「神の裁きにおける平等」
1998年4月26日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ2・1‐16
今日与えられています聖書箇所は、先週と同じです。その内で、特に今週は1 2節以降に注目したいと思っております。前回、11節において「神は人を分け 隔てなさいません」という言葉をお読みしました。これは単に「人間は皆平等な のだ」とか「人類皆兄弟」などということではありません。先週の繰り返しにな りますが、ここには大変厳しいことが語られているのです。いわばその人生が神 の御前にあってどうであったか、ということだけが問われる、という厳粛な神の 裁きの大原則が語られているのであります。平等とあえて言いますならば、神の 裁きの前における平等ということなのです。今日は、もう少し深くこの点に立ち 入って考えてみることにいたしましょう。
ユダヤ人と律法
初めに12節と13節をご覧ください。
「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法 の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の 前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。(2・12 ‐13)」
9節と10節には「ユダヤ人はもとよりギリシア人にも」という言葉が繰り返 されておりました。ここでギリシア人とは、いわゆるギリシア語を話す人という 意味ではなく、ユダヤ人以外、異邦人全体を指しています。12節に出てくる 「律法を知らないで」「律法の下にあって」というのも、同じように異邦人につ いて、ユダヤ人について、それぞれ語られていることであります。つまり12節 では、異邦人とユダヤ人とが律法との関係で言い換えられているわけです。
ユダヤ人にとって神の御心を表す律法がいかなる存在であったかは、彼らが書 き記された書物としての聖書をどのように取り扱ったかを見ると、よく分かりま す。律法(トーラー)という言葉は、広く啓示や教えを意味しますが、そのトー ラーという言葉が狭い意味で使われますと、これはモーセの五書、すなわち創世 記から申命記までを指します。このトーラーが正典となったのは諸説ありますが、 だいたい紀元前5世紀と考えてよいでしょう。その正典が代々伝えられていくわ けです。どのように伝えられていくかというと、もちろん印刷技術などないわけ ですから、手書きで写すのです。そのような働きをする写本家と呼ばれる人たち がおりました。そして、パウロの時代以後ですが、この写本家たちはソーフェリ ームと呼ばれるようになるのです。これは日本語にすると「数える人たち」とい うことです。何を数えるのでしょう。文字を数えるのです。例えば、創世記なら 創世記が何文字で書かれているかを数えるわけです。そして、いくつの単語で書 かれているか、また一つの単語のある形が何回使われているか、などを数えるの です。そして、丁度真ん中の字が何であるか、真ん中の単語が何であるかを定め たりするのです。何のためでしょう。正確に伝えるためです。神の啓示である律 法の書を正確に伝えることに、ある意味で命をかけた人々がいたのです。(そう いう人たちのお陰で、私たちもまた聖書を手にすることができているわけです。) 今世紀に入りまして、死海写本というものが発見されました。古いものは紀元前 3世紀にまで遡るものです。それまでは、まとまった写本としては、せいぜい紀 元9世紀ぐらいまでしか遡れなかったのです。それが一気に1000年ぐらい古 いものがでてきた。そして、明らかになったことは、この伝達が驚くほど正確で あった、ということです。
このように伝えられてきた神の言葉を、また聞くことについても彼らは熱心で した。子供たち対する教育の中心はやはりトーラーを教えることでした。「牛を 牛小屋でふとらせるように、子供たちをトーラーでふとらさなければならない」 ということが言われていました。だいたい13歳で暗記を中心とする学びを終え、 その者は成人と見なされました。
ユダヤ人たちの律法に対する意識については、私たちの想像を絶するものがあ ります。彼らにとって、神の言葉が与えられているということ、神の律法が与え られているということは、この上ない誇りだったのです。神の御心が知らされて いるということこそ、彼らの生の基盤であったのです。その誇りは誇りとして素 晴らしいことでしょう。しかし、その誇りから、異邦人を蔑視する思想が出てき たこともまた事実でした。これは、今まで申し上げてきた事ごとから考えても無 理からぬことだと思うのです。彼らと異邦人の違いは彼らにとって決定的でした。 それゆえ、異邦人たちは、神の律法を与えられておらず、神の御心を知っていな いゆえに、不法と堕落と汚れの中にいる、と彼らは考えたのです。異邦人たちは、 まったく闇の中におり、悪を行い続けて最終的には地獄の燃え種となるのだと、 彼らは考えていたわけです。
