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「人間の不敬虔と不義」

1998年2月8日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ1・18‐32

 今日は18節以下をお読みしました。この前の16節と17節にはこの手紙の 根本的主題が提示されていると申しましたが、ここからいわば「本論」に入ると 見ることができるでしょう。しかし、新共同訳聖書には現れていないのですが、 実はこの18節は「なぜなら」という言葉によって前の節と繋がっているのです。 つまり、17節と無関係に本論が始まるのではないのです。17節には「福音に は、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実 現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」 と記されておりました。そして、私たちはその神の義が、ただ罪を裁かれる神の 正しさを意味するだけではなくて、神との関係において正しい状態へと回復する 神の創造的な御業を意味することを見てきたのであります。しかし、その正しい 状態が何であるかが明らかにされる前には、当然、何が正しくない状態であるの かが明らかにされなくてはなりません。神の救いが明らかにされる前に、救われ なくてはならない私たちの現実が明らかにされなくてはならないのです。そうし なければ、私たちは救いについても思い誤ってしまうことでしょう。そこで、パ ウロは、まず人間の罪と神の怒りについて語り始めるのであります。

神の怒り

 そこで早速その内容に入っていきたいと思います。18節には次のように記さ れております。

 「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神 は天から怒りを現されます。」

 この「神の怒り」という言葉に抵抗を覚える方は決して少なくないだろうと思 います。もっとも、パウロが「神の怒り」について書いていたとしても、それは 聖書の中では珍しいことではありません。聖書の至るところに、特に旧約聖書に おいて、神の怒りについての記述はいくらでも見られます。ですから、聖書を初 めて読む人でない限り、「神の怒り」について書かれていたところで、それほど 驚いたりしないわけです。しかし、それでもやはり、長年聖書に親しんできた人 であっても、心のどこかで呟いていることがあろうと思うのです。「神が怒るな んておかしい。」「怒るなんて神様らしくない。」「怒る神なんて信じたくない。 」考えてみれば、私たち自身は日常の些細な出来事に怒りまくっているくせに、 神様が怒っているなどと聞くと「それはおかしい」と考えてしまうものです。

 私たちがどうして「神の怒り」という言葉そのものに抵抗を感じるのか、その 辺りをもう少し考えてみましょう。私たちが怒る時、間違いなく私たちは「自分 が正しい」と思っております。自分が正しくて相手が正しくないと思う時に怒る のです。怒るのに正当な理由があって怒るわけです。しかし、そのように怒りを 露にし、相手を責め、自分がいかに正しいか、相手がいかに間違っているかを滔 々と述べた時のことを考えてみてください。自分の行為について「これでよかっ たのだ」と腹の底から納得したことがどれほどあったでしょうか。むしろ、いつ も何か後味の悪い思いをするのではないでしょうか。どこか後ろめたい思いを引 きずることになります。それは何故でしょうか。理由は明らかです。私たちが、 自分の言うほど正しくはないからです。実は私たち自身が本当は知っているので す。完全に百パーセント自分は正しくて相手が悪いということはないと分かって いるのです。どこか自分と相手を誤魔化している。自分の怒りが完全に正義から でたものでない、不純物を含んでいることを感じて、後ろ暗いものを心の内に持 っているからであります。

 人間の正しさというものは、いつでもそのようなものでしょう。だから、私た ちは自分自身であっても、誰であっても、短気な人を尊敬はしません。いつでも 怒っている人、あるいはいつまでも怒っている人を立派な人であると思わないの です。人の怒りは完全に正しいことはあり得ないからです。しかし、私たちは神 様について同じことを考えてはなりません。どうも私たち自身の姿を神様に投影 してしまうところに思い違いが生じるようです。神の怒りを私たちの怒りと同じ レベルで考えてしまうことが、そもそも間違いなのです。正しさこそ怒りの源泉 であるならば、本当の意味で怒る権利を持っているのは神様だけなのです。「怒 るのは神様らしくない」どころか、怒ることにおいて正当であるのは人間ではな くて完全に正しい神だけなのです。そのことを、私たちはまず心に留めておく必 要があるのです。

