「信仰による神の義」
1998年2月1日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ1・16‐17
今日は特に17節を心に留めたいと思います。ここに「神の義」という言葉が 何の説明もなく唐突に出てまいります。聖書を読み始めた求道中の方々から「神 の義とは何ですか」と尋ねられることがありますが、確かに分かりにくい言葉の 一つであると思います。「義」という言葉で、私たちはまず何を考えるでしょう か。その意味するところを、私が持っています漢和辞典で調べてみますと、まず 第一の意味は「正しい、道にかなった」などと説明されていました。この言葉で 私たちが思い浮かべる第一の言葉は「正義」でしょう。そうしますと、「神の義 」は「神の正しさ」を意味することになります。さらに言いますならば、それは 人間の罪を罰する神の正しさ、厳しい審判をもたらす神の正しさであると言うこ とができるでしょう。
今から約500年ほど前、戒律の最も厳しいアウグスチヌス派の修道院の修道 僧であったマルティン・ルターもまた、そのようにこの言葉を恐れた者の一人で ありました。修道僧教育は、ルターに自己を観察することを求めました。ルター は自己を徹底的に厳密に吟味したのです。彼は世の悪行に身を委ねていたわけで はないでしょう。しかし、彼は自分の内に、抑えがたい自己追求があることを見 いだしたのです。善行や敬虔な業においてすら、自分自身を求め、自分自身のこ としか考えていないことを見いだしたのです。彼は、どのように繕っても、自分 が貧しい罪人であり、到底正しい神の前に立ち得ない者であることを認めざるを 得なかったのです。ですから、彼は後に、「わたしはあの『神の義』という言葉 を憎んでいた」とさえ書いているのです。
しかし、そのようなルターがその前で立ち止まらざるを得ない聖書の言葉があ りました。それが本日お読みしました1章17節です。もう一度お読みします。 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を 通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとお りです。」ここで「神の義」が正しい審判によって罪人を罰する義だけを意味す るとするならば、この文が理解できなくなるのです。神の義から神の怒りと罰し か期待できないとするならば、どうしてパウロは「福音の中には」と言うのでし ょうか。神の義が人間の滅びしか意味しないとするならば、どうして「良き知ら せ」の中に啓示されていると言えるのでしょう。
「神の義」という言葉が理解し難いのは、このような点においてなのです。 「義」という言葉そのものは難しい言葉ではないのですが、私たちが持っている 理解を聖書に持ち込んでも意味が通じないのです。しかし、このように理解し難 い箇所は大事にしなくてはなりません。そこで聖書を投げ捨ててはならないので す。ルターはどうしたでしょうか。彼は「義」と「福音」そして「信仰」の関係 を日夜考え、この箇所に取り組んだのです。そして、やがて彼は福音の真理を再 発見することとなります。そのことは修道院の塔において起こったので、これは 「ルターの塔の体験」などと呼ばれています。宗教改革の発端となる出来事でし た。
私たちは今日、これ以上、ルターがそこで何を考え、何を見いだしたかという 問題に立ち入ろうとは思いません。ルターの著作は読もうと思えば日本語で読め ますし、また別の機会にお話することもあるでしょう。今日は、主の御前にあっ て、私たち自身、この言葉の前にしばし立ち止まり、御言葉を思い巡らしたいと 思うのです。
神の義
先週、私たちはパウロが福音を「神の力」と呼んでいることに注目して同じ箇 所を読みました。そして、その時、パウロの語る「神の力」という言葉の背景に 旧約聖書の言葉があることを見てきたわけです。人間の無力さと並べて神の力、 神の力強い御業が語られるのは、旧約聖書にしばしば見られる構図です。私たち は特に、イスラエルの民にとって原点とも言える出エジプトの出来事に、その構 図が典型的に現れていることを見てまいりました。今日は17節に特に注目して いるわけですが、これが16節と無関係でないことは言うまでもありません。1 7節の「神の義」という言葉だけに着目し、それを私たちの語感から理解しよう としても理解できないのは当然のことなのです。先週、16節には訳されていな いけれども「なぜならば」という言葉があることをお話ししました。実は、17 節も、「なぜならば」という言葉によって16節と繋がっております。そうしま すと、パウロが福音を「神の力」と呼んだのは、福音の中に「神の義」が啓示さ れているからだ、ということが分かります。細かいことはさておき、明瞭なこと は、「神の義」が「神の力」と無関係ではない、ということです。そして、「神 の力」という言葉に旧約聖書の背景があったように、やはり「神の義」という言 葉についても旧約聖書の背景があることが考えられます。
