「信仰による従順」
1998年1月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ1・1‐7
先週に引き続き、この手紙の冒頭にある挨拶の部分をお読みしました。パウロ はこの挨拶において、ことさらに多くの言葉を費やしております。それは、これ からこの手紙を読んでいこうとする読者に、まず理解してもらいたいことがあっ たからです。この手紙を理解する上で大切であると考えられることを、パウロは ここで記しているのです。それゆえ、私たちもまたここを丁寧に読む必要があり ます。そのようなわけで、二週間にわたって同じ箇所を読んでいるのです。今日 は特に5節以下に注目したいと思います。
なぜ異邦人に神の福音を?
初めに5節を御覧ください。「わたしたちはこの方により、その御名を広めて すべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされまし た。」
ここで「異邦人」という言葉が出てきます。これは直訳すると「諸国民」とい う言葉なのですが、ユダヤ人がこの言葉を使う時には、一般的にユダヤ人以外を 意味します。ここでパウロもその意味で用いているのでしょう。しかし、これが 諸国民であろうと異邦人であろうと、なぜこの言葉がここに出てくるのかは考え てみる必要があります。というのも、パウロはあえて2節において、「この福音 は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので…」と書いているから です。先週ここをお読みしたことを思い起こしてください。パウロはわざわざ自 分の宣べ伝えていることが明らかに旧約聖書の背景を持つことを語っているので す。イスラエルの長い歴史の中で預言者を通して語られた約束と関係があるのだ と、まず彼は説明しているのです。御子の到来は、その約束の成就に他ならない わけで、彼の宣べ伝えている神の福音は、その御子に関することなのだ、と言っ ているのです。神の福音はこのようにユダヤ人の歴史に根を下ろしたものであっ て、パウロの個人的な思想を述べているわけではないのです。であるならば、当 然ここで、なぜその福音が異邦人に語られなくてはならないかを理解しておく必 要があるでしょう。ユダヤ人の歴史に背景を持つものが、どうして異邦人に関係 するのでしょうか。
言うまでもないことですが、この問いは私たち自身にも深く関わる問いであり ます。なぜなら、私たちもまたここに言われている「異邦人」に違いないからで す。イスラエルの歴史は、私たちに直接関係はなさそうに思えます。ならば、こ のパウロの宣べ伝える「神の福音」がどうして私たちに関係するのでしょうか。 「キリスト教は西洋の宗教であって日本人にはそぐわない」などと言われた時代 がありました。それは誤った認識に基づく間違いです。なぜなら、キリスト教の ルーツはイスラエルの民であって、その福音が語り始められたのはパレスチナの 一角だからです。そこはいわゆる西洋ではありません。しかし、本当は東洋の宗 教なのだと言っても、それで私たちに身近になるわけではないでしょう。なぜ、 ここに「異邦人」が出てくるのか。なぜ「異邦人」である私たちが、なおパウロ の手紙を読もうとしているのか。それをまず明らかにしておかなくてはならない だろうと思うのです。
そうしますと、やはり5節の直前に記されていることが理解の鍵となるでしょ う。このように書かれております。「御子は、肉によればダビデの子孫から生ま れ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた のです。」先週も触れましたが、「肉」という言葉が指し示していますのは、こ の世に属する存在です。その言葉は、この世に生きているすべての者の苦悩に関 わります。そして、その「肉」であることの苦悩の本質は、罪があり滅び行く存 在であるということです。御子はダビデの子孫から生まれました。民族的にはユ ダヤ人であります。しかし、パウロが明らかに力点を置いているのは、御子が肉 となられたということです。人間の現実を共有してくださったということなので す。それは人間の罪と死に関わる普遍的な苦悩を共有された、ということに他な りません。であるならば、それは単にユダヤ人に関わることではないのです。神 の福音が、人間の罪と死に関わることであるならば、それはすべての民族、すべ ての国々の人に関わるのです。つまり異邦人にも関わることなのです。
そして、「聖なる霊によれば」が指し示しているのは、この世を越えた次元で す。人間の罪と死の問題は、この世に属することでは解決しません。救いはこの 世界の外から来なくてはなりません。御子の復活は、この方が単にこの世に属す る存在ではないことを明らかにしました。力ある神の子であることが現されたの です。救いがこの世を越えた神の力によるならば、そこでこの世に属する民族の 違いは意味を持ちません。この救いはすべての民族、すべての国々の人に関わり ます。異邦人に関わるのです。ここに、パウロの語る「神の福音」が一民族宗教 に留まり得なかった理由があります。これが我々この国に住む者にも語られる理 由があるのです。
信仰と従順
しかし、ここでもう一つ心に留めるべき言葉があります。パウロは明らかに私 たちの救いについて語っているはずなのに、ここで「すべての異邦人を救いへと 導くために、恵みを受けて使徒とされました」とは言っていないのです。もちろ ん、そう書いたとしても、内容的に間違いではないでしょう。しかし、パウロは あえて違った表現を用いて書いております。彼は、「すべての異邦人を信仰によ る従順へと導くために」と言っているのです。
伝道者であるパウロが書いているのだから「信仰」について書いているのは当 然と言えば当然でしょう。ましてや、聖書の中にこの手紙があるのだから「信仰 」について書かれていてもなんら不思議ではありません。しかし、ここで少し立 ち止まって考えてみる必要があります。私たちが当たり前と考えている「信仰」 とは、一体いかなるものなのでしょうか。これから手紙の内容に深く入っていく につれ、私たちが繰り返し「信仰」という言葉に出会っていきます。そこで、私 たちはその言葉を理解しているつもりで読んでいって大丈夫なのでしょうか。私 たちが「信仰」について考える時、私たちはパウロと同じことを考えていると言 えるでしょうか。もし、私たちがそれぞれパウロとは異なった「信仰」なるもの の概念をこの手紙に持ち込んでいくならば、この手紙そのものをまったく誤解し てしまうことになるでしょう。
