の意味を考えないまま生きることほど不幸なことはありません。

 去る降誕祭において私たちは御子の御降誕をお祝いいたしました。主イエスに もこの世における父があり母がありました。本日の聖書箇所はあのベツレヘムの 馬小屋における出来事から12年後の主イエスとその家族の様子を記しておりま す。今日は、主とその家族の物語から、私たち自身について人の子であり親であ り、家族との関わりの中で生かされていることの意味を、御一緒に考えたいと思 います。

都詣における出来事

 ユダヤ人の子供は13歳になると成人したものと見なされます。彼らは「シェ マ」と呼ばれる祈りを日に三度繰り返すことや、定められた日に断食すること、 またエルサレムへと巡礼することなどの宗教的義務が課せられるようになります。 つまり完全にユダヤ人の共同体に属する者として行動することを求められるので す。ですから、この日に備えて親たちは子供たちに予行演習をさせなくてはなり ません。マリアとヨセフが12歳になったイエスをエルサレムへと連れていった のも、そのような理由であったと思われます。

 祭りの期間である一週間を彼らはエルサレムで過ごし、帰路につきました。し かし、少年イエスはエルサレムに残っていたのです。両親はそのことに気付きま せんでした。巡礼の旅は大きな群れをなして進みます。両親が子供を見失うこと はいくらでもあり得ることでした。巡礼の群れは朝早く出発したものと思われま す。一日分の道のりを進み、夕刻になってイエスを捜したけれど見つかりません でした。そこで彼らは親類や知人の間を捜し回り、エルサレムに戻り、三日目に イエスを見出したのです。少年イエスは神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、 話を聞いたり質問したりしていました。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答 えに驚いていたと書かれています。私たちはこれを必ずしも不思議な奇跡か何か のように考える必要はありません。ユダヤの子供たちは13歳で律法の書につい ての暗記を中心とした学びは終えるので、12歳になった子供が学者たちの話を 聞いたり質問をしたりしていたこと自体は、なんら不思議なことではありません。

 マリアはイエスを見て驚いて言いました。「なぜこんなことをしてくれたので す。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると少年 イエスは答えます。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家 にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」ここで「父の家 」と訳されているのは、原文には「父のもの」としか書いていないので、これを 「父の仕事に関わっているのは当然であることを知らなかったのですか」と訳す ことも可能です。いずれにせよ、両親にはイエスの言葉の意味が分かりませんで した。しかし、この言葉そのものの響きとは非常に対照的に、51節においては 「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らし になった」と書かれております。イエスが神を父と呼び、神の家にいるべき神の 子であるという自己認識を明らかにしている一方で、主はマリアとヨセフの子と してナザレに戻り従順に仕えていたことが語られているのです。

従順を学ばれた主

 さて、この箇所を繰り返して読んでまず気付きますことは、この物語の中には、 主の受難物語と関係する言葉が多いということです。両親は過越祭にイエスを連 れていきました。主が十字架にかかられたのは、過越祭の時でした。主イエスは 両親と共にエルサレムへと上りました。主が十字架にかけられたのもエルサレム であって、この福音書は9章51節以降の大変大きな部分をエルサレムへと向か う主の旅路の描写に費やしております。少年イエスが見えなくなって、三日目に 再び見いだされたという記事は、十字架にかけられ葬られ、三日目に現れたこと を思い起こさせます。そして特に注目に値する言葉は49節において「当たり前 だ」と訳されている言葉です。これはルカによる福音書に繰り返し現れる言葉で す。どういうところに現れるかと言いますと、例えば9章22節です。「人の子 は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、 三日目に復活することになっている。」ここで「必ず…することになっている」 と訳されているのが同じ言葉です。しばしば、この言葉は「神の必然」を現す言 葉であると言われます。つまり、主イエスはすでに12歳のこの時、神の必然の 中に生きていたということなのです。神によって定められた道を歩み始めていた ということなのです。苦難へと向かう道、十字架へと向かう道を歩みだしていた のです。先ほど、49節は「わたしが自分の父の仕事に関わっているのは当然で あることを知らなかったのですか」とも訳せると申しました。そう訳しますと、 主が既に神の定めた御計画の中に生きていることを自覚してそこにおられたとい うことが、もう少しはっきりいたします。

