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「栄光に輝くイエス」

1998年3月8日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ9・28‐36

 今日お読みしました箇所は、しばしば「山上の変貌」などと呼ばれています。 同じ物語がマタイによる福音書、マルコによる福音書にもそれぞれ記されてお ります。三つの福音書に共通に見られることがあります。この物語が主の受難 予告の直後に置かれているということです。各福音書によって言葉は若干違い ますが、まずペトロの信仰告白があります。ルカによる福音書ですと「それで はあなたがたはわたしを何者だと言うのか(20節)」という主の問いかけに 対してペトロが「神からのメシアです」と答えます。すると主が次のように語 り始めます。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者た ちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。(21‐22 節)」続いて、弟子たちへの呼びかけがあります。「わたしについて来たい者 は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(2 4節)」このような一連の出来事に続いて、山上での変貌の物語があるのです。 恐らく、教会はかなり早い時期から、主の受難予告と山上の変貌の物語を結び つけて伝えてきたものと思われます。そこで、私たちは主の受難予告と「自分 の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という呼びかけを心に留めつつ、 それらとの関連において「山上の変貌」が何を意味するのかを、ご一緒に考え ていきたいと思うのであります。

八日ほどたったとき

 初めに28節をご覧ください。「この話をしてから八日ほどたったとき、イ エスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。 (28節)」

 「八日」という言葉によって前の話と繋がっております。このような仕方で 話を進めているのは、マタイによる福音書でもマルコによる福音書でも同じで す。しかし、三つを読み比べますと、すぐに気づくことがあります。日数が違 うのです。マタイとマルコは「六日の後(マタイ17・1、マルコ9・2)」 と記しているのです。些細なことだと思われるでしょうか。確かに、ルカは厳 密に八日と言っているのではなくて、「八日ほど(つまり約八日)」と言って いるので、必ずしも矛盾するとは言えません。しかし、問題は矛盾するかどう かではないのです。ルカはこの福音書を他の資料と共にマルコによる福音書を もとにして書いたと言われています。そうしますと、ルカはわざわざマルコの 書いた「六日」という日数を若干無理をしてでも「約八日」と書き直したこと になります。ということはそうしてでも「八日」という言葉を入れたかった意 図があると言わざるを得ないでしょう。なぜ「八日」なのでしょうか。古代の 教会において「八日」は何を意味したのでしょう。

 そのように考えますと、すぐに一つの聖書箇所が思い浮かびます。ヨハネに よる福音書における主の復活の記事です。「さて八日の後、弟子たちはまた家 の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエス が来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。(ヨハ ネ20・26)」ここにも八日が出てきます。これは主の復活との関連で語ら れています。八日の後と書かれているのは私たちの言葉で言うと一週間後とい うことです。日曜日が週の初めの日であり、そこから一週間経って日曜日にな る。それは週の第一日であると同時に第八日です。その日に復活の主が現れた のだ、と言うのです。実は、一世紀末から二世紀初めぐらいに書かれた「バル ナバの手紙」という文書にも、次のような記述が見られます。「…それゆえ、 私たちもまた、主が復活なさった日でもある第八日を喜びに満たされて守るの である。」このようなことから、古代の教会が「第八日」という言葉を、ある いは「八日の後」という言葉を、復活との関連で大切にしたことが伺われます。 なぜ第八日なのでしょう。それは創世記がこの世界について七日で創造された と記しているからです。つまり七日で造られたこの世界に対し、第八日はそれ を越える世界を指し示すのです。つまり古い創造による世界ではなく、新しい 創造による来るべき世を指し示す日であるのです。第八日をそのようなものと して示されたのが、来るべき世の姿で現れた主の復活なのであります。それゆ え教会はユダヤ教の安息日である第七の日ではなく、主の復活を覚えて第八日 目、すなわち日曜日に集まって礼拝をするようになりました。ですから「八日 」という言葉で読者が連想するのは、キリストの復活であり、復活を記念する 「主の日」なのです。そのようなわけで、ルカが、わざわざ八日という言葉を 入れたのも、山上の変貌の物語と「主の復活」あるいは「主の日」との関連を 強調するためであったと考えられるのです。

栄光の姿に

 次に29節から32節までをお読みいたしましょう。「祈っておられるうち に、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイ エスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、 イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペト ロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、 そばに立っている二人の人が見えた。(29‐32節)」

 これが現実であったのか、弟子たちの見た幻であったかという詮索はあまり 意味を持たないでしょう。それよりも大切なことは、この出来事が数人の弟子 たちの個人的な神秘体験に終わらず、教会によって代々に渡って語り伝えられ てきたということであります。この物語がどの福音書にも入れられているのは、 この出来事そのものが大切な真理を指し示しているからでしょう。私たちはこ の物語を通して聖書が伝えようとしていることを聞き取らなくてはならないの です。

 弟子たちが見たのは、栄光に輝くイエスでした。次に栄光に輝くイエスに出 会うのは主の復活の時であります。その復活の時に現される主の栄光が、丁度 雲の隙間から太陽の光が差し込むように、主の御生涯の一こまに差し込んでい る。その栄光を三人の弟子たちが垣間見ている。それがここに記されている出 来事であります。そして、彼らは栄光の御姿に変わった主と共に二人の人が語 り合っているのを見ました。それはモーセでありエリヤでありました。モーセ は旧約の律法を代表している人物です。一方、エリヤは旧約の預言者を代表し ています。つまり、この二人によって旧約聖書全体が指し示されているのです。 その旧約聖書を代表する二人が「イエスがエルサレムで遂げようとしておられ る最期について話していた」と言うのです。つまり、これから主の上に起ころ うとしていることは、旧約聖書が既に書かれていることだということです。旧 約聖書に書かれているということは、そこに救いの歴史を導いてこられた神の 意志があるということです。神の意志と御計画に従って、これから事が起ころ うとしているのです。