ですから、ここでパウロは「信仰による従順」という言葉を用いるのです。も っとも、これは原文においては「信仰の従順」と書いてあるだけですので、どの ように訳せばよいのか必ずしも明確ではありません。新共同訳のようにも訳せま すし、「信仰すなわち従順」とも訳せます。いずれにしても、パウロがあえてこ こで「信仰」と「従順」という言葉を並べて書いていることは重要です。私たち はこの手紙の冒頭において「信仰」と「従順」という二つの言葉が並んでいたこ とを後々まで覚えておく必要があるのです。なぜなら、「従順」という言葉がパ ウロの用いる「信仰」という言葉の意味を規定することは確かだからです。です から、私たちがこの手紙を読みますときに、「従順」と結びつかない「信仰」を 念頭に置いて読んでも意味がないのです。「信仰」と「従順」が並べられている ことが意味するのは、「信仰」においては私たちが「主」ではなくて、あくまで も「従」だ、ということでしょう。つまり、私たちは「従うべき存在」であって、 私たちが中心にいるのではないのだ、ということであります。
しかし、しばしば私たちが「信仰」と呼ぶものは、必ずしもそのようなもので はないことを認めなくてはなりません。それはローマ人であっても日本人であっ ても同じです。「神を信じる」と言う時、私たちは何を考えているのでしょうか。 往々にしてそれは神から何かをいただいたり、何かをしてもらうための「信心」 以上のものではないのではないでしょうか。ですから「願っていることをしてく れない神や求めを満たしてくれない神ならば、そんな神は信じない」と平気で言 い放つようなことが起こるのです。その場合明らかに「主」であるのは、相手如 何により信じたり捨てたりすることを決定する人間の方なのであって、神は「従 」となっているわけです。それは何も教会の外だけの話ではありません。私たち は他人事のように考えてはならないのです。教会の中にいくらでも見られること なのです。例えばこの手紙を読み進んでいきますと、「信じる者すべてに与えら れる神の義」などという言葉がでてきます。これも勘違いしますと、「神の義」 なる何かを得るという目的のために信仰とはするものなのだ、と考えてしまうこ とになります。そうすると、いわゆる御利益宗教の御利益と「神の義」が入れ替 わっただけで、本質的には大差ないことになるでしょう。後に私たちは詳細に学 ぶことになりますが、そもそも「神の義」あるいは「神の救い」とは、私たちの 信仰や信心と引き替えに受ける「何か」ではないのです。
パウロが「信仰」と呼んでいるのは、そのような人間中心の信心ではないので す。信仰においては私たちは「主」ではなくて「従」なのです。そこで前提とな っていることは、私たちが求めたり私たちが信じたりする前に、私たちを求めて いてくださる方がおられるということなのです。「従順」という言葉はそこで始 めて成り立つのです。相手が「お前などいらない。お前など必要ない」と言って いたなら、もはや「従順」という言葉は意味を持たないでしょう。
このことをよく示しているのは、続く6節に書かれているパウロの言葉です。 「この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがた もいるのです。」ローマの信徒たちが信仰者であるということは、「イエス・キ リストのもの」であるということなのです。彼らがイエス・キリストを所有して いるのではなくて、彼らはイエス・キリストに所有されているのです。イエス・ キリストに属する者とされているのです。そして、彼らがイエス・キリストのも のであるのは、彼らが「召された」からであります。「召された」ということは、 召してくださった方がおられたということです。愛をもって召してくださった方 がおられたから、彼らは今「キリストのもの」なのです。
ですからここで畳みかけるように、パウロは彼らに語ります。「神に愛され、 召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。」ここで「聖なる者」と書か れているのは、いわゆる「聖人」ということではありません。倫理的にある高さ を達成した人々ということでもありません。これは「神のものとなった人々」を 意味するのです。そうしますと内容的には三つとも受け身です。愛してくださり、 召してくださり、聖別して御自身に属する者としてくださる方がおられて初めて、 彼らは「神に愛され、召されて聖なる者となった」人々であり得るのです。
パウロはこの手紙において信仰の事柄を語ろうとしています。しかし、以上の ことから明らかなように、パウロが伝道者としてこれから語ろうとしていること は、 「神様の救いを得ようと思うならば一生懸命信仰に励みなさいよ」と言うことで はないのです。そうではなくて、愛をもって召してくださる方と、その召しに身 を委ねて従順に生きる人々という結びつき、生きた関係を生み出すことこそパウ ロの使命であるのです。そのために、パウロは恵みを受けて使徒とされたのであ ります。そのことを理解した上で、ローマの信徒たちはパウロの手紙を読み進ん でいく必要がありました。それは私たちにおいても同じことであります。
挨拶の終わりに、パウロは恵みと平和を祈ります。この部分は他の手紙にもま ったく同じ言葉で出てきます。「わたしたちの父である神と主イエス・キリスト からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」しかし、以上お読みしてきま した内容を考えてみますと、これも単なる決まり文句の類ではないことが分かり ます。ここで「恵み」とは、受けるに値しない者に向けられた神の愛を意味しま す。平和とは、後に5章に再び出てきますが、まず第一には「神との平和」のこ とであります。この手紙には、読む者たちがまことに父なる神とイエス・キリス トからの恵みと平和の中に生きる者であって欲しい、そのような信仰の従順にお ける神との関係に生きる者であって欲しいとの願いが込められているのです。そ こにこそ肉なる私たちの救いがあるからです。私たちは、この恵みと平和を祈り 求めるパウロの祈りを心に留めて、この手紙をさらに読み進んでいきたいと思う のであります。