 そして、その「神の怒り」――完全に正しい「神の怒り」――が天から現され ていると、ここには書かれているのです。それであるならば、私たちはこの言葉 を前にしてブツブツ言うべきではなく、むしろ厳粛に受け止めなくてはならない と思うのです。こで使われている言葉は、前節の「啓示されています」と同じ言 葉です。それはただ単に言葉によって教えられているのではありません。現実に 現れているのです。この世界の上に天から神の怒りが現れているのです。それは 罪が必ず結果を産むという現実の中に現れています。神との正しい関係にないこ の世界に絶えざる苦悩が臨んでいるという現実において現れています。人がどれ ほど体制を改めようと、指導者を変えようと、パラダイスは実現しないというと ころに、既に現れているのです。いや、厳密に言いますと「現れつつある」とい う言葉です。最終的に完全に現れるのは終末においてです。それは後に「神が正 しい裁きを行われる怒りの日(2・5)」と表現されています。私たちはそのよ うな神の怒りのもとにある世界のただ中に立たされているのです。

不信心と不義に対して

 その怒りは何に対して現されているのでしょうか。18節をもう一度見てみま すと、「不信心と不義に対して」と記されております。「不信心」という言葉が 表しているのは神に対する罪です。「不義」が表しているのは人に対する罪です。 そして、この二つは無関係ではありません。聖書は初めからそのことを語ってい ます。善悪の知識の木から取って食べるなと言われた神の言葉をないがしろにし た時、アダムとエバの関係はもはや互いに愛し合うものではなくなってしまいま した。アダムは「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から 取って与えたので、食べました」と神に答えたのです。そのような二人のもとで 育ったカインは弟のアベルを殺したと聖書は描いております。神に対するあり方 と人に対するあり方が無関係ではないゆえに、モーセに与えられた十戒には神と の関係についての戒めと、人との関係についての戒めが並べて書かれておりまし た。ですから、ここでパウロも、宗教的な罪と倫理的な罪がいかに深く関わるか を、この章において記しているのであります。

 まず語られているのは「不信心」です。これは「不敬虔」と訳してもよいでし ょう。ある訳では「不遜」となっていました。神に対する人間の不遜です。すな わち、神を神として畏れ敬わないことです。21節の言葉を用いるならば、神を 神としてあがめず、感謝することもしないことであります。この罪については弁 解の余地がないと語られています。なぜでしょうか。パウロは言います。

 「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそ れを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり 神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができま す。従って、彼らには弁解の余地がありません。(20節)」

 私たちは、自分が造ったのではない世界の中に目覚めます。その一日を生きる ために、私たちが何を備えたわけでもありません。私たちは自分が造ったのでは ない諸々のものを受けることによって生きています。生きているのではなくて、 明らかに生かされているのです。ただ受け取ることによってしか生きることがで きない自分の被造物性に目が開かれることなくしては、確かに見えてこないもの があるのです。それは肉の目には見えない神の永遠の力と神性です。創造者の輝 きです。見えないとするならば、それは自分が何にも負っていないかのように生 きている傲慢さによって目が曇っているから見えないのです。

 そして、「神の永遠の力と神性とは被造物に現れており」ということは、私た ちがこの被造物世界を観察することによって神を把握できるということを意味し ません。人間の理性によって神を捉えることができると言っているのではないの です。むしろその逆です。人は神を捉えることも把握することもできないのです。 現されているのは「永遠の力と神性」だからです。人はその御前では神を論じる ことは出来ません。ただ畏れ敬い、御前に平伏して御名をあがめ、生かされてい ることを感謝することしか出来ないのです。それこそが、神が神であり、私たち は被造物に過ぎないということであります。そのことを知ることが「神を知る」 ということなのです。それが「神について知り得ることがら」に他ならないので す。