 この主題はルカによる福音書と使徒言行録に繰り返し見られます。例えば、 この福音書を読んでいきますと、24章に至って次のような言葉に出会います。 復活された主が、エマオの途上にあった弟子たちにこう語るのです。「ああ、 物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者た ち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。 (ルカ24・25‐26)」そして、主は彼らに「モーセとすべての預言者か ら始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された (同27節)」というのです。この場面において、モーセとエリヤが現れたこ とも、それと同じことを先だって三人の弟子たちに示しているのです。

 さて、そこで重要なことは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられ る最期」について話していたということです。この「最期」という言葉は「脱 出」とも「門出」とも訳せる言葉です。ルカはわざわざそういう言葉を使って いるのです。なぜかと言うと、それが特に「出エジプト」を指す言葉でもある からです。つまり、彼らが話していたことは単なる死を意味する「最期」につ いてではないのです。そうではなくて、「第二の出エジプト」とも言うべき出 来事について語り合っていたのです。いわばここでキリストは第二の出エジプ トを導く第二のモーセとして描かれているのです。

 この言葉によって、エルサレムにおけるキリストの十字架刑と三日後の復活 が何であるかが示されております。かつてエジプトの奴隷であった民をモーセ が解放し、約束の地に向かって導き出したように、キリストは罪と死の奴隷と なっている人間を解放し、神の国の栄光に向かって導き出されるのです。その ような第二のモーセとして、まず自らが出エジプトをし栄光に入る。それがエ ルサレムで起こる出来事であります。モーセとエリヤが話していたのはまさに このことでした。そして旧約聖書の約束していることは実現するのです。その 実現に先だって、ペトロたちは復活の栄光に触れているのです。それが山上に おいて起こったことでありました。

主に従っていくために

 そして、これは単にペトロたちの個人的な特殊な体験として書かれているの ではありません。代々の教会が経験してきたことでもあるのです。他ならぬ第 八の日、すなわち主の日の経験なのであります。そこで聖書が読まれ、解き明 かされる時、エルサレムに起こった出来事が何であるかが明らかにされるので す。私たちを罪と死から救い、来るべき世の栄光に入れ給う神の御業が明らか にされるのであります。ここで私たちは救い主であり導き手として最初に栄光 に入られた方を仰ぎ見るのです。私たちの初穂として復活された方の栄光に触 れ、私たちもまたその栄光に導き入れられることが明らかにされる日、それが この第八の日なのです。

 しかし、ここで大変興味深いことを聖書は記しています。33節以下をご覧 ください。「その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言 った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を 三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエ リヤのためです。』ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかった のである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の 中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、『これはわたしの子、選 ばれた者。これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、 そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれ にも話さなかった。(33‐36節)」

 ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかった。確かにそうでし ょう。しかし、混乱していたにせよ、なぜこのような言葉が出てきたのかは理 解できます。ペトロはエリヤとモーセと主と共に、山の上に留まりたかったの です。しかし、それは許されませんでした。場面はもとに戻っていきます。彼 らはただ雲の中からの神の言葉を聞くのです。「これはわたしの子、選ばれた 者、これに聞け。」その言葉だけが残るのです。「これに聞け」とは「聞き従 え」ということです。彼らは山に留まることは許されない。山から主と共に下 りていくのです。そして、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、 自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と語られるお方についていく のであります。平地に戻れば日常のことが待っています。だから「日々、背負 って」と言われているのです。

 これは私たちも同じでしょう。私たちは日常性を蹴って、日常の営みから自 らを切り離して、共に集まり主を礼拝するのです。しかし、私たちはここに留 まるのではなく日常の生活に戻っていきます。そこではやはり「日々、自分の 十字架を背負って」キリストに従っていくことが求められるのです。その「日 々」の生活の中において、キリストとの関係を否定するような者であってはな らないのです。「わたしとわたしの言葉を恥じる者(26節)」のような者と して、安易な逃げ道に走るようなことがあってはならないのです。私たちもま た復活の栄光に入れられる終わりの日に至るまで、私たちは主に従って行くの です。ですからそこで必要とされているのは忍耐です。聖書が繰り返し語って いる通りです。

 しかし、何がいったい私たちを忍耐強いものとするのでしょうか。そう問い ますときに、この山上の変貌の物語が主の呼びかけに続いて記されていること の意味を悟ることができます。忍耐をもたらすもの、それは希望なのです。絶 対的な希望なのです。希望のない人は忍耐強く生きることはできません。「自 分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」ということ は、ただ「歯を食いしばって頑張りなさい」ということではないのです。誰に 従っていくかということが重要なのです。それは私たちに先だって苦難を受け られ、そして復活された方なのです。それゆえ、大切なことは、復活されたキ リストの栄光に目を向けることであります。私たちに先だって苦難の道を歩ま れ、栄光へと入られた、第二の出エジプトを導かれる第二のモーセである方に 目を向けることなのです。その方の復活に私たちの復活をも見、そこに永遠の 希望をしっかりと見ておくことなのです。日々の平地での生活は山上での経験 に深く関わります。すなわち、第二の日から第七の日までの生活は、第一日で あり第八日である主の日の過ごし方に深く関わっているということを忘れては なりません。

 
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