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「放蕩息子帰る」

1998年3月22日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ15・11‐32

 今日与えられている箇所は「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる有名な箇所であ ります。また、これを「悪い者が良い者になる」という話として読みますなら ば、似たような話は世界の至るところに存在します。しかし、そのような有名 な話や類例の多い話には注意が必要です。というのも、そのような話には、私 たちはある種の先入観をもって接するために、注意深く読むことができないこ とが多いからです。

 そこで、少し注意深く読み始めますと、これがいわゆる「悪い者が良い者に なる」という類の話ではないことに気づきます。これはイエス様が語られた三 つのたとえ話の内の一つとして位置づけられているのです。第一の話は「見失 った羊のたとえ」です。二番目は「無くした銀貨のたとえ」です。第一の話に 出てくる羊について、道徳的なことは何一つ語られておりません。しばしば、 迷った羊は我が儘で不注意な羊であるように物語られることが多いのですが、 主の語られたたとえ話そのものには、迷った羊については何一つ語られており ません。ただ羊飼いのもとを離れた羊がいて、それが羊飼いの手の中に戻った というだけの話です。二番目の話でも同じことが言えます。銀貨と道徳性は無 関係です。ただ銀貨が失われた、そして女が見いだしたという話です。要する にテーマは羊や銀貨の「善し悪し」ではないのです。羊と羊飼い、銀貨と女の 「関係」が主題となっているのです。離れて失われてしまっているか、それと も手元にあるかどうかということが問題とされているのです。ということは、 第三の「放蕩息子のたとえ」についても同じことが言えると考えられるでしょ う。放蕩息子が真面目な息子になった、ということがテーマなのではいのです。 あくまでも「父親との関係」が問題にされているのです。

 そして、もう一つのことを指摘しますならば、先の二つのたとえ話におきま して、話の中心は羊や銀貨ではありません。そうではなくて、羊飼いであり女 なのです。ということは、第三の話である「放蕩息子のたとえ」におきまして も、話の中心は息子たちではなくて父親であるということになります。

 それでは、以上のことを踏まえた上で、早速この物語を読んでいくことにい たしましょう。

父から遠く離れて

 初めに12節から16節までをご覧ください。弟が財産の分け前を求めます。 財産分与の仕方は律法によって決まっておりました。弟には弟の受け取り分が 確かにあります。しかし、父親がその生前に財産を分けるということは、通常 しないことでありました。そして、何らかの理由でたとえ生前に財産を分ける ことがあったとしても、全財産は父親が生きているかぎりその権威のもと置か れることになっていたのです。つまり、子は所有権を受けるだけであって、処 分する権利、用益する権利を持つことはできなかったのです。それは後に兄の 方が、既に財産を分けられているにもかかわらず、「わたしが友達と宴会をす るために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか(29節)」と語っ ている通りです。しかし、この弟は財産を処分して金に換えます。そして遠い 国に旅立つのです。明らかに、財産分与を求めたときに、処分するつもりでお りました。これは何を意味するのでしょうか。弟は単に慣例を逸脱することを したのではありません。既に父が死んだものと見なしているということを意味 するのです。

 つまり、これが弟と父とのそもそもの関係であるのです。弟は物理的には父 のすぐ側におりました。確かに父は遠くにはいないはずなのです。しかし、心 は既に遠く離れているのです。彼が遠く離れたのは、旅立ったからではないの です。既に彼にとって父は死んだ存在なのです。そして、これは人と神との関 係をも表しております。神が近くにおられるにもかかわらず、人にとって神が 死んだ存在でしかない、あるいは死んでいてほしい存在でしかないということ があり得るのです。関係を無視し、拒否しているという状態があり得ます。そ もそも、そこから話は始まるのです。

