「わたしもあなたを罪に定めない」
1998年3月29日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ8・1‐11
今日、私たちに与えられていますのは、ヨハネによる福音書に記されている 大変良く知られた物語です。しかし、お気づきになられた方も多いと思います が、新共同訳聖書ではこの物語が括弧で括られております。これは、多くの写 本において、この物語が欠落していることを意味します。ある写本では、ヨハ ネではなくてルカによる福音書にこの物語が含まれております。また別の写本 ではヨハネによる福音書の一番最後に置かれているのです。そのようなことか ら、古代の教会が、この物語の扱いに困ったのではないか、ということが推測 されます。というのも、読みようによっては、ここから姦通の罪などを容認す るような教えが生まれかねないからです。
この物語は一見すると大変わかりやすく、そのメッセージも明快であるよう に思えます。7節の主イエスの御言葉は強烈であり、読者に強く訴えかけてく るからです。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に 石を投げなさい。」この言葉の前に、自らを反省した経験のある人は多いと思 います。「今まで、他人の罪をあげつらい、責め、裁いてきた。けれども、私 にも罪があるから、石を投げる資格はない。私は人の罪を厳しくとがめてはな らないのだ。」この物語を読みますと、多くの人はそう考えるわけです。ある いは、この物語によって自分を正当化する人もいるかも知れません。「私が悪 かろうと、私の罪を責める資格のある人などいないのだ。人からとやかく言わ れる筋合いはない。みんな同じなのだから。石を投げる権利のある人などいな いはずだ。」そうしますと、場合によっては、先に申しましたように、この物 語によって姦淫の罪を容認するようなことも起こってくるでしょう。しかし、 ここで私たちは一見分かりやすい物語だけに、注意深くこの物語を読まなくて はなりません。これは本当に罪を容認させるような要素をもった物語なのでし ょうか。あるいはたとえそうでないにしても、これは本当に「隣人の罪を厳し く責めるな」という教訓物語なのでしょうか。
イエスの前に連れて来られた女
それではもう一度、1節から6節前半までお読みいたしましょう。「イエス はオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、 御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者 たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真 ん中に立たせ、イエスに言った。『先生、この女は姦通をしているときに捕ま りました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。 ところで、あなたはどうお考えになりますか。』イエスを試して、訴える口実 を得るために、こう言ったのである。(1‐6節a)」
一人の女が姦通の現場を押さえられ、捕らえられました。そして、その女は、 早朝に神殿で教えておられたイエス様のもとに連れてこられたのです。彼女を 連れてきたのは律法学者たちやファリサイ派の人々でした。彼らは、この女を 真ん中に立たせて、イエス様に質問を投げかけます。これが事の発端でありま した。
少し考えれば、これがいかに不自然な場面かが分かります。まず第一に、ど うして女だけが連れてこられたのでしょうか。姦通というのは一人では成り立 ちません。相手がいるわけです。そして、ファリサイ派の人々が言う「モーセ の律法」には次のように書かれているのです。「男が人妻と寝ているところを 見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から 悪を取り除かねばならない。(申命記22・22)」これを読みます限り、死 刑にされるべき第一の者は人妻と寝た男の方であるはずです。しかし、彼らは 男の方は連れてきませんでした。おかしな話です。
第二に早朝に律法学者やファリサイ派の人たち、すなわちイエス様に敵対し ていた人々が勢揃いして来たことも不自然です。この出来事の描写は、彼らが 女を姦淫の現場で捕らえてそのまま神殿に連れてきたように告げております。 しかし、その時に、どうして律法学者たちが一緒にいるのでしょう。あたかも 女が姦淫をすることを知っていて、その朝に捕らえることになっていたかのよ うではありませんか。そして、主イエスを訴える口実を得るために用いること が既に決まっていたかのようではありませんか。
