「神の福音を聞くために」                            ローマ1・1‐7  この一月第一聖日から私たちは礼拝においてローマの信徒への手紙を読んでい きます。今日はその冒頭の部分、ローマの教会に対するパウロの挨拶をお読みし ました。内容的には1節から7節に続きます。この箇所に書かれていることは要 するに「パウロからローマの人たち一同へ」ということです。パウロは古代の手 紙の一般的な書式に則って書いております。しかし、これを読みます者は誰でも、 説明的な挿入文がかなり長いということに気づくことでしょう。原文においては 一番最初に「パウロ」という言葉がきます。そして6節の終わりまでは様々なこ とが書かれているように見えますが、全体としてパウロが何者であるかというこ とを説明する形となっております。つまり、ここにパウロの自己理解が明らかに されているのであります。これを長々と書いているのは、それが大切なことだか らです。ローマの信徒たちにこの手紙が読まれようとしている時に、それを書い た人間が何者であるかを知った上で読んで欲しいということであろうと思います。 それは単にパウロがまだローマの教会を訪ねたことがなく、彼らと面識がないと いう理由によるのではありません。この手紙が正しく理解される上でも必要なこ となのです。ということで、この挨拶の部分を私たちもまた今週と次週の二回に 分けて御一緒にお読みし、本論へと読み進む備えをしたいと思うのであります。 神からの福音として  書かれた文章には、それがどのように読まれるべきであるかという、筆者の自 己主張が含まれているものです。先にも申しました通り、筆者が何者であるかを 理解することが、しばしば文章そのものを理解する上で重要なこととなります。 たとえば自らを詩人と呼ぶ者が詩文を書いたとするならば、それは詩文として読 まれなくてはなりません。彼が「太陽が海の彼方に沈んだ」と書いたからと言っ て、「いや、太陽が沈んだのではない。地球が自転したのだ」と反論しても意味 がないわけです。  この手紙にもこの手紙の読み方があります。パウロが意図していることがある のです。それを理解しないとこの手紙を理解できません。パウロは自らを何と言 っているでしょうか。1節を御覧ください。「キリスト・イエスの僕、神の福音 のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」。彼は自らを「キリス ト・イエスの僕」と呼びます。「選び出された」者であると言います。「召され て使徒となった」者であると言います。使徒職や使徒性の問題についてはここで は触れませんが、要するに「遣わされた者」であると考えてよいでしょう。そう しますと、パウロは明らかに「僕」に対して主人である方、選び出してくださっ た方、召してくださった方、遣わしてくださった方を意識しているということが 分かります。つまり、パウロがこれから語ります言葉の背後に、その言葉を本当 の意味で語り給う主体があることが、ここで明らかにされているのです。  それは「神の福音」という言葉によっても表されています。後にパウロはこれ を「わたしの福音(2・16)」と呼びます。しかし、それは初めからパウロの 福音なのではなくて、まず「神の福音」であるのです。すなわち、神が主体であ るところの福音であり、神からの福音であり、神が私たちに与えてくださった福 音ということであります。つまり、この手紙に書かれていることは、単にパウロ という一人の男の思想ではないということであります。長年の研究の成果が開陳 されているわけでもなく、パウロの生み出した独創的な思想体系が展開されてい るわけでもなく、パウロの宗教的な思索と探求によって悟り得た何かが記されて いるわけでもないのです。人から出たことをパウロは語り聞かせるつもりはない のであります。神からのことを語ろうとしている。ただ遣わされている者として 神からのことを伝えようとしているのであります。であるならば、私たちもその ようなものとしてこの手紙を読まない限り、パウロの手紙を正しく理解したこと にはならないでしょう。私たちはこの手紙を読みますときに、ただ一人の男パウ ロだけを考えてこれを読んではならないのです。その背後におられる、パウロを 選び出された方、召された方、遣わされた方に思いを向けなくてはならないので あります。その方への畏れを持つことなくして、この手紙を理解することはでき ないのです。たとえ、どんな世界的な聖書学者であろうが、著名な古典文学の専 門家であろうが、いかなる者であっても、神への畏れを持つことなくして、そし て謙って神からの使信を受け取ろうとする思いを持たずして、この手紙は正しく 読むことはできないのです。 