「ローマ訪問の意図」
1998年1月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ1・8‐15
初めにどうぞ使徒言行録19章21節以下を御覧ください。
「このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエ ルサレムに行こうと決心し、『わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはな らない』と言った。そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの 二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。 (19・21‐22)」
これは、パウロが行った第三回目の伝道旅行の途中においてエフェソに滞在し ていた時のことです。パウロはこの時点でローマに行く計画を持っていたことを 使徒言行録は伝えております。その後、エフェソで大変な騒動がありました。そ の騒動が収まった後、パウロはエフェソを後にし、マケドニア州へと向かいます。 20章1節以下を御覧ください。
「この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げ てからマケドニア州へと出発した。そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くし て人々を励ましながら、ギリシアに来て、そこで三ヶ月を過ごした。(20・1 ‐3)」
ここでパウロが滞在しましたのは、具体的にはギリシアの大きな港町であるコ リントであったろうと思われます。紀元58年頃のことです。パウロがローマの 信徒に宛てて手紙を書いたのはこの時であったようです。
ローマの教会は、パウロの伝道を通して生み出されたものではありません。そ れゆえ、ローマを訪れる前に手紙を書き送っておく必要を感じて、これを書いて いるのです。今日お読みしました8節以下には、パウロがどのような意図をもっ てローマを訪問しようとしているかが記されております。直接面識のない人々を 訪ねるのですから、ある意味で当然のことです。しかし、それにしても、パウロ のローマ訪問の願いとその理由が、殊更に多くの言葉を費やして書かれているよ うにも思います。それは、パウロがローマを訪問するに当たっての意図を正しく 理解して欲しいという願いの現れであると言えるでしょう。
この時点で、パウロは既にかなり広い範囲に渡って三回の伝道旅行を行ってお ります。彼の福音宣教を通して生み出されていった教会が多数あったのです。そ して、パウロはさらに帝国の首都であるローマに歩みを進め、さらには西の果て なるイスパニアにまで向かおうとしていたのでした。(ローマ15・24)しか し、彼にとって本当に大切であったのは、働きの範囲を広げるということではあ りませんでした。どれだけ広い範囲に福音を宣べ伝えることができるか、それも 確かに重要な課題でしょう。しかし、働きが正しい意図をもって為されることは、 彼にとってより大切なことであったのです。というのも、尊い伝道の業でさえ、 誤った動機から為され得ることを知っていたからです。後にパウロが獄中からフ ィリピの信徒に宛てて次のように書き送っている通りです。「キリストを宣べ伝 えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。 (フィリピ1・15)」人はしばしば目に見えて現れていることにしか目を留め ないものです。表面的なところに気を取られ、大切なことを疎かにし、見落とし ていることが多いのです。あるいは自分自身をさえ誤魔化していることが多いの です。しかし、パウロは、神の前に明らかであるのは、その内側にあるものであ ることを知っていた人でした。パウロは、彼の意図や動機こそ、まず神の前に明 らかであることを知っていた人であります。それゆえに、これがローマの人たち に対しても明らかにされることを願っていたのでした。まかり間違っても、パウ ロが自らの勢力範囲を広ようとしてローマに行くかのように誤解して欲しくなか ったのです。パウロの計画の根底にあるものを正しく理解した上で迎えて欲しい と願っていたのであります。
感謝の祈り
それでは、そのように意図されて書かれた部分の内容に目を向けていきましょ う。初めに8節以下を御覧ください。
「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの 神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。わ たしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証しし てくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い 起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会 があるように、願っています。(8‐10節)」
パウロはまずここで神に感謝を捧げます。ローマの人たちの「信仰が全世界に 言い伝えられている」ことを感謝しているのです。そこでパウロはローマのキリ スト者がいかなる者たちであるかに言及していません。彼らがいわゆる立派な信 仰者であり、あるいは大きな働きをしていることが知られていることについて感 謝しているのではないのです。ただローマにキリスト者がいると知られている、 そのことを言っているのです。そして、それを神に感謝しているということは、 このことが他ならぬ神御自身の業であると、パウロが理解していることを表して おります。ローマに教会がある。それが誰の手によって成ったか。それはある意 味でどうでもよいことでした。パウロの働きによるのか、他の人によるのか、と いうことには関心がないのです。彼にとって意味があるのは、ひとえに神の御業 が行われることでありました。
ですから、パウロの願いは、「神の御心によってあなたがたのところへ行ける 機会があるように」ということに他なりません。様々な計画が、結局は自己実現 の願いでしかないことが、この世においてはいくらでもあります。どれほど素晴 らしい行いに見えても、人のためになる計画に見えても、掘り下げてみると自己 実現の願いや野心でしかないことはいくらでもあります。いや、単にこの世のこ とだけではありません。教会においても見られることかも知れないのです。先に も申しましたように、教会の伝道の働きでさえ例外ではありません。キリストの 名を用い、「主のために」と言いながらも、そこには結局「私」や「私たち」し かいないということがあり得るのです。しかし、パウロのローマ行きの計画はそ のようなものではありませんでした。パウロが「願っている」ということの意味 は、そのようなものではありません。それは9節にあるように「祈っている」と いうことなのです。
単なる「願い」と神の御前における「祈り」とは異なります。神への祈りが失 われていく時、人の営みはどれほど美しく装っても人間的な罪にまみれた願いや 求め以上のものでなくなってしまいます。パウロは神を証人に立てて、その意図 を語ることができました。それは彼が常に祈っているからです。彼のすべての営 みの背後に祈りがあるからです。
霊”の賜物によって
そこで彼は神に祈り願っている訪問の目的を明らかにいたします。11節以下 を御覧ください。
