「人を裁く者の罪」
1998年4月19日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ2・1‐16
約二ヶ月ぶりにローマの信徒への手紙を礼拝にてお読みいたしました。今日か ら二章に入ります。さて、この聖書箇所を読みました時、皆さんはどのようなこ とを考えられましたでしょうか。二章の冒頭にはこう書かれています。「だから、 すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自 分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからである。 (1節)」このような言葉はしばしば私たちの心に突き刺さります。というのも、 確かに、私たちは往々にして「裁く者」であるからです。そして、「あなたも… 同じことをしているからである」という言葉を読みますと、なるほど自分のこと は棚に上げて、人を裁いている自分自身の姿が見えてきます。こういう箇所を読 みますと、聖書に親しんでいる人は主イエスの言葉を連想することでしょう。 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。(マタイ7・1) 」そうしますと、私たちは「ああ、この聖書箇所は自分のことを棚に上げて人を 責めるな、ということを教えているのだな」などと思うものです。
しかし、そもそも「人を裁くな」とはどういうことを言っているのでしょうか。 そう考え始めますと、一見分かりやすい命令に思えるこの言葉自体、決して単純 ではないことが分かります。単に「人を責めてはいけないよ」というだけならば、 そのような言葉が、時には自己弁護のために用いられ、あるいは時には厳しい人 々を非難するために用いられることもあるでしょう。はたして、主が「人を裁く な」と言われたとき、それは何を意味したのでしょうか。またどうして「裁かれ ないようにするためである」という言葉が続くのでしょう。そして、この箇所は 本当に「自分のことを棚に上げて人を責めるな」ということを教えている箇所な のでしょうか。そのようなことを考えながら、この手紙を読み進んでいきたいと 思います。
すべて人を裁く者よ
それでは、もう一度1節から3節までをお読みしましょう。「だから、すべて 人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身 を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこ のようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。こ のようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなた は、神の裁きを逃れられると思うのですか。(1‐3節)」
そもそも、なぜここで「すべて人を裁く者よ」という言葉が出てくるのでしょ うか。その前に書かれていることとどう繋がっているのでしょう。一章の終わり の方には諸々の悪、特に私たちの心の内にわき起こってきて現実の生活の中に姿 を現してくる悪のリストが記されておりました。
「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪 念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言 を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。(1 ・29‐31)」
そして、これまでパウロが語ってきたことは、これらが単に人と人との間の事 柄ではなく、神との関係に深く関わっているのだ、ということでした。その直前 には、こう書かれています。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼ら を無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようにな りました。(1・28)」つまり、人の内には、神を斥けようとする意志がある のです。意識の内に入れまいとする。自分の思い通りになる偶像の神であるなら ば受け入れることができるけれども、人がその前で謙らなくてはならない絶対者 であるならば、受け入れることができないのです。自分の考えている通りの神で あるかどうか、神を問うている間はよいのですが、神の前に自分が問われるとな ると、そのような神は受け入れることができない。なぜでしょう。人間は傲慢な ものだからです。そして、その結果、人は無価値な思いに引き渡されてしまった。 そこから先に挙げたもろもろの悪が生じたというのです。神を認めようとしない ところにこそ、不義の源泉があると語られていたのであります。
しかし、どうでしょう。このような言葉、人間の悪があからさまに語られる言 葉の前で、人は二通りに分かれるのではないでしょうか。すなわち、ある人はそ こで自分自身の姿を思い浮かべ、自分自身のこととして聞くでしょう。しかし、 そこで他の人の顔を思い浮かべる人もあろうかと思うのです。パウロは、これま で書き記してきたことを、自分自身のこととして聞く人ばかりでないことを知っ ています。必ず、他人事として聞く者がいることを彼は知っているのです。具体 的に言うならば、例えばこれを異邦人に当てはめて「そうだ、その通り」と言う であろうユダヤ人たちです。パウロは32節でこう書きました。「彼らは、この ようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれ を行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」しかし、そこで必 ず反論する人がいることでしょう。「とんでもない。私たちは彼らの行いを是認 なんかしていない。皆が皆あなたの言うような人間ではない。むしろ、私たちは そのような行いに対して怒っているのだ。神に逆らったこの世の不道徳と退廃に 対して、怒りを覚え、嘆き悲しんでいるのだ。」
そこでパウロはそれらの人々に向かって新たに語り始めるのであります。「だ から、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、 実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているから です。(1節)」
彼らは同じことをしていたのでしょうか。後に、「『盗むな』と説きながら、 盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。(21‐2 2節)」という言葉が出てきます。あるいはユダヤ人の中にもそういうことが行 われていたということかも知れません。しかし、表面的に見るならば、特に厳格 なユダヤ教徒たちの生活というものは、道徳的にも非常に高いものであったに違 いありません。パウロはこの手紙をコリントという町で書いています。そこは退 廃と不道徳において知られている場所でありました。そのような町の異邦人社会 において、ユダヤ人たちの生活というのは、少なくとも表に現れているところに おいては、潔癖なものとして際だっていたに違いないと思います。しかし、では 29節以下に書かれていることは彼らには無縁であったのでしょうか。決してそ うではないとパウロは言っているのです。彼らの心の内に起こる事柄、それは神 の光に照らされれば、異邦人社会における悪徳と何ら変わるところはないのです。