旧約において約束されたものとして  続く2節は1節にありました「神の福音」という言葉を受けて書かれた部分で す。ここで「神の福音」とは何であるかということについて、パウロはいくつか のことを書き記します。挨拶の中において、このようなことが書かれているとい うことは、この手紙の内容そのものに関係するということでしょう。言い換える ならば、パウロはこれから手紙全体に渡って語ろうとしていることは、他ならぬ この「神の福音」に他ならないということです。私たちはこれから「福音」を聞 こうとしているのです。今、これから「良き知らせ」が語られてようとしている のです。  しかし、その「福音」すなわち良き知らせが聞かれる前に、そのための方向付 けがなされなくてはなりません。私たちの世界には、福音らしきもの、良き知ら せらしきものに満ちているからです。あたかもそこに救いがあるかのような言葉、 安易な幸福を約束し、様々な苦境からの解放を約束するような言葉に満ちている のです。そのような「良き知らせ」のようなものが巷に満ちているのは、一方に おいて「悪い知らせ」がこの世界に満ちているからなのでしょう。だから人々は 手軽に自分を幸福にしてくれる良い知らせを喜びますし、そのようなものに惹か れていくのです。実はそのような状況はパウロの生きていた当時のギリシア・ロ ーマ世界でも同じなのです。救いを語る諸々の思想と言葉が巷に溢れているので す。そのような現実の中で、今から語ろうとしている言葉がいったい何であるか をパウロはここで明らかにしようとしているのです。彼は言うのです。「この福 音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するもの です。(3‐4節前半)」  パウロはここで、彼の語ってきた福音が、神の民の長い歴史を背景とし、そこ において預言され実現された出来事に基づいているのだ、ということを語ってお ります。つまりパウロの語っている言葉は、歴史において現された神の啓示の出 来事という、地中に深々と食い込んだ根っこを持っているということであります。 先ほど、人から出たものではなくて、「神の福音」であると申しました。しかし、 これは単に何かパウロの神秘体験に基づいた特殊な啓示であることを意味するの ではありません。パウロの語ろうとしている福音が単に彼の思想や発想でないだ けでなく、これは当時の神秘宗教にもあった御託宣の類ではないし、霊の人と呼 ばれる人たちが持っていると主張されていた特別な「神的知識」の類でもないの です。確かにパウロがキリスト者となったのは、復活されたキリストの声をダマ スコ途上で聞いたからです。使徒言行録9章にその詳細が記されております。そ して福音伝道者となったのも、キリストによって召され、遣わされたからです。 1節にも記されていた通りです。それは私たちの推測の及ばない、また立ち入る ことの出来ない神秘体験に違いありません。しかし、パウロはその自分の経験か ら福音を語ろうとしているのではないのです。あくまでも、神の民の歴史を背景 に、伝えられてきた聖書の言葉に基づいて語ろうとしているのであります。  これは私たちにとって非常に大切な認識です。というのも、この国に住む我々 はどうも新奇なものに弱いからです。それが宗教的な様相を呈し、御託宣や神秘 現象や霊能力の形を取ることもあるでしょう。そのような類に惹かれていく人は 多いのです。それは本屋に山と積まれているその類の書籍の数を見てもわかりま す。目の前にあることだけが重要であるかのように生きていますと、何かとりあ えず役に立ちそうなこと、助けになりそうなことは、検証を経ないで受け入れて しまうところがあります。しかし、よく考えなくてはなりません。他のことなら まだしも、救いに関する事柄を根っこの地についていない浮き草の類に求めては ならないのです。これは単に教会の外の問題ではありません。私たちは、教会と 言いますと、目の前にあるこの会衆だけしか考えないものです。やはり「今」し か考えない。こうして礼拝している私たちがあの旧約聖書に出てくる人々と繋が っていることなど考えたこともない人が多いだろうと思うのです。私たちは預言 者たちを通して約束され、成就した出来事に基づく福音が今日もなお語られてい ることの重さを覚えつつ、パウロの手紙を読まなくてはならないのであります。 御子に関するものとして  さて、その約束された神の福音とは、「御子に関するものです」とパウロは言 います。御子とは、私たちが主と呼び、イエス・キリストと呼ぶそのお方です。 パウロは最終的には御子のことを語ろうとしているのです。であるならば、私た ちもまた御子のことに集中してこの手紙を読まねばなりません。聖書において預 言者を通じて約束されたイエス・キリストの到来、そしてイエス・キリストの生 涯と死と復活がいかに私たちの救いと関わるのか。