「悔い改めへの呼びかけ」                          ルカ13・1‐9  先の阪神大震災の時、多くの人が神に言及するのを耳にしました。例えば、 「なぜ神はこのようなことをするのか」という問いを聞きました。「神の裁き だ」「神の罰だ」などという声も耳にしました。神についてのこのような言葉 を耳にしたのは、必ずしも教会の中においてではありません。むしろ、普段神 を信じてはいない、神を礼拝してはいない多くの人が神について語るのを聞き ました。しかし、考えてみますと、そのような二通りの仕方で神の名が口にさ れることは珍しいことではないだろうと思います。それは、様々な災難や苦難 の場面において起こります。「なぜ神はこのようなことをされるのか。」それ は純粋な意味での問いかけではありません。神に問うているわけではないから です。むしろ、神に対する非難の言葉でありましょう。また反対に、「これは 神の裁きだ」と言う人もいる。思わぬ苦しい出来事にであった時に、それを自 分について言うならば、「わたしは神に見捨てられた」などという表現となる でしょう。  私たちの思いはしばしばこの二者の間を揺れ動きます。しかし、その二つに 共通していることがあります。それは人間が裁く者となってしまっているとい うことです。「神の裁きだ」あるいは「神に見捨てられた」と言うとき、実は 必ずしも裁いているのは神ではなく、むしろ審判者の座にいるのは人間である のではないかと思います。また一方、「なぜ神はこのようなことをするのか」 と言う時、人間は神さえも裁く者となっているわけです。  今日お読みしました聖書箇所は、そのような人間のあり方に関わります。そ れが誤っていることを主は指摘されるのです。裁きの座は、本来人間の座ると ころではありません。本来座るべきところでないところに座っているために、 本当に大切なことが見えなくなっているということがあり得ます。それは何で あるのか。私たちはいったい何を見、何を聞かなくてはならないのでしょうか。 そのことを、主の言葉によって明らかにしていただきたいと思うのであります。 悔い改めなければ  初めに1節から5節までをお読みいたします。「ちょうどそのとき、何人か の人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエス に告げた。イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難 に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じ ように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレム に住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 決してそう ではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅び る。』(1‐5節)」  ユダヤの総督ポンティオ・ピラトがガリラヤ人の血をいけにえに混ぜた。こ れは必ずしも文字通りに取る必要はないでしょう。要するに、祭壇のところで ガリラヤ人が殺されたということであろうと思います。「いけにえ」に言及さ れているところからして、事件が起きたのは祭りの時であろうと思われます。 それは多くの人々にとって大変ショッキングな事件であったに違いありません。 恐らくエルサレムから到着した何人かの人が、この出来事を主イエスに告げた と言うのです。この事件そのものは、聖書外の歴史的資料には記録が残ってお りません。しかし、いかにもありそうな話です。というのも、ガリラヤは反ロ ーマ武力集団である熱心党発祥の地であったからです。その当時においても彼 らの中心地でありました。そして一方、ポンティオ・ピラトは扇動者や反乱者 に対して非常に残忍であったことが知られております。多分この事件も、祭り の騒ぎに乗じた小規模の武力蜂起があり、それをピラトが武力をもって鎮圧し た、というような出来事だったのだと思います。  さて、このような事件がありますと、人々はやはり考えることでしょう。 「なぜ神はこのような残忍な仕打ちをお許しになったのか。」それが神殿で起 こったとなると、なおさらそう問わざるを得ないわけです。神の家であり聖な る場所であるはずの神殿で、どうして神に逆らう異邦人がユダヤ人を殺すよう なことが起こるのか。しかも、それが先に宣べたように熱心党に関わるとする と、彼らは神の御名において武力行使をしているわけです。どうして神は彼ら を助けなかったのか、ということになるでしょう。  しかし、その一方では、このような言葉が聞かれたに違いありません。「神 殿で殺されたなんて、よっぽど悪人であったに違いない。それは間違いなく神 の裁きである。」死んだのが熱心党員であり、主イエスのもとに来て事件を告 げたのがファリサイ派の人であったなら、間違いなくそう思ったであろうと思 います。ファリサイ派と熱心党とは反ローマという点では一致しています。し かし、ファリサイ派は暴力による解放を否定していたからです。そして、因果 応報的な教義もまた、ファリサイ派の特徴でありました。ですから、「やはり、 彼らの行いは御心に適わなかった。神は彼らを裁かれたのだ」と言うに違いな いのです。  そのような事件を背景に主が人々に問われます。「そのガリラヤ人たちがそ のような災難に遭ったのは、他のどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだ と思うのか。」そして、言われます。「決してそうではない。」そのような災 難について、人が第三者的な立場に身を置いて裁く者として語ることを、主は お許しにならないのです。因果応報でかたずけてしまうことを、主はお許しに ならないのであります。「決してそうではない」と言われるのです。では、そ こで人は何を見、何を聞かなくてはならないのでしょうか。主は言われます。 「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」  私たちは自らを裁く者の位置に置くことはできないのです。そうではなくて、 やがて正しい神の前に立たされるのは私たち自身なのです。主は災難に遭った 人たちではなく私たちを指さされて語られるのです。最終的に人を救うことも 滅ぼすことも出来るお方の前に立たされるのは私たちなのです。永遠の運命を 握っている方の前に立つことになるのは私たちなのです。そのことを主は明ら かにされる。様々な出来事の中で心して聞かなくてはならないのは、他ならぬ 私たちに対する悔い改めへの呼びかけであることを、主は明らかにされるので あります。それゆえ主は、もう一つの出来事を取り上げて同じ主題を繰り返さ れます。