では、旧約聖書において「義」という言葉はどのようなところに現れるのでし ょうか。本当は、一つ一つ丁寧に御一緒に開いて見ていきたいと思うのですが、 何せ数が多すぎで残念ながらそれは不可能です。そこで、理解の助けになる一箇 所だけを開いておきたいと思います。イザヤ書45章20節から25節までをお 読みいたしましょう。
「国々から逃れて来た者は集まって、共に近づいて来るがよい。偶像が木にす ぎないことも知らずに担ぎ、救う力のない神に祈る者。意見を交わし、それを述 べ、示せ。だれがこのことを昔から知らせ、以前から述べていたかを。それは主 であるわたしではないか。わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神 は、わたしのほかにはない。地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救い を得よ。わたしは神、ほかにはいない。わたしは自分にかけて誓う。わたしの口 から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない。わたしの 前に、すべての膝はかがみ、すべての舌は誓いを立て、恵みの御業と力は主にあ る、とわたしに言う。主に対して怒りを燃やした者はことごとく、主に服し、恥 を受ける。イスラエルの子孫はすべて、主によって、正しい者とされて誇る。 (イザヤ45・20‐25)」
これを読みまして、「義という言葉が出てこないではないか」と思われた方も あるでしょう。しかし、良く見ますと、まず「正しい神」という言葉において、 形容詞の形で出てきます。そして、実は24節において「恵みの御業」と訳され ている言葉が「義」という言葉なのです。また、25節において「正しい者とさ れて」という動詞の形でも出てくるのです。
「わたしをおいて神はない」と言われる主は、自らを「正しい神」と呼ばれま す。確かに神は正しいのです。「正しくない神」という表現があるとするならば、 それは言葉の矛盾となります。人がその拝む神について、その神の「正しさ」を 考えないとするならば、まさしくそれは人間の都合のために人間が作った偶像に 過ぎません。20節に語られているのは、そのような偶像についてであります。 神が真に神であるならば、そのお方は間違いなく「正しい神」であるはずなので す。そして、正しい神であるならば、罪を正しく裁かれる神であるはずなのであ ります。しかし、ここでただ単に「正しい神」とだけ語られているのではありま せん。そのことに注目しなくてはなりません。その「正しい神」はその正しさに よって滅びをもたらして全てを終えられる神ではなくて、自らを「救いを与える 神」と呼ばれるのであります。
神はその力強い創造的な御業によって救いをもたらされるのです。すなわち、 神御自身がまことの神として、正しい秩序を打ち立てられるのです。これが「神 の義」であります。神がまことの神として支配し、人々を神との関係における正 しい状態へと回復してくださるのであります。これが「神の義」であります。罪 の内にあって、裁きのもとにある状態から、まことの神の支配のもと、罪を赦し、 罪から解放し、神の命の内へと回復してくださるのであります。これこそが「神 の義」に他ならないのです。「わたしの前に、すべての膝はかがみ、すべての舌 は誓いを立て、恵みの御業(義)と力は主にある、とわたしに言う」と書かれて いる通りです。ここで語られている力強い神の救いの御業こそ「神の義」に他な りません。それゆえ、新共同訳では「恵みの御業」と訳されているのであります。 ですから、その「恵みの御業」によって、「イスラエルの子孫はすべて、主によ って正しい者とされて誇る」と書かれているのです。
ちなみに、ここで「イスラエルの子孫はすべて」と書かれておりますが、これ が単に民族的なこと、肉によるイスラエルを言っているのでないことは明らかで す。なぜなら、22節に「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを 得よ」と書かれているからです。呼びかけられているのは、すべての人々なので す。彼らに求められているのは、救う力のない偶像(20節)、すなわち神なら ぬ者に寄り頼むことを止めて、ただ主を仰ぐことだけなのです。「わたしを仰い で、救いを得よ」と言われるのです。そうして、仰いだ者すべてがここに書かれ ている「イスラエルの子孫」に他なりません。
彼らは「主によって、正しい者とされて誇る」というのです。既に語られてき たことから明らかように、「正しい者」とは、いわゆる間違いを犯さない正しい 人間になるという意味ではありません。神との関係において正しい状態に回復さ れた者ということであります。救われた者と言い換えてもよいでしょう。「誇る 」という言葉も、あまりよい印象を与えませんが、ここでは神の救いを多いに喜 ぶことですから、悪いことではありません。主に救われた者として大いに喜ぶの です。
