「神の力なる福音」
1998年1月25日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ1・16‐17
私たちが使っております新共同訳聖書では16節と17節に「福音の力」とい う小見出しがついております。この二つの節を一つのまとまりと理解しているわ けです。ここで訳出されておりませんが、原文には16節に「なぜならば」と訳 せる言葉がありますので、15節とまったく切り離されているわけではありませ ん。内容は繋がっているわけです。しかし、実際、ここには書簡全体の根本主題 が提示されていると見る人も少なくありません。そこで、私たちもまたこの部分 をそのように受け止めまして、短い箇所ではありますが二週に渡ってここをお読 みすることにしたいと思います。
福音を恥としない
まず16節の冒頭で、パウロは「わたしは福音を恥としない」と語ります。な ぜこのような言葉がここに出てくるのか奇妙に思います。そもそも、あの伝道者 パウロが福音を恥とするようなことは考えられないからです。その直前に、パウ ロ自ら「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたい」と言ってい るではありませんか。そのパウロがどうしてあえて、「福音を恥としない」など と言っているのでしょうか。不思議です。
しかし、もう一方で私たちについて考えます時に、この言葉は私たちと無関係 ではないようにも思えます。私たちは常に福音を決して恥とはしてこなかったし、 これからも福音を恥とすることはありえない、と果たして言い切れるでしょうか。 むしろ、常に私たちは福音を恥としてしまう可能性をもっていますし、しばしば 実際に恥としてしまった時もあるのではないか。自らを福音に生きる者として現 すことができなかったことが、あるのではないか。そのようなことを、このパウ ロの言葉から考えさせられます。そうしますと、パウロがなぜ「わたしは福音を 恥としない」と言っているのかを、ここで私たちは考えておく必要があろうかと 思うのであります。
この「恥とする」という言葉を聞きますときに、すぐに思い出しますのは、福 音書に記されております次のようなキリストの言葉です。「神に背いたこの罪深 い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝い て聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。(マルコ8・38)」マ ルコによる福音書が書かれましたのは、キリストの死から40年近く後のことで す。ということは、それまで教会がキリストの言葉を語り伝えてきたということ を意味します。この言葉を教会が長い間語り伝えて保存してきたというこは、こ の言葉がいつでも教会の現実と無関係ではなかったということを意味します。常 に、自分自身への語りかけとして聞いてきたのです。「わたしとわたしの言葉を 恥じるのか?」その問いかけを受けてきたのです。つまり、教会は常にキリスト とキリストの言葉を恥じる可能性を持っていたということであります。
「恥とするか、恥としないか」という問いかけがあるということは何を意味す るのでしょうか。これはキリストの福音をいかなるものと理解していたかという ことに関わります。キリストの福音を、この世の諸々の哲学的思想や諸宗教と同 列に並べ、同じ土俵の上で比較して、確かにキリストの福音の方が優れているし、 その優越性を合理的に説明することができる。もし福音がそのような類のもので あるものであり、彼らもまたそのゆえにキリスト者となったのであるならば、 「恥じるか、恥じないか」という問いかけは出てこないはずであります。しかし、 福音はこの世にとっても、教会にとっても、初めからそのようなものではありま せんでした。教会は初めから、福音が「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人 には愚かなもの(1コリント1・23)」であることを知っていたのであります。 ですから、その福音を信じ、語るということは、人々から愚かに思われることで もあり、躓きを与えることでもあり、自らに迫害を招くことでもあり得ることを、 彼らは最初から経験してきたのであります。
そして、そのことを、私たちもやはり知った上でここにいるのだろうと思うの です。すなわち、例えば「この日本の諸宗教と並べて比較して明らかにキリスト 教の方が優れているからキリスト者になりなさい」という形の伝道が成り立たな いことを、私たちは皆、知っているのではないでしょうか。この世の諸々の思想 と福音とを並べて、それを上から眺めて、「この方が良いでしょう。これを選び なさい」という形の伝道が成り立たないことを確かに私たちは知っているのであ ります。ですから、常にこの世において「恥じるか、恥じないか」という問いか けの前に曝されているのであります。
そのことを考えますときに、パウロが「わたしは福音を恥としない」と言った ことの理由が、少なくとも「何でないか」が明らかになってまいります。つまり、 パウロは、自分の伝える福音がローマにおいても十分通用する、という意味で 「恥としない」と言っているのではないのです。ローマは当時の文化と教養の中 心地です。パウロはそこに行こうとしております。今まで願いながらも、なかな かそこに行けませんでした。ある人々は陰口を叩いたかも知れません。「パウロ はギリシア・ローマ世界の文化的教養人に語るべき言葉など持っていないのだ。 思想的には通用しない程度のものなのだ。だから自信がないためにローマには行 こうとしないのだ。」パウロがそこで「わたしは福音を恥としない」言うとする ならば、それは「私の語っている福音の言葉はローマの文化的教養人の持ってい る言葉より劣ったものではない」と言っているように聞こえなくもありません。 しかし、既に述べてきたことから明らかなように、パウロはそのようなつもりで この言葉を述べているのではないのです。
救いをもたらす神の力
ではパウロがこのように語る理由は何であるのでしょうか。それをパウロは次 の言葉によって明らかにしております。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア 人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」福音がいかなる 意味で神の力であるのか。そして、神の力はいかにして人に救いをもたらすのか。 そのことについては、この手紙において後に詳細に論じられることになります。 今は特にその内容に深く入っていくことはいたしません。しかし、ここでパウロ が「福音を恥としない」という言葉との関連で神の力に言及していることには注 目したいと思います。なぜ、ここに「神の力」なる言葉が出てこなくてはならな いのでしょうか。