 さて、話の中心は父親です。彼はどうしたでしょうか。ユダヤ人の社会にお いて父親は権威と力をもっております。この話の場合を考えますならば、彼は 力尽くでこの弟を家に留めることもできたでしょう。この息子を奴隷のように 扱って、監視のもとに置き、家に繋ぎ止めておくこともできたでしょう。しか し、この父はそうしません。そうしたとしても、関係は変わらないからです。 そのような仕方で、息子は近くはならないからです。むしろ、驚くべきことで ありますが、要求通りに財産を分けてやるのです。 父がここでしているよう に、神があえて人の願う通りに、欲する通りになされることがあります。この 弟がそうであったように、願っていたことが実現し、求めていたものが手に入 ることがあります。私たちはしばしば、そのように願望が実現することを幸福 であると考えます。欲するものが次々と手に入ることを喜ぶのであります。し かし、この物語を読みます限り、願望の実現はそのまま幸福を意味するのでは なさそうです。この弟は明らかに不幸だからです。彼は父のもとにいながら父 から遠く離れていたゆえに不幸でした。そして、願ったことが実現したために、 ますます彼は遠くに離れる。そのことはさらに不幸なことであります。それは 丁度、羊飼いのもとを離れて荒れ野にさまよっている羊であり、女の手から離 れて暗闇の中にころがっている銀貨と同じなのです。

 彼がそのような不幸な存在であることは次の描写によって明らかになります。 まず私たちの目に留まりますのは「彼は放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣 いしてしまいました」という言葉です。そして、その後飢饉が起こり、彼は惨 めさの極みを経験するのです。このことから、この話が「放蕩息子のたとえ」 と呼ばれるわけです。しかし、変だと思いませんか。彼が財産を無駄にしたこ とについては、たった一文だけしか記されておりません。小説であるならば、 彼の悪行や不道徳な生活を何ページにも渡って書くことになるでしょう。そし て、その結果として彼の惨めな生活が描かれることになるのだと思います。し かし、主は弟の放蕩生活がいかなるものであったかには関心がないかのように、 たった一言「放蕩の限りを尽くして」と言われるのです。なぜでしょうか。そ れは放蕩の生活そのものが問題ではないからです。彼が父から離れていること が問題なのです。

 彼は飢饉が起こって食べるにも困り始めます。そこで彼は豚を飼うことにな ります。ユダヤ人にとって豚は忌むべき動物でありました。その豚を飼うこと になり、しかも空腹のため豚の餌で腹を満たしたくなったと言うのです。この ようなイエス様一流の描写で表現されている内容は徹底的な惨めさです。彼は 姿形は人間でありますが、本質においてもはや人間ではなくなってしまってい る。豚と同じ、いやそれ以下になっている。その惨めさがここに表現されてい るのです。そして、それは彼の貧しさ故、飢饉の故であると考えてはなりませ ん。というのも、考えて見れば、私たちがたとえ物質的に豊かであっても、人 間としての尊さを失って、言うこと為すこと考えることにおいて豚以下になっ てしまっていることは、いくらでもあるからです。彼が惨めであるのは、飢饉 が起こった故と考えてはなりません。羽振りのよい時は幸福で、金が尽きた時 に惨めになったのではないのです。そうではなくて、実は初めから惨めだった のです。父のもとを離れた時から、いや父に財産を求めた時から既に、彼は惨 めな存在だったのです。だから主はまるで一筆書きのように、父を離れた後の 彼の生活を一気に語られるのです。

父のもとに帰る

 しかし、そこで息子は気づきます。豚以下になっている自分であるのは本来 の姿でないことに気づくのです。彼は言います。「ここをたち、父のところに 行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても 罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして くださいと。』」ここで大事な点は彼が心を入れ替えたということではありま せん。そうではなくて、彼が父のもとに帰ろうと決心したということです。方 向を変えたということなのです。そして、実際、方向を変えて歩き始めたとい うことなのです。

 彼はそこをたち、父親のもとへと向かいました。遠くに家が見えます。まだ 遠く離れています。しかし、その遠く離れていた彼を見つけたのは父親でした。 息子が父親を見つけたのではないのです。「父親は息子を見つけて、憐れに思 い、走り寄って首を抱き、接吻した」と書かれています。二人の距離を埋めた のは息子ではなく、父親でした。父親の赦しと憐れみでありました。