そして、さらに言うならば、パウロはその悪徳そのものよりも、神との関係を 問題にしているのです。「神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、 わたしたちは知っています。(2節)」確かに、ユダヤ人たちには神の言葉が与 えられているのであり、神の裁きは明らかにされているのです。しかし、その神 の言葉を自らに対する言葉として受け止めずに、他人事として他者を裁いている 時、既に人は神との正しい関係にはないのです。確かに異邦人社会のように、創 造主なる神をあからさまに斥け、偶像を拝むということはしていないかも知れま せん。異邦人と同じ仕方で、「神を認めようとはしなかった」ということはない かも知れない。しかし、神の言葉を自らに対する言葉として受け止めることがで きず、神の裁きを他人事としてしか捉えられなくなっているということは、すな わち既に神の言葉に対しても、神御自身に対しても、畏れを失っているというこ とに他ならないのです。ですから、パウロは言うのです。「このようなことをす る者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃 れられると思うのですか。」
かたくなな悔い改めのない心
続いて4節から11節までをお読みしましょう。「あるいは、神の憐れみがあ なたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽ん じるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のた めに蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるで しょう。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善 を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反 抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下 り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと 平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。(2・4‐11)」
「神は人を分け隔てなさいません。」――多くの人は、こういう言葉を好みま す。このような言葉を、「人間は皆平等なのだ」とか「人類皆兄弟」などという 言葉と簡単に結びつけます。そして、「いかなる者も等しい権利を持つべきだ」 ということが主張されます。「なぜなら神は人を分け隔てしないからだ」と言う のです。しかし、少し立ち止まって良く考えなくてはなりません。「神は人を分 け隔てなさいません」ということは、それほど耳に快い言葉でしょうか。少なく ともパウロがここで言っていることは、大変厳しいことなのです。「神は人を分 け隔てなさいません」という言葉が意味することは、ただ神との関係だけが問わ れる、ということであります。人生が神の御前にあってどうであったか、という ことだけが問われるという、まさに厳粛な神の裁きの原則が語られているのであ ります。裁いている私たちも、裁かれている他の者も、等しくこの原則のもとに 置かれているということなのです。その厳粛な事実の前に自らを問うことなくし て、ただ「人間は平等であるべきだ」ということだけを軽々しく口にするならば、 それこそ、神の言葉と裁きを他人事としていることに他ならないのです。何にお いて平等なのか。神の裁きの前において平等なのです。
しかし、聖書はそこで神の憐れみについて語ります。神の平等な裁きの大原則 の前に置かれている私たちに、なお神の憐れみが現されているのであります。 「その豊かな慈愛と寛容と忍耐」が現されており、私たちはその中に生かされて いるのであります。ユダヤ人たちは、その豊かさを知っていたはずでした。彼ら は次のような歌を繰り返し歌っていたはずだからです。「主は恵みに富み、憐れ み深く、忍耐強く、慈しみに満ちておられます。(詩編145・8)」そうです、 彼らは他の誰よりも「豊かな慈愛と寛容と忍耐」を知っていたはずなのです。し かし、その憐れみが与えられているのは、悔い改めに導くためであることを彼ら は悟りませんでした。その結果、「豊かな慈愛と寛容と忍耐」は軽んじられたの でした。なぜでしょうか。神の裁きを他人事のように考えているからです。神の 慈愛と寛容と忍耐を軽んじるのは、この世の悪人ではありません。むしろ、正し い人が軽んじるのです。道徳的な人、立派な人、真面目な人が、神の慈愛と寛容 と忍耐を軽んじるのです。私たちが自らを正しい者とし、神の言葉と神の裁きを 他人事とする時、神の慈愛と寛容と忍耐が軽んじられるのであります。
ここまで読んできますと、これが「自分のことを棚に上げて人を裁くこと」自 体を問題にしているのではないことが分かります。単に「裁き合ってはいけませ んよ」という教えではないのです。もっと深刻なことが語られているのです。単 に人間同士の話ではないのです。中心は神との関係なのです。神に対して私たち がどうであるか、ということなのであります。先ほど取り上げた主イエスの言葉 を思い起こしてください。主は「人を裁くな」と言われました。しかし、続けて 「あなたがたも裁かれないようにするためである」と言われたのです。「裁かれ る?」誰によってでしょう。人によって裁かれるのではありません。神によって です。神の裁きを考えることなくして、単に「人を裁くな」と言っても、それは 大した意味を持ちません。せいぜい「人に厳しくすると人間関係が壊れるよ」ぐ らいの意味しか持たないのです。そして、そのような言葉を、人間は自分の都合 良いように用いるようになるのです。
間違ってはなりません。問題の中心は、単に人間同士の関係ではありません。 ここで問題とされているのは、神の御前における「かたくなな心」なのです。神 の御前に悔い改めようとしない心なのです。「あなたは、かたくなで心を改めよ うとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁き を行われる怒りの日に現れることでしょう」と語られていることは、まさに他人 事ではありません。
私たちは、1章18節から始まって、パウロが人間の罪を明らかにしている箇 所を読み進んでまいりました。罪の暗黒は、単に人間の退廃的な生活や不道徳の 中にあるのではありません。この世の正しい人々の中に、宗教的な人々の中にも また、その闇が広がっていることを私たちは知らされるのであります。そこにも また、救いをもたらす神の力である福音が必要とされているのです。「福音は、 ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だ からです。(1・16)」