信仰から信仰へ
ローマの信徒への手紙に戻ります。以上のように、「神の義」が神の恵みの御 業に他ならないことが分かってきますと、17節が理解できるようになります。 神の恵みの御業が啓示されているからこそ、福音なのです。啓示されている、と いうのは「教えられている」というのとは違います。単なる真理についての「教 え」ではないのです。「啓示」とは具体的に現れることを意味します。神の恵み の御業である「神の義」が実体として現れることであります。救いの御業である ならば、それが現実として起こることを意味します。そして、ここで「啓示され た」と書かれていないで、「啓示されている」と書かれていることに注意しなく てはなりません。後に私たちは詳細に読むことになりますが、確かに救いの御業 としての「神の義」はイエス・キリストというお方において決定的な仕方で現さ れました。そういう意味では、神の義が「啓示された」のです。しかし、ここで は「啓示されている」と書かれているのです。つまり、福音が今もなお語られる ところにおいて、現実に救いの御業が現れるということであります。どのように して、神の恵みの御業は現れるのでしょうか。「それは、初めから終わりまで信 仰を通して実現されるのです」と書かれております。これは意訳です。原文には 「信仰から信仰へ」としか書かれていません。しかし、意味は分かります。初め から終わりまで信仰だ、ということです。それ以外の何ものによるのでもない、 ということです。初めから終わりまで、ただ信仰を通して神の救いの御業は実現 されるのです。先にイザヤ書を読みましたが、そこに「地の果てのすべての人々 よ、わたしを仰いで、救いを得よ」と書かれていたことを、今一度思い起こして ください。なぜ「わたしを仰いで…」なのか。仰ぐことしか出来ないからなので す。正しい神であり、救いを与える神である方が行為者なのです。人はただ主を 仰ぎ望み、主に身を委ねるしかないのです。「信仰から信仰へ」とは、そういう ことです。
そして、パウロはここで、ハバクク書の言葉を引用いたします。そこも見てお きましょう。ハバクク書2章をお開きください。1節からお読みいたします。
「わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、 わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。主はわたしに答えて、言われた。 『幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。定め られた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって 急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来 る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、 神に従う人は信仰によって生きる。(ハバクク2・1‐4)」
この最後の言葉が、パウロの引用している言葉です。新共同訳において「神に 従う人」となっていますが、直訳するならば「正しい人」となります。
ここで終わりの時に向かって急いでいる幻について語られています。「幻」は 預言のことですから、この場合、「神の救いの御計画」あるいは「救いの御業」 と言い換えてもよいと思います。神の救いは完成へと向かっているのです。そこ で人の為すべきことは、神の救いの御業に何かを付け加えることではありません。 何と言われているでしょうか。「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必 ず来る、遅れることはない。」人の目には遅く見えるかも知れません。まったく 進んでいないかのように見えるかも知れません。しかし、遅れることはない、と 言われるのです。ですから、ひたすら神を仰ぎ、神を待ち望み、神に身を委ねて 生きるのです。これが、4節に語られている「信仰」に他なりません。「正しい 者は信仰によって生きる」のです。ハバクク書の言葉もまた、信仰から信仰へ、 すなわち初めから終わりまで信仰によることを言い表しているのであります。
私たちは今日、共に聖餐にあずかります。私たちは聖餐のパンとぶどう酒を 「受ける」のです。すなわち、私たちはただ神の救いの御業に自らを委ねること しか出来ないものとして、聖餐にあずかるのです。私たちは繰り返し聖餐にあず かる度に、神の義が現れるのは初めから終わりまで信仰によるのだ、ということ を思い起こさなくてはなりません。