しかも、さらに不自然なのは、彼らの持ってきた質問です。これは明らかに、 その朝たまたま姦通を犯した女が捕まったから出てきたような質問ではありま せん。考え抜かれ、前々から周到に準備された質問なのです。彼らは「先生、 この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、 モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになります か」と問いました。もし、主が「モーセの律法の通り、女を打ち殺すべきだ」 と言ったらどうなるでしょうか。その頃、ユダヤはローマの支配下にありまし て、いわゆるリンチではない、正式な裁判による死刑の執行権はローマに属し ておりました。ですから、イエス様が死刑を主張するならば、取りようによっ ては大変なことになるのです。それはローマの国家権力以上の権威がモーセの 律法にあることを公に主張することになるからです。それは主イエスをローマ 帝国に反逆する者として訴える口実をファリサイ派の人々に与えることになり かねません。しかし、一方、もしイエス様が「その女を打ち殺すべきではない 」と言うならばどうなるでしょうか。それは公にモーセの律法の権威を否定す ることになるわけです。たとえ御時世として死刑の執行権を持たないとしても、 公にモーセの律法を否定すれば、それはまたそれとして問題になるのです。彼 らは主イエスを「公然と律法を無視する者」として言いがかりをつけて訴える か、あるいはそのことにより民衆の信頼を失わせることができるでしょう。
このようにシナリオは出来上がっていたのです。これら一連の不自然な状況 を総合しますと、この女は偶然に姦通の現場を押さえられたと言うよりは、む しろ仕組まれた罠にはめられたと考えざるを得ません。確かにこの人は姦淫の 罪を犯し続けてきたのでしょう。しかし、彼女が捕らえられたのは、明らかに 主イエスを陥れる目的のためであったのです。もしかしたら、相手の男は律法 学者たちの手先であったのかもしれません。それならば、男がそこにいないこ とも理解できます。いずれにせよ、彼らの悪巧みのために利用されて、公衆の 真ん中に引き立てられて恥を晒すことになったのがこの女でありました。
彼女は不運な人でしょうか。確かにそうとも言えるでしょう。しかし、私た ちはここで一つの大切なことを見落としてはなりません。それはいかなる仕方 にせよ、主イエスの前にいるという事実です。そのような不運とも言うべき出 来事を通して、この人は主との関わりの中に置かれたのです。この人は主イエ スに興味も関心もなかったかもしれません。しかし、ともかく強制的に主の御 前に連れてこられたのです。そして、そこに実は神の恵みが隠されているので す。
この人のように、私たちはしばしば自らの罪が明らかにされるようなことを 経験いたします。そして罪の結果を負うことになるのです。自らの罪の結果と して、苦しみ、悩み、あるいは恥ずかしい思いをするのです。その時に、往々 にして私たちは「何と不運なことか」と嘆くものです。同じようなことをして いても、うまく切り抜けていく人もいることを考えてしまう。「なぜ私だけが …」とぼやきたくなるのです。
しかし、間違えてはなりません。私たちが罪の結果を刈り取ることは、本当 は不運でも何でもないのです。むしろ、必要なことなのです。それは神の与え 給う恵みの時なのです。悔い改めへの招きの時であり、キリストに出会う機会 であるのです。この女の人は、もし姦通が明らかにされなければ、恥ずかしい 思いはしなかったかも知れない。しかし、彼女はさらに罪の泥沼に沈んでいく ことになったでしょう。その行く末は間違いなく最終的な神の裁きであり滅び なのです。この人はそのような泥沼から引き出されたのでした。苦しく惨めな 思いをしたけれど、この物語の中でただ一人だけキリストの恵みに触れている のはこの人なのです。
わたしもあなたを罪に定めない
それでは次に、この女に対して、主がどのように関わられたかを見ることに しましょう。6節後半からお読みいたします。 「イエスはかがみ込み、指 で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエ スは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、 まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続け られた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去っ てしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こし て言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定 めなかったのか。』女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。 『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯して はならない。』(6b‐11節)」
