「荒れ野における誘惑」                              ルカ4・1‐12  受難節に入りました。これから六回の主日に渡って、十字架へと向かわれる主 の御生涯を心に留めつつ礼拝をいたします。その第一の主日に与えられている聖 書箇所が先ほどお読みしました「荒れ野における誘惑」の物語であります。  まず1節と2節をご覧ください。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川 からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日 間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹 を覚えられた。」  ルカは、この物語を「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった 」という言葉で始めます。この言葉によってルカはこの物語を3章における主イ エスの受洗と結びつけています。主が洗礼を受けられた時、「聖霊が鳩のように 目に見える姿でイエスの上に降って来た(3・22)」と書かれております。そ して、その「聖霊に満ちて」主がここに再び現れるのです。「聖霊に満ちて」と いう言葉をルカだけがわざわざここに記しています。そして、同じ表現が使徒言 行録に繰り返し出てまいります。使徒言行録で聖霊に満ちているのは主の弟子た ちです。これは何を意味するのでしょうか。「洗礼」「聖霊に満ちて」という言 葉をもって、主イエスと教会とが重ね合わされているのです。もちろん主が受け られた誘惑は、主のメシアとしての意識に関わる誘惑であるという側面があるで しょう。しかし、ルカの強調点は、メシアとしてのイエスが受けられた誘惑の特 異性にはないのです。そうではなくて、主イエスが受けられた誘惑は、後のキリ スト者が受ける誘惑でもあると、ルカは見ているのです。 誘惑と試練  さて、そもそもここで話題となっている「誘惑」とは何なのでしょうか。ここ で誘惑をしているのは「悪魔」です。これは分かります。しかし、問題はその前 です。「荒れ野の中を“霊”によって引き回され」と記されているのです。そこ には強い神の意志があることが分かります。誘惑をするのは悪魔でありますが、 神があえてそれを許されたということです。つまり、これは単に「誘惑」という 言葉では表し得ない内容を持っているということです。「誘惑を受ける」と訳さ れている言葉は、「試される」とも訳せる言葉です。それは「試練」という言葉 とも関係します。悪魔を主体として見る時に、それは誘惑となりますが、神を主 体として見る時にそれは私たちが試されることであり、試練であるということで す。誘惑が同時に試練であり、試練が同時に誘惑であるのです。  そうしますと、ここに書かれていることは、さらにイスラエルの歴史と結びつ いてまいります。イスラエルの人々もかつて荒れ野に導かれました。「四十日」 という言葉も、荒れ野における四十年を想起させます。彼らを荒れ野に導いたの は他ならぬ神でした。その目的は何でしょうか。後に主イエスが『人はパンだけ で生きるものではない』という申命記8章3節の御言葉を引用されますが、その 直前の2節にはこう書かれております。「あなたの神、主が導かれたこの四十年 の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなた の心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。」こ れが神の目的でした。  このように、イスラエルの民は、約束の地に入るに至るまで、荒れ野において 試されたのです。主イエスも荒れ野に導かれ試みを受けられました。それゆえ、 教会もまた試みを受けるのです。ここでイスラエルと主イエスと教会が一本の線 で結ばれます。かつてイスラエルがそうであったように、キリスト者は試みられ てその内にあるものが明らかにされるのです。それは必然なのです。教会はその ことを初めからわきまえておりました。新約聖書において、ペトロは次のように 書き記しております。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかか る火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんで はなりません。(1ペトロ4・12)」また、このようにも書かれています。 「…今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あ なたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽 ちるほかない金よりもはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称 賛と光栄と誉れとをもたらすのです。(1ペトロ1・6‐7)」 三つの誘惑  では、私たちが荒れ野に導かれるような経験をします時に、どのような誘惑を 受け、どのように信仰が試されるのでしょうか。ここに記されております三つの 誘惑について考えてみましょう。まず3、4節をご覧ください。  「そこで、悪魔はイエスに言った。『神の子なら、この石にパンになるように 命じたらどうだ。』イエスは、『「人はパンだけで生きるものではない」と書い てある』とお答えになった。」  これが第一の誘惑でありました。これがなぜ誘惑であるのかは、主の答えから 明らかです。主は「人はパンだけで生きるものではない」と書かれている申命記 の言葉を引用して答えられました。つまり、悪魔の誘惑はその真理から引き離す ものであったのです。  悪魔は「神の子なら」と言いました。この言葉は22節に関係します。そこで は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こ えた、と記されております。つまり「神の子なら」という言葉で問われているの は、父なる神との関係です。その関係において、石にパンになるように命じたら どうだ、と言うのです。もし命じることによって石がパンになるとしたら、それ は父なる神が「愛する子」にパンを与えたということになるでしょう。それは明 らかに神による奇跡なのですから。主は「空腹を覚えられた」と書かれています。 空腹である時にパンを求めたら、父がそれを子に与える。それはすこぶる自然な ことのように思えます。しかし、主はあえて神の力をパンを得るために用いるこ とを拒否されたのでした。父と子との関係を、空腹の時にパンが与えられるとい う関係として捉えることを、主はあえて拒否されたということです。なぜなら、 父と子の関係をそのようなものとしてしか捉えられないなら、必ず「人はパンだ けで生きるものである」と言うに至るからであります。  これがどれほど大きな誘惑であるかは、私たちに当てはめてみれば分かります。 人には様々な必要があります。そしてその必要が満たされることを求めます。神 との関係において、神のその必要を訴えます。奇跡が起こればよいと思います。 そして、事実、神は必要を満たしてくださるでしょう。かつてイスラエルが荒れ 野を旅した時、神は天からマナを降らせました。しかし、問題はそれを受ける人 間の側にあります。人は、空腹の時にパンが与えられたら、それでよしとしてし まうのです。神との関係の中心は、私たちの必要が満たされることにあると思っ てしまうのです。  しかし、主は言われるのです。「人はパンだけで生きるものではない。」主が 引用された申命記8章3節においてモーセは次のように語っております。