「不義の源泉」
1998年2月22日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ1・18‐32
今週の水曜日(灰の水曜日)から受難節(レント)に入ります。主の御受難を 覚えつつ、「主よ、あなたの御苦しみは何故」と問い続ける日々が始まります。 その直前の聖日である今日、与えられている聖書の箇所は先週と同じです。ロー マの信徒への手紙1章18節以下において人間の罪について記されている箇所を、 今日もお読みいたしました。私たちはこの聖書の言葉を通して、主の語りかけを 聞き、自らを省み、受難節に入る備えをしたいと思うのであります。
神を認めようとしなかったので
初めに28節をもう一度お読みいたしましょう。「彼らは神を認めようとしな かったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならな いことをするようになりました。」
先週読みましたところには「まかせられ」という言葉が二回出てきました。2 4節と26節です。神に対して不遜である人間が望むことを、神様はそのままに された、というのです。傲慢な人間が望む通りに、その感情と欲望に引き回され て生きることを、神はあえて許されたというのです。そこに既に神の裁きがある のです。その同じ言葉が、28節にも出てまいります。ここでは「渡され」と訳 されています。神は彼らを無価値な思いに渡された、というのです。無価値な思 いに渡されるということはいかなることを意味するのでしょうか。それを私たち は29節以下に見ることになります。しかし、そこに進む前に、その理由を心に 留めたいと思うのです。何と言われているでしょうか。「彼らは神を認めようと しなかったので」と書かれております。1章18節から記されていた神に対する 人間の不遜な姿がこの言葉によって言い換えられております。「神を認めようと しなかった。」実は、原文では興味深いことに、「テストする」という言葉が用 いられております。ある人はこの部分を「試みて後斥けること」と説明しており ました。いずれにせよ、強調点はそこに人間の「意志」がある、ということです。 ですから「認めようとしなかった」という訳は適切であろうと思います。人の内 には神を斥けようとする意志があるのです。その意識の中に神を入れまいとする、 あるいは神を閉め出そうとする、そのような意志があるということであります。 もっとも「神」と言いましても、それが自分の手によってどうにでもなる偶像な らば受け入れるのでしょう。人間の慾に奉仕し、人間の都合によってどうにでも することができる神ならば良いのです。それならば、受け入れることができる。 困った時に、手をたたいたら出てきて願い事を叶えてくれる、それだけの神なら ば受け入れることができる。しかし、神が真の神であり、人がその前で謙らなく てはならない神、絶対者であり永遠なる方であるならば、人はその神を斥けよう とするのです。人間が神を問うのではなく、神によって人間が問われるのだ、と いうことであるならば、人は神を斥けようとするのです。なぜでしょうか。私た ちが傲慢であるからです。
かつて私がまだ中学生であった頃、私は自分の属する教会の牧師や大人たち、 既に洗礼を受けている他教会の青年たちをつかまえて、よく議論を吹っかけたも のでした。その内容は、要するに「あなたたちはなぜ神など信じるか。わたしは 神など信じない」ということだったと思います。神など信じることがいかに馬鹿 げたことであるかを一生懸命に証明しようとしておりました。しかし、高校一年 生になって、ある日、ふと思ったのです。「僕は神を信じることが馬鹿げている と本当に思っているから『神などいない』と言っているのだろうか。それとも、 神がいたら都合が悪いからそう言っているのだろうか。」そう考えてみますと、 どうも後者の方が近いような気がしてきたのです。それから一年を経ずして洗礼 を受けたのは、その時に考えたことと無関係ではないように思われます。いずれ にせよ、今になってみると、もっとよく分かります。先の問いについては、やは り後者であった。神を認めることは、私にとって都合が悪かったのです。創造者 であり絶対者である神など認めたくなかった。自分の人生は自分の人生であり、 自分の思うとおりに願う通りにしたかった。自分が中心でありたかったのです。 ちなみに言いますならば、それでも困った時には助けて欲しかった、というのが 正直な心境でありました。それは言い換えるならば偶像ならばオーケーというこ とでしょう。
