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「主は生きておられる」

1998年4月12日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ24・1‐12

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおら れない。復活なさったのだ。」これが、あの最初のイースターの朝、主の墓に 行った婦人たちに与えられたメッセージでした。あれから二千年近く経ったこ のイースターにおいて、私たちは同じ言葉を、この朝神から与えられた御言葉 として、受け止めたいと思うのであります。「なぜ、生きておられる方を死者 の中に捜すのか。あの方は、ここ(すなわち墓)にはおられない。復活なさっ たのだ。」

死者を死者の中に捜していた女たち

 彼女たちは死者に会いにいったのでした。その手にあったのは香料と香油で した。それをイエスの亡骸に塗るために婦人たちは墓に向かったのです。

 主イエスが処刑された日、それは金曜日でありました。翌日は土曜日、すな わちユダヤ人の安息日であります。しかも、その安息日は特別な「過越の安息 日」でありました。なんとか、安息日に入る前に埋葬を済ませておかなくては なりません。ユダヤ人の一日は日没と共に始まります。一番星が輝く時から安 息日は始まるのです。ですから主イエスの埋葬は急を要しました。アリマタヤ のヨセフという人が遺体の引き取りを願い出て、岩に掘られた墓に主の遺体を 葬ることになりましたが、油や香料を塗ることはできませんでした。亜麻布で 包み、ともかく葬りを済ませたのであります。婦人たちはその墓の位置を確認 し、遺体が納められるのを確認いたしました。そして、安息日が終わる前に、 とにかく香料と香油を準備したのです。(23・56)ここに、彼女たちが主 イエスの遺体について最善のことを為そうとしていることが伺われます。事実、 彼らは出来るだけ早く、主の遺体に香料を塗りたいと思っていたのでした。で すから、安息日が明けた日の朝早く、すなわち日曜日の早朝、墓に向かったの です。それが1節に記されていることであります。

 彼らにとってナザレのイエスという方は特別な人でありました。その愛に満 ちた生き様は、彼らの記憶の中にしっかりと刻み込まれていたに違いありませ ん。また、主イエスが生前語られた一言一言もまた、彼らの心に刻みつけられ ていたことでしょう。主の遺体に香料を塗り、ともかく遺体について為すべき ことをした後、いったいどうして生きていくのか。これから先のことは、恐ら く彼女たちにはまったく見えていなかったに違いありません。主を失ってどう やって生きていくのか。ともかく生きていかなくてはなりません。ならば、主 イエスの思い出と共に生きていくしかないでしょう。主が生きられた姿を胸に、 せめて主が生きられたように生きようと考えていたのかもしれません。また、 主が残された言葉を心に留め、その教えに従って生きていくしかなかったわけ です。それがせめて彼らにとって主と共に生きることであったに違いない。そ ういう意味では、主に香油を塗り、香料を塗るために墓に行くことは、彼らに とって主の思い出に生きる新しい出発でもあったのではないかと思うのです。

 しかし、どれほど美しい、あるいは生き生きとした記憶があろうとも、彼ら の求めているのは、やはり「死者」でした。彼らは死者を死者の中に求めてい たのです。求めるべきは「生きている方」であることを知りませんでした。そ して、その方を死者の中に求めるべきではないことを知りませんでした。「な ぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。 復活なさったのだ。」

 在りし日の教えが今日に生きる人々になお大きな影響を及ぼしているという 偉大な歴史的人物は沢山おります。彼らは死んでもなお語っていると言えるで しょう。ナザレのイエスという人もまた、そのような一人として挙げることも 可能だと思います。その偉大なる高尚な生涯。その比類無き教え。それらは代 々の人々の心を動かし、多くの魂を捕らえてきました。ある者は彼を人類に与 えられた最高の教師と呼び、ある者は彼を抑圧されている者の解放者と呼びま す。偉大なる聖人の一人にも数えられます。そして、多くの人々がイエスの生 き方に倣おうとし、またその教えを守って生きようとしました。イエスの生き 方に倣うことがすなわちイエスに従うことであると考えてきました。あるいは イエスの残された教えに従って生きることが、イエスに従うことであると考え られてきました。そういう意味では今なおこの方は人々の指導者として生きて いると言えるでしょう。多くの人がそのような形で生きている方に従おうとし ている。それは間違ったことではないだろうと思うのです。また、キリスト教 の復活信仰をそのようなものとして説明する人もいないわけではありません。 キリスト教においてイエスが復活し、共にいると信じられているということは、 キリスト者の心のうちにイエスが生きているということなのだ。そもそも復活 の幻想は、人々のイエスに対する思慕の念から生じたのだ。確かに、そう説明 されれば合理的でもありますし、分かりやすいでしょう。

 しかし、どうでしょう。いくら「イエスの教えが今なお影響を及ぼしている 」、あるいは「イエスが心の内に生きている」と言いましても、その方がやは り「過去に生きたナザレの人イエス」でしかないならば、それはやはり死者を 死者の中に捜すこと以上のことにはならないだろうと思うのです。あの墓に行 った婦人たちと変わらないだろうと思うのであります。

 婦人たちの聞いた言葉は、それ以上のことを意味しているに違いありません。 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられ ない。復活なさったのだ。」この言葉が語り伝えられ、福音書に書き記され、 今日まで伝えられてきました。二千年間伝え続けてきたのです。そこから一つ のことが明らかになります。すなわち、教会が「イエスは生きておられる」と 伝えてきた時、それは単に教えが生き続けているとか、キリスト者の心の中に イエスが生き続けておられるとかを意味していたのではない、ということであ ります。では「生きておられる方」という言葉は、いったい何を意味するので しょうか。