 ですからそこでは神を理解しているかどうか、神とは何であるかが分かるかど うかではなくて、神を崇めて感謝して生きているかどうかだけが問われるのです。 そうです、それだけが問われているのです。山に登り、自然に触れて「神を感じ る」と言う人は多いでしょう。いやそうではなくても、「私は神が存在すること を信じる」と言う人は少なくはありません。しかし、それがどうしたと言うので しょう。問題は神を感じたかどうかではなく、神が存在していると信じているか どうかではなく、本当に神をあがめて生きているかということなのです。すなわ ち神を礼拝して生きているか、ということであり、神を誉め讃え、神に感謝して 生きているかということなのです。

 そして、明らかなことは、現実のこの世界は神をそのようにあがめてはいない し、感謝もしていないということです。それが神との正しい関係、神に対する正 しい状態を失った世界の姿です。そのような世界に私たちは生きているのです。 であるゆえに、この世界の上に神の怒りが留まったとしても、そのことについて 私たちは何一つ抗議することはできません。「弁解の余地はない」と言われてい るのは、そのことであります。

むなしく、暗くなった

 神との正しい関係を失っている事実は、確かに私たちの生活の中に現れてまい ります。聖書は何と言っているでしょうか。「かえって、むなしい思いにふけり、 心が鈍く暗くなったからです。」ここで「むなしい思いにふけり」と書かれてい ることは、ただ単につまらないことを考えるようになった、ということではあり ません。その考えること、生きることにおいて、無価値な者、むなしい者となっ てしまった、ということであります。価値ある者として考え、貴い存在として生 きることが、もはや出来なくなってしまったのです。そして、心が暗くなってし まった。ここで「心」とは知性や感情や意志をすべて含みます。人間全体を指す と言ってよいでしょう。それが愚かなものとなり、暗くなってしまったのです。 暗くなったというのは、本来持っているはずの光を失ったということです。存在 そのものが暗闇になってしまったのです。

 神を認めない人であっても、自分の不遜を認めない人であっても、その結果は 明らかに見ることができるでしょう。「むなしく、暗くなった」。それは他人事 ではありません。この暗い時代の中で、マスコミはナイフを持ち歩く子供たち、 援助交際する子供たちを取り上げます。大人たちはしたり顔で言います。「もっ と自分を大切にして生きて欲しい。」けれども、それでは大人たちは本当に自分 を大切にして生きていると言えるのでしょうか。価値ある者として自らを見、価 値あるものとして人生を見て生きているのでしょうか。むしろ、私たちには価値 がある、人生には意味があると身をもって示せない大人たちであるからこそ、そ のもとで子供たちが虚しく生きるのではないですか。それは他人事ですか。そう ではないでしょう。

 どこに問題があるのでしょう。あがめるべきお方をあがめていない、礼拝すべ きお方を礼拝して生きていないところに本当の問題はあるのです。感謝すべきお 方に感謝して生きていないところにこそ、問題はあるのです。なぜなら、創造者 との関係においてしか、被造物は自らの本当の価値を見いだすことはできないか らです。神を神として畏れ敬い、礼拝して生きることなくして、神によって造ら れ生かされているこの人生の尊さを知ることなどできないからであります。

 「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、 かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」これが正し い状態にない、神の怒りのもとにある人間の現実です。パウロはさらに、心が鈍 く暗くなった者がどのような状態にあるかを明らかにしていきます。パウロは、 この世界と私たちを覆い、かつ私たちの内に満ちている暗黒を明らかにし、私た ちに目を向けさせるのです。この暗黒をそのままにして、どれほど私たちの置か れている状況が変わろうとも、生活の重荷が取り去られようとも、そこには本当 の救いはありません。しかし、パウロが私たちの現実を明らかにしていくのは、 ただ単に私たちを絶望へと追い込むためではないのです。私たちは既に聞かされ ているのです。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべて に救いをもたらす神の力だからです。」既に光は差し込んでいることを私たちは 知っています。それゆえ、闇を知ることは、光の大いなることを知ることでもあ るのです。

 
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