そのことを私たちはしっかり と聞き取らねばならないのです。御子を知ることなくして、この手紙を読んだこ とにならないのです。さらには聖書を読んだことにならないとさえ言えるでしょ う。その私たちが知るべき御子について、ここでは簡単に次のように触れられて います。「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死 者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたし たちの主イエス・キリストです。(3後半‐4節)」これは、古代教会において 既に定まった形として用いられていた言い回しであろうかと思います。それをパ ウロはここに挿入し、後に完全な形で展開するその備えをしているのです。  私たちはキリストをどのような方向から見ていくのでしょうか。まず「肉によ れば」とパウロは言います。「肉」が意味するのは、この世に属する存在です。 確かに御子はダビデの子孫として生まれました。つまりこの歴史の中に、この世 界の中における、私たちとまったく同じ人間として生まれた方なのです。私たち が生きているこの現実を共有してくださった方です。パウロの語る「神の福音」 は、私たちの毎日の生活とまったく無関係な、観念的な議論のようなものではあ りません。それが「御子に関するもの」であるかぎり、私たちの現実に関わりま す。御子は「肉においてはダビデの子孫として生まれた」からです。福音は私た ちの毎日の苦悩に関わります。私たちの経験する痛みと悲しみ、嘆きと絶望に関 わります。しかし、単なる表面的な問題解決の話ではありません。「肉」である ということは、もっと深い苦悩だからです。それは行き着くところ、私たちの罪 と死に関わることなのです。私たちの苦悩は単に人間関係のトラブルや、経済的 な労苦や、肉体的精神的病によるのではないのです。もっと深いところで、私た ちに罪があり、私たちが滅び行く存在であること、そのような「肉」なるもので あることによるのです。御子は、肉においてはダビデの子孫として生まれた。神 の福音はその肉なる者である私たちに関わるのです。  しかし、この方がただ単にダビデの子孫として生まれただけの方であるならば、 私たちの救い主ではあり得ません。人間の救いは人間の内から出てくるものによ っては成し遂げられないからです。この方がいかに偉大なる人物であっても、た だダビデの子孫であるだけならば、救いをもたらすことはできません。人から出 たものが人を救い得ると考えることは、ちょうど穴に落ちた子供が自分の襟首を つかんで穴から自らを引き上げようとしているようなものです。救いは外から来 なくてはなりません。  そこでパウロはさらに言うのです。「聖なる霊によれば、死者の中からの復活 によって力ある神の子と定められたのです。」ここで「聖なる霊によれば」とい う言葉が言い表しているのは、この世を越えた次元です。この方はダビデの子孫 であると同時に、力ある神の子と定められたのです。何によってでしょうか。死 者の中からの復活によってです。(しかし、「定められた」と訳されていまして も、復活によって初めてイエスが神の子となったのではありません。ここで意味 されているのは、むしろ「明らかにされた」「現された」ということです。)キ リストの復活については、まさにこれこそこの世を越えた次元の事柄ですので、 私たちの理解を越える事柄です。復活のキリストに出会った弟子たちにしても同 じであったろうと思います。しかし、彼らにはっきりしたことが一つだけあった のです。それは何か。このお方は力ある神の子だ、ということです。単にこの世 の偉大なる王となる方でも、偉大なる指導者、偉大なる教師となる方でもないと いうことです。この世の次元を越えた方、力ある神の子だということなのです。 神の福音が「御子に関するもの」であるかぎり、それはこの世の次元の事柄では ありません。単に、「偉大なるイエスの生きたように私たちも生きよう」という ことでもなければ、「偉大なるイエスの教えに従って生きよう」ということでも ないのです。そのようなことでは、所詮肉なる私たちはどうにもならないのです。 神の福音は、「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と 定められた」御方に関するものなのです。  今日は挨拶の部分の前半をお読みしました。私たちはこの手紙の内容に入る前 に、まずいかに読むべきかということについて方向付けられねばなりません。そ して、その方向付けは私たちが聖書の他の箇所を読むときにも心に留めて置くべ きことであるとも言えるでしょう。次週は引き続き5節以下をお読みしたいと思 います。