 イエス様の公の活動は、およそ30歳の時に始まりました。そこから十字架に かけられるまでの期間は約三年ほどであると思われます。このことに関しては、 ルカによる福音書も他の福音書と同じことを語っております。しかし、ルカによ る福音書の特徴の一つはあえてイエス様の幼少時代を書いているというところに あります。さらに言うならば、その生涯の記述は飼い葉桶に寝かされた主イエス というところから始まるのです。これを書いているのはルカだけです。つまり、 ここで強調されているのは、主イエスが十字架にかけられたのは、ただ権力者た ちに妬まれ憎まれたからではないのだ、ということなのです。既に生まれた時か ら、主は十字架へと向かう者だったのだ、ということなのです。神の子であるに もかかわらず、その一生は十字架へと向かっていたのであり、その人生の大半は そのための備えであったのだということなのであります。

 フィリピの信徒への手紙2章6節以下で、パウロがキリスト賛歌を引用して次 のように書いているのを読んだことがありますでしょう。「キリストは、神の身 分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自 分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このた め、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。… (フィリピ2・6‐9)」神の救いの御業を全うし、栄光の座に上げられる前に、 キリストは低くならねばなりませんでした。キリストの謙卑などと呼ばれます。 ここには自分を無にすることと、十字架の死に至るまで従順に歩まれたことが並 べて書かれております。キリストにおいて、神への従順と自分を無にすることは 一つでありました。そして、それはあの受難物語に始まったのではないことが、 ルカの記していることです。既に馬小屋から始まっていたのです。そして、ヘブ ライ人への手紙においては、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦 しみによって従順を学ばれました(ヘブライ5・8)」という表現さえ見出され るのです。

 このような主の歩みを覚えます時に、私たちは畏れの念に打たれると共に、自 らを省みさせられる思いがいたします。十字架に向かわれた主は、私たちにもま た十字架を負って従って来なさいと言われました。私たちは主に従う者でありた いと思います。神に仕えたいと思いますし、神の栄光のために用いられたいと願 います。しかし、私たちは、いかに準備の過程を軽んじ、備えもなさずに、神に 用いられることを求めていることでしょうか。主の御生涯の大半は従順を学ぶ時 であり、わずか三年間ばかりの公生涯への備えだったのです。また、私たちはし ばしば自分が神に仕え得ないのは、能力がないからだ、体力がないからだ、知識 がないからだと考えます。しかし、そうではありません。私たちに欠けているの は神への従順なのです。従順を学ばねばなりません。私たちの生涯の大半もまた、 神に用いられるための備えであるかも知れません。それでよいのです。自分が神 の栄光のために創られたことを知り、神の御計画における必然の中に生かされて いることを知る人は、苦難や様々な望ましくない環境の中で従順を学ぶ意味をも 知ることになります。私たちが主に従おうとする者であるなら、主の御生涯を心 に留めなくてはなりません。

家族の源である父なる神

 さて、このように主が公生涯への備えをなされていたことを覚えます時に、こ こにマリアとヨセフが共にいることの意味が見えてまいります。そこに主の家族 があることには意味があるのです。なぜなら、主が公の生涯への備えをなされた とするならば、それはまず家族の中においてであったに違いないからです。

 マリアは「なぜこんなことをしてくれたのです(48節)」と主に言いました。 実は新共同訳には訳出されていませんが、本当はその前に「子よ」という呼びか けがあるのです。それはしばしば跡継ぎとしての子孫を現す言葉でありますし、 そのような関係を持つ者に対して親しく愛情をもって呼びかける時に用いられる 言葉です。ここでマリアは確かに自分の子供としてイエスに呼びかけています。 そこにいるのは紛れもない自分がお腹を痛めて産んだ子であり、自分が育ててき た子供なのです。その子供に両親が心配していたことを語っているのです。