しかし、人が創造者であり絶対者であるお方を斥け、自分の欲するままに生き ようとしたので、神はその無価値な思いの中に人を引き渡されたのだ、とパウロ は言うのです。そのこと自体が神の裁きであるゆえに、神を認めようとしない人 であっても、その結果を経験することになるのです。人がたとえ神の裁きという 概念そのものを受け入れなかったとしても、現実の裁きそのものは経験すること になるのです。なぜなら、人が認めまいと斥けようと神は神であられるからです。 その裁きは、「してはならないことをするようになりました」という言葉によっ て表現されているのです。
してはならないことをするようになった
さて、パウロがここで「してはならないこと」」と言っているのは、狭い意味 での悪行ではありません。というのも、その次に列挙されている事柄の多くは、 具体的な行為と言うよりは、むしろ内的な心の動きに関わっているからです。パ ウロは人の内にあるものを問題にするのです。なぜなら内的な心情に関わる事態 の方が深刻だからです。人の内にあるものが外に現れて行為を生みだし、人生そ のものを決定するからであります。内にあるものは確実に外に現れてくるのです。 彼は29節以下に次のように語ります。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に 満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神 を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無 知、不誠実、無情、無慈悲です。」このような箇所を読みますと、すぐに私たち は、自分がその幾つに該当するかなどと考えます。これら全部が当てはまるほど 私は悪くないと思う人もいるでしょう。しかし、パウロの関心はそのようなとこ ろにあるのではありません。私たちは延々と書き連ねられている不義のリスト全 体を読みながら、私たち人間というものがいかに内なる悪しき思いに捕らわれて 生きているかを改めて考えてみるべきなのだと思います。ですから、ここでそれ ぞれの言葉の詳細を説明し、個々の言葉がいかなる悪徳を意味するかを語ること をいたしません。私たちは、むしろその前に記されている「してはならないこと 」という言葉に目を留めたいと思うのです。
「してはならないこと」あるいは「相応しくないこと」とも訳し得るこの言葉 は、当時のストア哲学者の用語に関係いたします。彼らが「相応しいこと」と言 う時、それは人間として然るべき義務を果たすことを意味しました。しかし、パ ウロが当時の哲学者が愛用した言葉を用いたとしましても、彼自身はストア哲学 者ではありません。彼が心に思い抱いているものは、あくまでも人間と神との関 係です。神が造り主であり、人間はその神による被造物であるということです。 社会の中に生きる人間として然るべき義務を果たしていない、あるいは道徳律に 反することを行っている、ということを指してパウロは「してはならないこと」 「相応しくないこと」と言っているのではないのです。そうではなくて、神によ って造られた被造物として相応しくないことをしていると言っているのです。造 り主である神を閉め出してしまった時に、もはやそのようにしか生きられなくな った、と言っているのです。
ここに挙げてある一つ一つの言葉を考えてみてください。このように延々と列 挙されていますといささか抵抗を覚えますが、一つ一つの事柄は私たちの生活に おいて珍しいことではないでしょう。人に対して悪意を抱いたり、ねたんだり、 人を欺いたり。人が生きていく上でしばしばそのような思いを抱くということは、 何か当たり前のことのようになっているのだと思います。人間とはそういうもの なんだ、と心のどこかで思っているわけです。しかし、パウロはそれらを「相応 しくないこと」と呼ぶのです。人間は他者をねたんだり、憎んだりするために造 られたのではないのです。争い合ったり、そしり合ったりして生きるために造ら れたのではないのです。本来、素晴らしく尊いものとして造られたはずなのです。 神の像に造られ、互いに愛して生きるようにと造られたのです。しかし、現実に はそうなっていない。本来の姿からほど遠い者となってしまっている。そして、 悲しみと悩みと痛みを刈り取っているわけです。なぜでしょうか。聖書は明言す るのです。それは造り主を心に留めることをよしとしなかったからなのです。神 を認めようとしなかったからなのです。礼拝すべき方を礼拝し、感謝を捧げるべ き方に感謝を捧げて生きることを拒否したところから来ているのです。不義の源 泉は実にそこにあるのです。
死に値すること