それは偶発的な事故の犠牲になった人々のことです。犠牲者たちが特 別に罪深かったのではないのです。罪深いのは、彼らも、私も、あなたも同じ なのです。それゆえ何よりも大切なことは、私たち自身が悔い改めへの呼びか けを聞き、それに応えるかどうかなのです。 実のならない木のたとえ  さらに続けて、主は一つのたとえを話されます。悔い改めへの呼びかけがな されているということがいかなることか、主はこのたとえを通して明らかにさ れます。6節から9節までをご覧ください。「そしてイエスは次のたとえを話 された。『ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが 見つからなかった。そこで、園丁に言った。「もう三年もの間、このいちじく の木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。な ぜ、土地をふさがせておくのか。」園丁は答えた。「御主人様、今年もこのま まにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうす れば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してく ださい。」』(6‐9節)」  ぶどう園にいちじくの木が植えられているのは不自然な気がしますが、これ は決して珍しいことではなかったようです。ここで大切なことは、いちじくに せよぶどうにせよ、旧約聖書では共にイスラエルを表すのに用いられた植物で あるということです。主人はいちじくに実を探します。しかし見つかりません。 それが三年もの間続きます。主人は三年間実を探すことを繰り返したというこ とです。その主人の行動の中に何が表されていますでしょうか。そこに表され ているのは神の期待であります。神は御自分の民に実りを期待していたのだ、 ということです。  私たちは信仰者と神との関係について考えますときに、往々にして「人が神 を信じる」という方向からしか考えません。神は真実な方であり、その真実に 人は信頼する。そこに神と信仰者との関係があると考えるわけです。それは決 して間違いではありません。しかし、実は見落としてはならないもう一つの方 向があるのです。それは「神が人を信じる」という方向であります。神が恵み をもって人を救われる時、神は人が真実をもって応答することを信じ、期待さ れるのであります。  それは神がイスラエルの民をエジプトから救われた後、モーセに与えられた 「十戒」によく表れております。十戒は出エジプト記20章2節から記されて いますが、それは「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の 家から導き出した神である」という言葉から始まります。そして、「あなたに は、わたしをおいてほかに神があってはならない」と続くわけです。しかし、 そう訳されているのですが、直訳するとそこには「あなたには、わたしのほか に神はない」と書かれているのです。「殺してはならない」という戒めも、直 訳すると「あなたは殺さない」と書いてあるのです。他の戒めも皆、そのよう な仕方で書かれているのです。つまり、これは単なる戒律ではなくて、神の信 頼と期待が言い表されているのです。  悔い改めが呼びかけられているということはどういうことなのでしょうか。 それはもともとそこに神の信頼と期待があったということなのです。それを裏 切ったから、悔い改めが呼びかけられているのです。  いちじくのたとえに戻ります。主人は「だから切り倒せ」と言います。する と園丁は答えます。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の 周りを掘って、肥やしをやってみます。(8節)」ここで単純に、主人は父な る神を表し、園丁はイエス・キリストを表すと考えてはなりません。父なる神 は短気ですぐに裁きを下そうとするけれども、イエス・キリストが執り成して いるために、父なる神は怒りを収めた。そのように考えてはならないのです。 なぜなら、イエス・キリストを世に送られたのは、他ならぬ父なる神であるか らです。それゆえ、聖書は「神は愛です(1ヨハネ4・16)」と教えるので す。父なる神は怒りの神であり、キリストは愛であるというのは、全く非聖書 的な見方です。ですから、私たちは登場人物を寓喩的に見るのではなく、この たとえ全体の中に、神の「豊かな慈愛と寛容と忍耐(ローマ2・4)」を見る べきなのです。すなわち、本来だったら既に切り倒されても仕方のない者をあ えて忍ばれる神、悔い改めることを待たれる神、そして悔い改める者を赦そう とされる神の姿がここに表現されているのであります。  しかし、私たちは、ここに記されている「時」についての記述を見落として はなりません。「今年」「来年」「もしそれでもだめなら」という言葉を厳粛 に受け止めなくてはならないのです。そもそも、今日お読みしました主イエス の警告とたとえは、「時」に関する一連の話に続いております。12章54節 からは「時を見分ける」という内容の話が記されておりました。そして、12 章57節からの話の中心は「訴える人と一緒に役人のところに行くときには、 途中でその人と仲直りするように努めなさい」という勧めにあります。これが 文字通りの勧めでないことは明らかです。ここで問題となっているのは、裁判 官の前に出る時が来るということなのです。すなわち、審判者である神の前に 立つ時が暗示されているのです。ですから、内容の詳細はさておき、これもま た「裁判官のもとに着く前に」という「時」に関することが中心であるわけで す。  園丁は「今年もこのままにしておいてください」と言います。そして、「来 年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」 と言うのです。時は限られております。終わりの時は神が定め給うのです。悔 い改めが呼びかけられている時は永遠に続くのではありません。それゆえ、使 徒パウロもまたコリントの教会に宛てた手紙において次のように語るのです。 「今や、恵みの時、今こそ、救いの日(2コリント6・2)」  受難節に入り、第三の主日をこうして迎えました。この期間は、特に悔い改 めの期間とされております。私たちは、今もなお神の呼びかけがなされている ことを感謝したいと思います。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」である ことを感謝したいと思うのです。私たちは恵みの時である今、主の御声に耳を 傾けなくてはなりません。悔い改めて神に立ち帰る者を赦し、御自身との正し い関係に生かし給う神の「豊かな慈愛と寛容と忍耐」を軽んじてはならないの です。