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「偶像礼拝」

1998年2月15日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ1・1‐32

 18節の最初には「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と 不義に対して、神は天から怒りを現されます」と書かれておりました。不信心と は神に対する罪、不義とは人に対する罪であると言ってよいかと思います。先週 は、ここに記されている「神の怒り」について、またその怒りが向けられている 「不信心と不義」のうち、特に「不信心」ということについて御一緒に考え始め ました。不信心という訳も可能ですが、先週も触れました通り、これは「不遜」 とも訳せる言葉です。神に対する不遜、神に対して傲慢に生きている私たちのこ とが、ここに記されているのです。そして、その傲慢さは、具体的な形をとって 現れてまいります。それが今日お読みしましたところにも記されております。2 2節を御覧下さい。

 「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光 を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。(1 ・22)」

 神に対する不遜は偶像礼拝という形を取って現れると言うのです。さて、パウ ロがここで言おうとしていることはいったい何なのでしょうか。

偶像礼拝とは何か

 ここを読みまして、すぐに二つの言葉が対照的に用いられていることがわかり ます。それは「滅びることのない」という言葉と「滅び去る」という言葉です。 片方は「神の栄光」について用いられ、もう一方は「人間や鳥や獣や這うもの」 について用いられております。片方は創造者について用いられており、もう一方 は被造物について用いられているのです。そして、この二つの言葉が現している のは、本質的な差異であります。創造者と被造物は決定的に異なるということで す。彼らは「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や獣や這うものなどに 似せた像と取り替えた」とパウロは語ります。何が問題なのでしょうか。本質的 に異なるものを混同していることです。それは愚かなことだと彼は言っているの です。「自分では知恵があると吹聴しながら」と書かれています。そこで語られ ているのは、「正しく行動するための知識を持っており、かつそれを用いる能力 を備えている」という主張です。それが「知恵ある」という言葉の意味するとこ ろです。そして、人はある程度、そう思っているものであります。何も当時のギ リシア世界の哲学者だけではないでしょう。しかし、公にせよ心の中においてに せよ、そう主張していながら、実際には愚か者になっているではないか、と言う のです。まったく異なるものを異なるものとすることができないことにおいて、 創造者と被造物を区別できないことにおいて、愚か者ではないかと言うのです。

 「いや、わたしは鳥や獣の像など拝んだことはない」と言われるでしょうか。 しかし、問題は像を拝むことそのものではありません。パウロがここで語ってい るのは、私たちが簡単に他人事として処理できない事柄なのです。そもそも、な ぜ人が鳥や獣の像、目に見える被造物の像を拝み始めるのかを考えてみてくださ い。私たちは皆、被造物の世界に生きています。私たち自身も私たちを取り囲む すべてのものも、被造物である限り、やがては朽ちていき、滅びていくものです。 私たちの現実の生活は、それらの朽ちていくもの、滅びていくものに深く関わっ ております。私たちの恐れも悩みも、また欲求や願望も、これら朽ちゆくものの 存在と結びついているのです。この世の目に見える物事と結びついているのです。 そして、一方、私たちは往々にして、自分の悩みや欲求との関連でしか、神を求 めようとはいたしません。「神を信じる」ということも、「神を礼拝する」とい うことも、私たちはすべて自分の悩みや欲求や願望と結びつけてしまうのです。 それゆえ神が、目に見えるこの世界、朽ちゆく物、滅び行く物と、簡単に結びつ けられていきます。もちろん、神様はこの世界に具体的に関わってくださいます。 その憐れみによって、私たちの現実の生活に関わってくださるでしょう。しかし、 問題はその先です。人はこの世の悩みと欲求との関連でしか神を見られなくなる とき、大切なことを忘れてしまうのです。それは、神は神であって、私たちは被 造物に過ぎない、ということです。両者は絶対的に異なるのだ、ということです。 神は聖なる方であり永遠なるお方であり、私たちは肉であり滅び行くものでしか ないということであります。肉に過ぎない私たちの理解や経験に関係なく、神が 私たちに何をしてくださったかということに関係なく、神は永遠に神であり、永 遠に誉め讃えられるべきお方だということです。すなわち、神は被造物ではなく 造り主であるがゆえに、永遠に誉め讃えられるべきお方だ、ということです。そ れを忘れてしまう。そこに人間の不遜があります。愚かさがあります。その一つ の具体的な現れが、被造物の像を拝み始めるという行為なのです。