「主は あなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせ られた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉に よって生きることをあなたに知らせるためであった。」私たちとの神との関係の 中心、神が父であり私たちが主イエスにあって神の子とされているという関係の 中心は、私たちが神の口から出る言葉によって生きる、というところにあるので す。そのような関係において、人は真に生きる者となるのです。しかし、その関 係から引き離そうとする誘惑が働くのです。それがこの第一の誘惑の意味すると ころです。  次に5節から8節までをご覧ください。「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、 一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。『この国々の 一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に 与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのも のになる。』イエスはお答えになった。『「あなたの神である主を拝み、ただ主 に仕えよ」と書いてある。』」  これが第二の誘惑です。これは第一の誘惑よりも分かりやすいと思います。人 間の歴史において、悪魔に心を売り渡すことによって権力と繁栄を手に入れよう とした人は星の数ほどいるからです。ある人はこれを「中年の誘惑」と呼びまし た。手っ取り早く目的を達成するために正しい道を踏み外してでも一攫千金を夢 見る人は中年に多いからでしょう。私もそろそろその年代になってきましたので、 その心境は分かるような気がします。  しかし、実はこれは単なる「中年の誘惑」ではないのです。というのも、ここ での問題は単に「悪魔を拝むか拝まないか」ではないからです。主はここで申命 記6章13節を引用しています。ルカの本文と若干言葉は異なりますが、申命記 には次のように書かれています。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その 御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。 (申命記6・13‐14)」つまり、問題は、主なる神を礼拝するのか、それと も他のものを礼拝するのか、ということなのです。後の迫害の時代の教会を考え れば、この誘惑の大きさは理解できます。彼らが主を礼拝すること、主のみを礼 拝することを放棄さえすれば、得られるものはいくらでもあったし、回避できる 困難はいくらでもあったはずなのです。いや、それは平和な時代の教会でも、大 きな誘惑であることには変わりないのです。私たちにおいても、神を礼拝するこ とを犠牲として代わりに何かを手に入れようとする誘惑は、確かにあるだろうと 思うのです。そして、そのような試みにおいて明らかになるのは、結局その人が 「神の国を求めているかどうか」ということなのであります。この第二の誘惑は、 この世のものを代わりとして求めさせ、神の国を求めさせまいとする誘惑なので あります。  そして、第三の誘惑については次のように書かれております。  「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせ て言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書い てあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守ら せる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手 であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない 』と言われている」とお答えになった。」  ここで悪魔は詩編91編を引用いたします。何かの行為を正当化するために聖 書が引用される時には注意しなくてはなりません。前後の脈絡と関係ない引用な ら、悪魔でさえするのです。聖書は全体として読まれ理解されなくてはなりませ ん。  さて、ここで主が引用しておられるのは申命記6章16節です。そこにはこう 書かれております。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの 神、主を試してはならない。(申命記6・16)」マサでイスラエルの民は何を したのでしょうか。そこには水がありませんでした。するとすぐさま彼らは「な ぜ我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで 殺すためなのか」と不平を言い出したのです。そして、モーセを石で打ち殺そう としたのでした。出エジプト記17章7節には次のように書かれています。「彼 は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、 『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主 を試したからである。」このように、人は試練の中で神に試みられることをよし とせずに、神を試みる側に立とうとするのです。神への信頼が問われているのに、 神の愛の見えるしるしを求めて神を問うのであります。そこにこそ、神に対して 分を弁えない思い上がりがあるのです。第三の誘惑は、この過ちに陥れようとす る誘惑なのであります。  「神の子なら」と悪魔は言います。悪魔は再び、「あなたはわたしの愛する子 」と天から語った神の言葉を問題とします。本当に神の愛する子ならば、その愛 の証明を神に求めてよいはずだ、と悪魔は迫ったのです。しかし、主はあえてそ のことを拒否されたのでした。「あなたの神である主を試してはならない」とい う言葉を引用して誘惑を退け、父なる神への絶対的な信頼を保ったのであります。 そして、この誘惑が三番目に置かれているのには理由があります。この第三の誘 惑は、遠く主の受難物語を指し示すのです。やがて来る、同じエルサレムにおけ る出来事を指し示すのです。それは13節に「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時 が来るまでイエスを離れた」と書かれていることからも分かります。「時が来る 」のです。それは主の十字架の時です。祭司長たちは叫びます。「神に頼ってい るが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言ってい たのだから。」しかし、そこでも主は最後の誘惑に打ち勝ちます。「父よ、わた しの霊を御手にゆだねます(ルカ23・46)」と言って、主は息を引き取られ たのです。  信仰者が試みを受けることは何ら驚くべきことではありません。むしろそれは 必然なのです。私たちは誘惑に陥らないように目を覚ましていなくてはなりませ ん。そのことをこのレントの期間、心に留めたいと思うのです。しかし、私たち は悲壮感に捕らわれて生活する必要はありません。私たちは既に試みを受けられ 勝利された方を知っているからです。キリストは後に弟子たちに次のように語り ました。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一 緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権(直訳すると 御国)をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。 (ルカ22・29)」代々の教会はこれを自らへの語りかけとして聞いてきまし た。私たちは主と共に踏みとどまるのです。キリストを離れて勝利はありません。