主が何を地面い書いていたのかは分かりません。そのこと自体は大して重要 なことではないでしょう。要するに、律法学者たちの言葉を無視していたとい うことだと思います。しかし、彼らは「しつこく問い続け」ました。そこで主 が身を起こして言われた言葉が7節の言葉です。「あなたたちの中で罪を犯し たことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」すると、「これを聞い た者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひ とりと、真ん中にいた女が残った(9節)」。そのように聖書は告げておりま す。
なるほど、「罪を犯したことのない者が」と言われたら、自信をもって最初 の石を投げることができる者などいなかったのでしょう。そして、私たちもま た恐らくそこにいたら、こそこそと逃げ出すのではないかと思います。そのよ うに私たちもまた心の責めを覚えるものですから、先にも言いましたように、 これは「人の罪を厳しく責めてはいけない。あなたも罪人なのだから」という ことを教えている物語のように思ってしまうのです。しかし、もしこれが単な る教訓物語であるならば、「一人また一人と、立ち去ってしまった」という言 葉で終わりにしてもよいでしょう。ところがこの物語はそれで終わってはいな いのです。さらに主の言葉が続くのです。「婦人よ、あの人たちはどこにいる のか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。(10節)」「わたしもあなた を罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。(1 1節)」なぜこの言葉が続くのでしょうか。そのことをよく考えなくてはなら ないと思います。
そのためには、もう一度先の主イエスの言葉を注意深く聞く必要があるでし ょう。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投 げなさい。」主は「その女に石を投げてはいけない」とは言っておられません。 主の言葉は、基本的には「石を投げろ」という命令です。石打ちの刑というの は、最初の一投を合図に一斉に石を投げるものなのです。ですから、主はその 最初の石を投げる者を指名しているのです。それは「罪を犯したことのない者 」であるべきだ、と言っておられるのです。主は「姦淫が罪ではない」とは言 っておられません。罪を曖昧にはしておられないのです。主は「罪を裁くな」 と言っているのではありません。むしろ「罪を裁け」と言っておられるのです。 しかし、そこには最初の石を投げ得る者が一人もいなかった。それがこの場面 であります。
いや、その場面に石を投げ得る人が一人もいなかったわけではありません。 たった一人だけですが、そこにいたのです。それは他ならぬ主御自身です。た だ一人罪なき方、それゆえただ一人罪を裁き神の律法に従って人を罪に定める ことができる方が、そこにおられたのです。女はその方と共にそこにいたので す。彼女もまた、そこを立ち去ることはできたでしょう。しかし、その女はそ こに留まったのでした。罪なき方の前から逃げないで、そこに留まったのです。 そして、留まった彼女だけが、そこで驚くべき言葉を耳にしたのでした。「わ たしもあなたを罪に定めない。」
この話の中心は「一人また一人と、立ち去った」というところにあるのでは ありません。そうではなくて、主の御前にある罪人に対して、罪なきお方が 「わたしもあなたを罪に定めない」と語られるところに、この物語の中心があ るのです。そして、ここに私たちの聞くべき福音があるのです。彼女は恥と惨 めさの中でこの言葉を聞いたのでした。「わたしもあなたを罪に定めない。」 そして、私たちが主のもとから立ち去るのでない限り、これは私たちもまた聞 くことが許されている福音の言葉なのであります。
受難節においてこの御言葉を耳にすることは意義深いことです。と言います のも、私たちはこれを主の十字架への途上における言葉として聞く時に、初め てその言葉の真の重さを知るからであります。「わたしもあなたを罪に定めな い」と言われた方は、自ら代わりに罪に定められるために、十字架に向かって おられたのでした。罪の赦しを語られた方は、自ら人の罪を背負うために、十 字架に向かっておられたのです。私たちが悩みと恥との満ちたこの人生におい て「わたしもあなたを罪に定めない」という言葉を聞くことができるとするな らば、それは私たちに代わって罪を負い、十字架に釘付けにされた方の苦難を 通して私たちに与えられた言葉に他なりません。そのことを思います時に、そ の次に主が語られた言葉が同じ重みをもって迫ってまいります。「行きなさい。
これからは、もう罪を犯してはならない。」正しく読むならば、この物語は罪 を容認する者を生み出さないはずであります。むしろ、主の恵みの御言葉は、 罪の奴隷であった者を、罪と戦う者へと変えるのです。私たちは週毎にこうし て集められ、主の恵みの御言葉を聞き、罪の赦しに与ります。それはまた、そ の恵みに応えて生きる新しい人として、ここから出ていくことをも意味するの です。