 しかし、ここで主は「自分の父」について語ります。「自分の父」と呼ばれて いるのはヨセフではありません。その「父」との関係がまずあって、初めてヨセ フはイエスの父であり、マリアはイエスの母となる。そのことを主イエスの言葉 は明らかにしているのです。もちろん御子であられる主イエスが「自分の父」と 呼ばれる時には、特別の意味合いがあるでしょう。しかし、この言葉は、おおよ そ家族と呼ばれるものがいったい何であるかをよく示していると言うことができ ます。まず「父なる神」がおられるのです。そのもとに家族があるのです。それ は、いみじくもパウロが次のように語っている通りです。「御父から、天と地に あるすべての家族がその名を与えられています。(エフェソ3・15)」

 主がここで「父なる神」について語っていることは、私たちにとっても重要で す。実際、父なる神との関係の大切さを弁えない家族においては、なぜ親が子供 を養い育てるのかについての明確な理解が見られないからです。子供もなぜ自分 が家族の中に存在するのか理解できないのです。子育てを自分の欲求の満足や自 分の願望や理想の実現手段としか考えない親たち、「子供の幸せを願っている」 と言いながら、何が子供の幸せかを深く考えたこともない親たち。あるいはその ような親との関係に甘んじてしまっている子供たち、親が喜ぶことにしか自分の 存在意義を見いだせない子供たち。あるいは学費と生活費さえ出してもらえたら、 本当は家を出て一人暮らしをしたいと思っている子たち。そのような親子の関係、 家族の関係は、身近なところにいくらでも見いだせます。いつの間にか私たちも そうなっているかも知れません。しかし、人間を中心として、自分の視点からし か親を見ることが出来ない、子を見ることができないとするならば、それは実に 悲しむべきことなのです。主の言葉はそのような人間中心の家族理解を根底から 覆すのです。私たちは、父なる神が中心であることを弁えなくてはなりません。 父なる神が目的を持っておられるのです。主は十字架への歩みを始めておられた のです。その神の御計画があるゆえに、ヨセフはイエスの父とされ、マリアはイ エスの母とされたのです。子供に対しては神が目的を持っておられるのです。親 に対しても神が目的を持っておられるのです。

 それゆえ、子供たちは、与えられた家庭において、神が用いられる時に備えて 従順を学ぶのです。どんな不完全な親であろうとも、子供はそこで神への従順を 学んだらよいのです。それがあるべき姿です。51節に至ると、「それから、イ エスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」と書 かれております。キリストは自らが父なる神から与えられた使命を負っているこ とを自覚していたにもかかわらず、なお長い間、両親のもとにいて仕えたのでし た。マリアとヨセフは、罪のない神の子にとっていかに不完全な両親であったこ とでしょう。しかし、主はそこにおいても謙って従順を学ばれ、十字架への道行 きへと備えられたのです。

 一方、親たちは父なる神のために子供を養い育てるのです。自分の子供だから 育てるのではないのです。そして、やがて親から子が離れていく時が来ます。父 なる神から託されて育ててきたのだから、神にお返しする時が来るのです。主の 言葉は、やがて主がマリアのもとを離れていく時が来ることを暗示しています。 後にマリアは、イエスが神の救いの計画のために十字架にかかって死ぬことさえ、 受け入れなくてはならなかったのです。マリアにとってイエスの母であるという ことは、そういうことだったのです。

 私たちは人間として第一に与えられている人間関係さえ、人間中心にしか考え ていないものです。家族に与えられている神の目的を考えようとしないゆえに、 私たちはしばしば家族を悲劇の舞台としてしまうのです。私たちは親として、子 として、家族の一員として生きるために、まず父なる神、すべての家族の源であ る父に思いを向けなくてはなりません。

 
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