さらにパウロは32節においてこのように語ります。「彼らは、このようなこ とを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだ けではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」
ここを読みまして、「おや、おかしいぞ」と思った方もおられるでしょう。そ うです、私たちの現実の生活において、例えば人に対して殺意を抱いたり陰口を 言ったりしても、それで死刑になることはありません。あるいは、ここに「死に 値する神の定め」と書かれておりますが、例えば人をねたんだ人がその故に神に 打たれて死んだ、という話も聞きません。パウロは「死に値する」という言葉を もって、いったい何を言おうとしているのでしょうか。
パウロが狭い意味においての肉体的な死だけを語っているのではないことは明 らかです。実はこの「死」という言葉は後に頻繁に出て来ることになります。あ る意味で、この手紙を理解する上での鍵となる言葉の一つです。それは罪との関 連で出てきます。私たちは後に詳細にこの「死」が何を意味するかを読んでいく ことになるでしょう。今日は、ただ一つのことだけに触れておきたいと思います。
「死」の反対は「命」です。そこで「命」という言葉を探していきますときに、 2章7節においてすぐに私たちは「永遠の命」という言葉に出会います。そうし ますと、パウロが「死」という時、それは単に生物学的な命に対応しているので はなくて、この「永遠の命」に対応した言葉であるということが考えられます。 「永遠の命」についてはまた後にその箇所を読みました時にご一緒に考えること にしますが、その「永遠の命」が最終的な救いを指しているということはここで 一読して分かります。すると、「死」とは、最終的な神の裁きであり、神から完 全に捨てられることを意味するということになります。つまり、死とは命の源で あり命そのものである神から切り離されることに他ならないのです。そして、神 から完全に切り離され、捨てられた状態こそ地獄なのです。これが最終的な裁き です。そして、後に共に考えることになりますが、この「死」は最終的な裁きを 待つまでもなく、既に私たちの現在において始まっているのです。支配し始めて いるのであります。
いずれにせよ、そのような広い意味における「死」という語義を考えます時に、 パウロの言わんとしていることが理解できるようになります。人は、不義が神と 相容れないことを知っているのです。悪やむさぼり、悪意やねたみ、殺意、不和、 欺きが神と相容れないことを知っているのです。神が偶像ではない真の神である ならば、これらを携えたままその神に結びつくことは出来ないことを知っている のです。高慢や大言や悪事と永遠の命が両立しないことは分かっているのです。 このようなことを行いながら、神の国、神の支配する国に入れないことは自明の ことなのであります。「このようなことを行う者が死に値するという神の定め」 を知っているのであります。
「…知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是 認しています」とパウロは言います。パウロは人間をよく見ています。私たちは 自分が行うだけでなく、他人が行うことを是認するのです。なぜでしょうか。他 の人も同じであると安心するのです。「わたしだけじゃないんだ」ということで、 自分のあり方を正当化できるような気がするのです。他の人を是認することで、 自分の罪の問題に覆いをかけることができるような気がする。それで神の裁きを 考えないで済む材料ができたような気がするのです。しかし、それは大変愚かな ことではないでしょうか。それは少し考えれば分かります。自分一人であろうが、 大勢と一緒であろうが、神の裁きに変わりはないのです。「赤信号、みんなでわ たればこわくない。」しかし、もしそこに大型トラックが突っ込んで来てみんな 轢かれれば同じです。一人で渡っていようが、大勢で渡っていようが同じなので す。「こわくない」と言っていること自体が、実は大変怖いことなのです。
他者の行為を是認して自らを誤魔化しているところに、本当の救いへの道はあ りません。三回に渡って1章18節から32節を読んできましたが、私たちは御 言葉の光に照らして自らを見つめる必要があるでしょう。今週からレントに入り ます。キリストの御受難は、ここに記されている私たちの現実と深く関わります。 それゆえ主の御受難を覚えるこの期間は、私たちにとって悔い改めの期間です。 そして、真の悔い改めは、まず自分自身を知るところから始まるのです。