死者の中におられない「生きている方」

 御使いたちは言いました。「あの方は、ここにはおられない。復活なさった のだ。」御使いたちが「ここ」と言っているのは、具体的には主イエスが葬ら れた岩穴のことであります。しかし、単に御使いたちが「場所」のことを言っ ているならば、このような言葉にはならないだろうと思います。例えば、「あ の方は、ここにはおられない。ガリラヤにおられる」というような言い方にな るでしょう。しかし、あえて主が今どこにおられるかではなく、「復活なさっ たのだ」と言われるのです。ということは、「ここにはおられない」において、 強調点は単に場所のことではなくて、「死の内に閉じこめられていない」とい うことにあると理解されます。言い換えるならば「イエスは死によって支配さ れていない」ということであります。

 それは墓の描写によってもよく分かります。墓はどうなっていたか。「見る と、石が墓のわきに転がしてあり(2節)」と記されております。この墓の入 り口を塞いでいた石が転がしてあった、あるいは取りのけてあったという描写 は四つの福音書すべてに記されております。入り口の石のことなど、ある意味 でどうでもよいことに思えるではありませんか。しかし、あえて福音書がそれ を報告しているのは、それが象徴的な出来事だったからなのでしょう。マルコ はわざわざ「その石は非常に大きかった」と伝えています。それは人の力によ ってはどうすることもできない死の支配を表しています。しかし、それが転が されたのです。誰によってでしょうか。「転がしてあった」というのですから、 それは墓に行った人によってではありません。神によってであります。神によ って死の扉は開かれ、もはやキリストは死によって捕らえられてはいないので す。死に支配されていない。そうしますと、これがまさしく御使いの語るとこ ろの「生きている方」という意味であることが分かります。

 なぜこんなことを申しているかと言いますと、御使いの言う「生きている」 という言葉と、私たちが通常使う「生きている」という言葉は意味が違うから であります。確かに私たちもまた、「生きている者」であるに違いありません。 しかし、厳密に言いますならば、私たちは「生きている者(The living)」では なくて、「死につつある者(The dying)」なのです。なぜなら、生きていながら、 既に死に支配されているからです。つまり、命に向かっているのではなくて、 滅びに向かっているのです。私たちの人生は明らかに死の支配のもとにありま す。そこに私たちの限界があります。それは戯れごとではありません。その事 実は、忘れていればそれで済むということでもないでしょう。

 小学生の頃を思い起こして見ますと、私は人生が何かによって限界づけられ ているなどと考えたこともありませんでした。自分の前途は永遠に広がってい るように思っていました。しかし、やがて十代半ばぐらいになりますと、自分 の人生が後戻りすることのできない一つの流れであり、終わりある一つの方向 に向かっているということに気づき始めます。そこから様々な諦めも経験せざ るを得なくなります。取り返しがつかないことというものがあることを知り始 めます。取り返しがつかないことを繰り返して人は終わりに向かって生きてい くのだ、ということが分かり始めます。やがて、私の身近な友が事故で死にま した。机を並べていた友が薬を大量に飲んで自殺しました。私が尊敬していた 人は、脳の腫瘍のために死にました。ある日、私が外から家に電話を入れると、 思いがけなく既に祖父が息を引き取っておりました。死が身近な現実として認 識され始めました。そして明らかになってきたことがあります。確かに、死ぬ までは生きているとは言えるけれども、では死ぬまでは「死」は私と無関係か というと、決してそうではないわけです。死の支配ゆえに、希望は次第に失わ れていきます。最後まで持ち続けることができる希望などないことが明らかに なってまいります。結局、目先の楽しみや喜び、しばしの充実感などを代わり にするしかなくなります。しかし、それらもやがて失われていくものに他なり ません。

 「罪の支払う報酬は死です(ローマ6・23)」と聖書は語ります。確かに、 滅びへと向かう「死につつある人」として、死の支配のもとにある人生は、罪 ある私たちの現実です。人は切り花のようなものです。美しく咲いているよう に見えますが、その罪のゆえに命から切り離されているのです。「生きている 者」ではなくて「死につつある者」なのです。

 しかし、聖書は私たちに、本当の意味で「生きておられる方」について語る のであります。代々の教会は、それゆえに「主は生きておられる」と信仰を告 白してきたのです。死に支配されていない方によらずして、死の支配のもとに ある罪人である私たちが救われるすべはないからです。「なぜ、生きておられ る方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったの だ。」これが最初のイースターに与えられたメッセージであり、今日、私たち に与えられているメッセージなのです。ここに私たちの希望があります。この お方こそ、滅びに向かう「死につつある罪人」を、永遠の命に向かう「生きて いる人」にすることのできる方なのです。永遠に「生きている方」であるから です。

 彼らは「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と言いました。ペ トロは墓に行きました。他の弟子たちも行ったでしょう。しかし、先の婦人た ちも、ペトロや他の弟子たちも、二度と主の墓を訪れて、そこで主を見出そう とはしませんでした。生きておられる方は死者の中にいないことを知ったから です。では、どこにおいて生きておられる方を求めたらよいのでしょう。どこ で主にお会いすることができるのでしょうか。

 主の復活を信じない人であっても、認めざるを得ないことがあります。それ は、主の弟子たちがユダヤ教の安息日ではなく、週の最初の日、すなわち復活 の日に、共に集まり礼拝をするようになったという事実です。それは何を意味 するのでしょうか。それは、墓にではなく主の日に共に集まるところにおいて ―福音が語られパンが裂かれる礼拝において―代々の教会が「生きておられる 方」に出会ってきたことを意味するのであります。今日においても同じです。 ここにおいて私たちは生きておられる方に出会い、その命に与り、生きておら れる方をかしらとする生きている体(キリストの体である教会)に連なるので あります。

 
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