 つまり、偶像礼拝とは、神が神であるということが弁えられない人間中心の礼 拝のことを言うのであります。神が永遠にして聖なるお方として畏れられていな いゆえに、人間の手でどうにでもなる像が作られ拝まれるのです。人間に何をし てくれるかということにしか関心がなく、神の永遠の栄光には無関心だからです。 しかし、像が拝まれるということは、一つの現れに過ぎません。その本質は決し て私たちと無関係ではありません。この国においても、同じようなことはいくら でも見られるではありませんか。「私は獣の像など拝んではいない」と言って知 らんふりをすることはできないのです。しかも、これは単に教会の外における話 でもありません。考えて見て下さい。もし、私たちが、「神を信じることが私に とって何の益となるか」「日曜日の礼拝に出席することによって、私は何が得ら れるか」というようなことしか考えられないとするならば、そこで行われている のは偶像礼拝以外の何だと言うのでしょう。造り主であるゆえにこのお方は永遠 に誉め讃えられるべきなのだ、ということが忘れられているならば、自分勝手に 作った鳥の像や這うものの像を拝むのと大して変わらないではないですか。

神の裁きの現れ

 これが人間の神に対する不遜の現れです。人間はどこまでも傲慢なものです。 そして、この神に対する不遜と人と人との間における罪とは無関係ではありませ ん。18節において「不信心と不義」というように並べて書かれていた通りです。 では、どのように関係すると言うのでしょう。24節以下には次のように書かれ ております。

 「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、その ため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わ りに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえら れるべき方です。アーメン。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられまし た。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係 を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行 いの当然の報いを身に受けています。(24‐27節)」

 ここでまず気づきますのは、「まかせられ」という言葉が繰り返されているこ とです。28節は次週もう一度お読みしますが、そこに「渡され」という言葉が 出て来ます。これも原文においては同じ言葉です。

 私たちはこの言葉の中に恐るべき響きを聴き取らなくてはなりません。なぜな ら、これこそまさに神の裁きに他ならないからであります。神を神としてあがめ ない人間が欲するままに進むことを、神は許されたのです。神は、傲慢な人間の 欲するままにまかされたのです。神を神としてあがめないことにより、人は神の 像に造られた自分をも見失いました。神の像に造られた自らの尊さを見失った人 間が、その感情と欲とに引き回されて生きることを、神はあえて許されたのであ ります。多くの人は、欲が満たされることを喜びますが、実はそこにこそ、神の 裁きがあるのです。

 昨今不倫をテーマとした映画やドラマがはやるにつれ、「自分に正直に生きる 」というような言葉をしばしば耳にするようになりました。もっとも、このよう な表現は決して新しい言葉ではないでしょう。いつの時代であっても、それがあ たかも素晴らしい生き方であるかのように吹聴する者はいるものです。しかし、 「自分に正直に生きる」と言われています時、往々にしてそれは単に感情や欲求 に正直に生きるということ以上ではありません。そうしますと、人間は単なる感 情と欲求の動物ではなく、知性も意志も備えているのですから、ただ感情や欲求 のままに生きることは本当の意味で「自分に正直に生きる」ことにはならないは ずなのです。いずれにせよ、「自由だ」と言いながら、「自分に正直だ」と言い ながら、結局は自分の感情と欲とに引き回されている事実の中に、神の裁きがあ ることを知らなくてはなりません。そして、実際、どのような人であっても、そ れが裁きであることを遅かれ早かれ知ることになります。なぜなら、人は蒔いた ものを刈り取ることになるからです。人間が欲したことを為し続け、その欲を満 たすこと求め続けるところに、本当の幸いはないからであります。むしろ、感情 と欲望とに引き回されて生きる道は、間違いなく滅びに続く道だからです。