 息子は用意していた言葉を語ります。「お父さん、わたしは天に対しても、 またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありませ ん。」その後に本当ならば「雇い人の一人にしてください」と言うはずでした。 しかし、父親はその言葉を遮ります。「もう息子と呼ばれる資格はありません。 雇い人の一人にしてください」などという言葉に、父は関心がないのです。父 の関心はただ一つです。それは息子がそこにいるということであり、息子の心 もまた父と共にあるということなのです。豚以下になっていた者がボロボロの ままで戻ってきたとしてもそれでよいのです。神は人が立ち帰り、その心が神 と共にあることを喜ばれるのであります。

 そして、その喜びはいかなるものであるか。主はさらに語ります。「しかし、 父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、 手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連 れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、 いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」主イエ スの話は常識を遙かに外れています。実に極端です。しかし、それが神の喜び なのだ、と主は言われるのです。息子が受け入れられて喜んだかどうか。多分 息子は喜んだでしょう。しかし、このたとえ話そのものは立ち帰った息子の喜 びについて何も語っていません。それは小さなことだからです。少なくとも明 らかなことは、息子が父の喜びを知ったということであります。人が本当に知 らなくてはならないのは、神のもとにおいていかに大きな喜びを経験できるか、 ということではありません。そうではなくて、立ち帰る私たちについて、神が いかに喜ばれるか、ということなのです。

同じく遠く離れている者

 さて、話はそこで終わってはおりません。兄が登場してくるのです。兄は正 しい人でした。真面目に何年も父親に仕えてきた人でした。そのような兄です から、この期に及んでのこのこと帰ってきた弟のことを聞き、そんな弟のため に祝宴が開かれていることを聞いて、心底腹を立てます。無理も無かろうと思 います。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに 背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするため に、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの 息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた 子牛を屠っておやりになる。」そう兄は父に訴えます。兄の言葉は正しいと思 います。「そうは言ったものの、陰では何をしていたか分からない」などと言 って、兄を悪者にする必要はありません。彼は正しいのです。

 しかし、聖書は兄が正しいか否かということを問題にはしないのです。そう ではなくて、ただ一点を問題にするのです。それは何でしょうか。父の喜びを 共有できないということであります。父の心を自らの心とすることができない。 それゆえに、父が喜びとする弟を受け入れることができないのです。「あなた のあの息子」としか呼べないのです。それは何を意味しているのでしょうか。 実は、この兄もまた父から遠く離れているということを意味するのです。「子 よ、お前はいつもわたしと一緒にいる」と父は言います。確かに彼は家出をし た弟とは違います。しかし、彼の心は決して父の近くにはなかったのです。 「わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかった」などとい う言葉を聞きますと、彼が父と共に働いてきた日々においてさえ、決して彼の 心は父と共にはなかったことを思わされるのです。弟が失われた者であるなら ば、兄もまた失われた人であったのです。

 しかし、家に入ろうとしない兄のもとに、父はあえて出てきます。「父親が 出て来てなだめた」と書かれています。父は御自身の権威によって、力尽くで 家に引きずり込むこもできたでしょう。しかし、父はあえてそうしませんでし た。そのことによって、兄を近づけることはできないことを知っていたからで あります。ですから、父親は兄をなだめ、説得します。そして、兄が自らの意 志をもって父の喜びを共有し、それゆえに弟を受け入れ、喜びの祝宴に加わる ことを、父親は求められるのであります。

 このように、このたとえ話の中心は父親であります。主題は悪い者が良い者 となるということではなく、父と息子たちとの関係です。神が求めておられる のは単に私たちが良い人間になることではなく、単に私たちが熱心に神に奉仕 することでもないのです。神が求めておられるのは、私たち自身です。神は私 たちが立ち帰って神と共にあること、私たちの心が神と共にあることを求めら れるのです。そして、私たちはこれが他ならぬキリストの言葉であることを忘 れてはなりません。そのような父の心を知り、その父の心を全うするために十 字架へと向かっておられたキリストの言葉であるゆえに、このたとえは意味を 持つのです。それゆえ、キリストの御受難に特に思いを向けるレントのこの時 は、父の心に思いを馳せる時であり、離れてしまっている私たちが父のもとに 帰るべき時に他ならないのであります。

 
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