「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、 力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持 っている信仰によって、励まし合いたいのです。(11‐12節)」
まず、その第一の目的は、教会を力づけることにありました。パウロは彼らを 支配しようとしているのではなくて、彼ら一人一人が信仰者としてしっかり立て るように力づけたいのです。また教会としてもしっかり立ち得るように、彼らを 助けたいのです。それが彼の祈りでした。
しかし、このことについても、パウロはあえて「“霊”の賜物をいくらかでも 分け与えて」と言っております。この「“霊”の賜物」が何を意味するのかは必 ずしも明確ではありません。この手紙の12章6節以下には次のように書かれて おります。「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を 持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言をし、奉仕の 賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。…(12・6‐8)」ですから、こ こでも様々な働きに必要な力を考えているのかも知れません。しかし、いずれに せよ、パウロはここであえて「“霊”の」賜物と言っていることは重要です。 「“霊”の」賜物ということは、神から来る賜物であるということです。パウロ は自分自身が優れた伝道者であり教師であるから、彼らを助け力づけられるとは 思っていないのです。あくまでも、彼らに分け与えることができる最善のものは 自分の内にある何かではなくて、神から来るものであるということを知っている のであります。彼は神に用いられる器に過ぎないことを知っているのです。
しかも、彼はすぐさま12節を続けます。パウロが彼らより上に立っている特 別な人物であるかのように誤解されるかも知れないからです。彼はここで、ただ 一方的に何かを与えるというのではなく、「あなたがたのところで、あなたがた とわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」と言ってい るのです。パウロ自身も励まされることを願っている。そして、それは互いに人 間の内から出る何かによるのではなくて、互いの信仰によるのであり、神による のだ、ということであります。
人は往々にして傲慢なものです。特に人より優れているならば、そのことによ って他者を助けることが出来ると考えているものです。自分の力で誰かをしっか りと立たせ得ると考えてしまう。人を生かす何かが自分の内にあるかのように考 えているものであります。しかし、本当に人を生かすものは罪ある人の内からは 出てきません。人は神から受けなければ分かち与えて人を真に生かすことは出来 ないのです。そして、人は肉から出るものによって、キリストの体なる教会を建 て上げることは出来ません。神の霊が人を用いて働き分かち与えるものをもって しか、真の教会は形作られないのです。肉から出たものは肉に過ぎません。神か ら離れ、神ならぬ自我から出たものによって、神に属するキリストの教会が形作 られることはないのです。
負債者パウロ
さらにパウロのもう一つの目的は、ローマにおいて福音を宣べ伝え、伝道の実 りを得ることでありました。すなわち、既にパウロが語っているように、「その 御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導く」ために、パウロはロー マに向かおうとしていたのです。13節以下を御覧ください。
「兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなた がたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てなが ら、今日まで妨げられているのです。わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、 知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにい るあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。(13‐15節)」
私たちは既に使徒言行録において、初代教会の福音宣教におけるパウロの働き を見てまいりました。多くの迫害と困難の中で様々な労苦を負いつつ数々の教会 を生み出してきたその働きには、ただただ驚嘆するばかりです。繰り返し繰り返 し命の危険に曝されながら、なおエルサレムに向かい、その後ローマにまで向か おうとしているのです。しかし、パウロのそのような働きを、彼自身どのように 考えていたかが、この手紙によく現れております。彼は「何か実りを得たいと望 んで」ローマに向かおうとしています。ここに用いられているのは、農夫のイメ ージです。収穫を刈り入れる農夫です。そこには、確かに彼の働きがあるのだけ れど、実りをもたらされるのは神御自身であるという理解があります。ローマの 信徒たちの信仰について、パウロが神に感謝していたことを思い起こしてくださ い。彼は神に用いられる一労働者として、ローマに向かおうとしているのです。
そして、それは「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、 果たすべき責任」があるからなのだ、と言うのです。実は、ここには直訳すると 「負債者」という言葉が用いられております。パウロは自らを「負債者」と呼ぶ のであります。つまり、彼がどれほど労苦を重ねたとしても、それは何一つ誇る べき事ではなくて、ただ負債を返済しているだけなのだ、と言っているのであり ます。彼が御言葉を宣べ伝えたからと言って、それは彼の誇りにはならないので す。彼は負債者だからです。どうしてパウロは自らを負債者と呼ぶのでしょうか。 それは、彼が恵みの内にいるために、どれほど大きな愛の犠牲が払われたかを知 っているからであります。それは第一義的には神の愛であり、神の犠牲です。パ ウロは、彼のために他ならぬ神の子が十字架において血を流されたことを知って いるからであります。そして、第二義的には、彼の現在は、人の愛と労苦に負っ ているということです。彼がその福音を聞くに至るまでに、他の多くのキリスト 者たちの労苦があったことを知っているのです。パウロの回心に至るまでに、そ してパウロが伝道者となるに至るまでに、多くの人々の涙が流され、血が流され たことをも、パウロは知っているのです。もとより、十字架の犠牲において、既 に払いきれない負債なのです。ただ感謝をもって自らを捧げるしかないのです。 そして、させていただけることを感謝をもって為すことしかできないのです。パ ウロが何をしたところで、誇るべきことは何一つないことを、彼は知っているの です。それゆえ、彼は次のように書き送るのであります。「それで、ローマにい るあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」
負債ということに関しては、私たちも同じです。であるのに、私たちが少々の 労苦を担い、何かを為したところで、そのことを誇ったり、逆に他人と比較して 卑下したりしているとするならば、それは大変恥ずかしいことです。私たちがい ったい何者だと言うのでしょう。パウロがそうであったならば、私たちもまた、 ただ神の御業が現れることを求めて、自らを感謝をもって捧げ、仕えていくこと しかできないでしょう。そこにパウロの喜びもありましたし、私たちの喜びもあ るのです。