 「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、その ため、彼らは互いにその体を辱めました。(24節)」「それで、神は彼らを恥ず べき情欲にまかせられました。(25節)」とパウロは言います。さて、ここで彼 が「心の欲望」あるいは「情欲」という言葉を語る時、彼の念頭にあるのは、特 に人間の性的な欲求についてであることは、その後に彼が語っていることによっ て明らかです。なぜ、パウロは、ここで殊更に人間の性の問題に触れているので しょうか。そのことについても考えておくべきでありましょう。

 私たちがここで間違ってはならないのは、人間の性的な欲求や性の交わりその ものが不潔なことや恥ずべきことであるからパウロがここで取り上げているので はない、ということです。パウロ自身は独身であったようですが、彼はむしろ他 の手紙において、結婚を禁じたりする人々と戦っているのです。(1テモテ4・ 3)聖書は人間の性の交わりを神の創造として語っています。旧約聖書の創世記 は、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男 と女とに創造された。(創世記1・27)」と書いていますし、「こういうわけで、 男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる(同2・24)」と、その関係の 神秘を語っています。これはしばしば結婚式で読まれる箇所でもあります。その ように、人間の性の欲求も性の交わりも本来は決して汚れたものではなく、尊い ものなのです。それは神の創造の御業の一環なのです。

 しかし、私たちはこの性の関係というものが、人間の生活において限りなく尊 い神秘である一方で、しばしば最も暗い影を落す部分でもあるということを知っ ております。最も深い幸福をもたらすものであると同時に、底知れぬ深い苦悩を もたらすものでもあることを私たちは知っているのです。何がその光と闇とを分 けるのでしょうか。それは明らかです。創造者との関係において性の交わりを捉 えているかどうかという一事にかかっているのです。ですから、結婚は神の創造 者なる神の御前でなされるのです。その二人の関係が創造者なる神によることを 認めた上で、初めて性の交わりは尊い神の創造の御業として成り立つのです。創 造者を離れ、その創造者の秩序を離れる時、本来尊いものが尊いものでなくなり、 光であるものが闇となるのです。

 パウロはここであえて同性愛を取り上げます。同性愛の慣習は古くからあり、 旧約聖書の記述の中にも見られます。ギリシア・ローマ世界にも、例えば稚児に 相当する者がいたことは知られております。しかし、パウロが単に同性愛の行為 そのものを問題にしていると考えてはなりません。パウロが問題にしているのは、 単に不道徳の問題ではなくて、もっと深いところにあるものです。それは人が創 造者をあがめ、その関係において生きず、創造の秩序を外れてしまっているゆえ に、本来尊いはずのものが不潔なものとなり、恥ずべき情欲となってしまってい るということなのです。そのようなことは、ここに記されているような明らかな 同性愛の行為という形でなくても、いくらでも現れていることではないですか。 そして、そのように、ゆがんだ感情と欲に引き回されて生きているところに、既 に神の裁きが現れているとパウロは語っているのです。その事実を私たちは深刻 に受け止めなくてはならないのです。

 パウロは人間の不信心と不義、そしてそこに向けられている神の怒りと裁きに ついて、誤魔化すことなくあからさまに語ります。私たちは普段自分を偽って目 を向けようとしない私たちの罪に目を向けざるを得なくなります。それは決して 快いことではありません。しかし、そのことを通して、初めて、なぜパウロが 「福音には、神の義が啓示されています」と語っているのかが分かってまいりま す。なぜ神の創造的な救いの御業が必要であるかが明らかになってくるのです。 人間の罪が恐るべき深刻な問題であることを知った人は、本当に必要とされてい るのは人間の行為を正して良くする戒めや教えの類でないことに気づくからです。 「良い教えを聞いてそれを守ったら少しは良い人間になる」という程度のことで はないのです。パウロが語ろうとしているのは、そのような言葉ではなく、「信 じる者すべてに救いをもたらす神の力」である福音です。そして、それこそ私た ちに与えられている福音であり、教会に託されている言葉でもあるのです。

 
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