私たちは、このパウロの言葉を考えますときに、すぐにこの背景に旧約聖書が あることに気付きます。旧約聖書において、実にしばしば神は力強い方として賛 美されており、また救いの御業もこの神の力によることが語られているからであ ります。
例えば詩編だけ見ましても、ここかしこに次のような言葉が見うけられます。 「わたしは御力をたたえて歌をささげ、朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。 あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場。(詩59・17)」「今、わたし は聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えを見ています。(詩63・3)」 「子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう、主への賛美、主の御力を、主が成し遂 げられた驚くべき御業を。(詩78・4)」
そして、これらの箇所において神の力が語られる時、そこに同じように見られ るのは、人間の弱さであります。無力さなのであります。そこには、神を仰ぎ望 むことしか出来ない人々がいます。渇き果てている人がいます。貧しい人がいま す。御名を呼ぶことしかできない人がいるのです。つまり、神の力は常に人の無 力さとの関連で語られているのです。
イスラエルの民において救いの原点ともいえる出エジプトの出来事においても、 救いにおいて現される神の力と、その力の前における人の無力さが対照的に現さ れております。例えば、出エジプト記14章における「葦の海の奇跡」の物語を 見れば明らかでしょう。そこにはエジプトの軍勢を背後に見、もはや何をも為し 得ないイスラエルの民がいます。もはや絶望なのです。しかし、そこでモーセが 言います。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われ る主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度 と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたた ちは静かにしていなさい。(出14・14)」そして、イスラエルは救われ、そ の後に15章において次のような歌がモーセと民によって歌われるのです。「主 に向かってわたしは歌おう、主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込 まれた。主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。 (出15・1‐2)」つまり、そこに力強い神がおられ、その御力は寄り頼む無 力な民にとっては救いの力となったのです。そして、同時に、神に逆らう傲慢な 民、どれほど武力を持っていたとしても神の前に実のところは無力な者でしかな いエジプトの民にとって、神の御力は裁きをもたらす力となったのであります。
さて、このような旧約聖書の記事を背景に読みますと、パウロが「救いをもた らす神の力」について語っています時、そこには必然的に「人間の無力さ」が前 提となっていることが分かります。「福音は救いをもたらす神の力だ」と語られ る時、その救いの対象であるのは、その神の力を仰ぎ望むしかない、肉なる者に 過ぎない、無力な私たち人間だということが、その行間に語られているのであり ます。
そして、それは確かに私たちの現実であり事実であろうと思うのです。この世 に属する肉なる者でしかなない私たちは、その事実をどうすることもできません。 肉であることの苦悩の本質は罪であり死であると、この書を読み始めました時に 申し上げました。私たちが罪を持っていること、罪を持った者として死んでいく こと、そのようにしてただ滅びに向かう存在でしかないこと、その事実について 私たちはどうすることもできないのです。そのことについてはローマにおける文 化的教養人であろうが、ギリシア的文化の素養がない人々であろうが、関係ない のです。ですから、パウロは本当ははじめからそのような観点は問題にしており ません。どのような人でありましても、人の持てるものによってはどうすること もできないことがあるのです。本当は絶望的なのです。突き詰めていくならば絶 望するしかないのが、人間の本来の生なのです。絶望しないためには、どこかで 自分を誤魔化さなくてはなりません。そして、事実そうしているのでしょう。し かし、誤魔化しがきかなくなる時がきます。必ず来るのです。自らの破れと無力 さを思い知らざるを得ない時が来るのです。
人は自分が本当はいかなる者であるかということに気付いて、初めて「神の力 」とここに記されていることの意味を知るのであります。自分の真の姿を知らず 傲慢に生きている人にとって、「神の力」なる言葉は意味を持たないからです。 自分に力があると思っている限り、「神の力」が慕わしいとは思わないでしょう。 しかし、罪と死について自分の無力を知る者は、その深い淵の底から神を呼び求 めることしか出来ないことを知るのであります。這い上がることの出来ない深い 淵の底に自分を見いだす者は、ただ救いをもたらす神の力と、その救いの約束に 信頼し、主の御名を呼び求めることしかできないことを知るのであります。そこ では、人はもはや上から眺めて自分を主体として判断し、いわゆるこの世の「よ り良きもの」を求めるということはしないでしょう。肉なる者に過ぎない私たち が神なるお方を前にして裁き主を演じていたこと自体、実は不遜であり傲慢であ り、滅びに至る恐るべき罪に他ならないことを悟るからであります。
人はただ神の憐れみを求め、神の恵みの言葉に身を委ねることしかできないの です。罪と死から人を救う神の力なる福音が語られる時、そこではただ信頼し身 を委ねるかどうかということだけが問題となるのです。ユダヤ人であろうがギリ シア人であろうが日本人であろうが関係ありません。皆、同じく肉なる者である からです。同じように深淵の底にいるからです。そのゆえに、福音は、「ユダヤ 人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに」救いをもたらす神の力だと語 られているのです。
「わたしは福音を恥としない。」パウロはギリシア・ローマ世界の言葉と対論 しながら福音の優越性を証明しようなどという気は毛頭ありません。パウロはロ ーマに福音を宣べ伝えに行くのです。神の恵みの言葉を伝えに行くのです。福音 が信じる者に救いをもたらす神の言葉であるゆえに、その言葉を伝えに行くので す。福音は人の言葉によって弁護されたり支持されたりする必要はありません。 この世のもろもろの言葉と同列においてはならないのです。福音が真に神の力で あるならば、神の力は福音そのものが実証するでしょう。私たちは、ただこの福 音を恥とせず宣べ伝えていったらよいのです。