パウロ自身もユダヤ人です。律法を重んじ、聖書を大切にして生きてきたに違 いありません。しかし、その彼が、ここでは冷静に一つの事実を提示するのです。 すなわち、律法を持っているか持っていないかということは、実は決定的な意味 を持ちはしないのだ、という事実です。「律法を聞く者が神の前で正しいのでは なく、これを実行する者が、義とされるからです。」本来、律法とはそういうも のだ、というのです。なるほど、言われてみれば至極当然のことであります。
異邦人と律法
では、現に書かれた律法を持たない異邦人にとって「律法を実行する」という ことはどういうことであるのか。その問題が残ります。そこで彼は14節以下で このように語り始めるのです。
「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法 を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事 柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししてお り、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト ・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。(2・14‐16)」
律法を持たない異邦人たちを、ユダヤ人たちは腐敗と堕落の闇の中にあると考 えていたことは既に申した通りですが、実際にではすべての異邦人がそうであっ たかと言えば、決してそのようなことは言えないだろうと思います。例えばスト アの哲学者たちの中に、高い倫理性を見出すことは可能であったに違いないから です。話のついでに申し上げますと、現代の日本人は例えばエコノミックアニマ ルと呼ばれ、あるいはセックスアニマルなどと呼ばれ、世界中で様々な場面で顰 蹙を買っておりますが、かつて日本に来た宣教師たちは、その国民の倫理性の高 さに驚いたと言われております。当時の宣教師たちは、まさに聖書も知らぬ、キ リストも知らぬ、闇の中をさまよっている野蛮人に宣教するつもりで来られたの でしょうから、出会ったこの国の姿は予想外だったのだと思います。
さて、現代日本の国民の道徳観は昔とは随分異なるかも知れません。しかし、 このような状況であったとしても、たとえば私が仮に「この国民は聖書を知らな いからこんな状態なのだ」と言えば、かなりの反発を受けることを覚悟しなくて はならないだろうと思います。「聖書を知らなくたって良い人はたくさんいるで はないか」と多くの人は言うに違いないからです。そして、事実その通りだと思 います。聖書を一度も読んだことのない人で、立派な人、倫理的に高い人はたく さんいるだろうと思うのです。
パウロも、律法を持たない、聖書に触れたこともない異邦人の間に、善い行い があることを決して否定しませんでした。「聖書を知らなくたって良い人はたく さんいるではないか」とパウロに言うならば、パウロは「その通り!」と答えた ことでしょう。その点で、彼は伝統的なユダヤ人たちと見解を異にしていたよう に思われます。彼は例えばフィリピの信徒への手紙にこう記しています。「終わ りに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、す べて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値 することがあれば、それを心に留めなさい。(フィリピ4・8)」ここでパウロ が言っている「すべて真実なこと、すべて気高いこと、云々」というのは、ギリ シアの哲学者が推奨していた徳目表なのです。つまり、そのようなものがギリシ ア文化圏に存在することをパウロは認めているわけです。そして、それらを心に 留めなさい、と教会の人たちに勧めているのです。
実は、パウロにとって、そのような徳目が存在することは、不思議なことでも 何でもなかったのです。なぜなら神の律法、神の御心は、ただ書かれた書物とし てユダヤ人にのみ与えられているのではない、ということを知っていたからです。 紙に書かれたものでなく、心に書かれた律法が存在するという事実です。人は神 の被造物であるゆえに、律法の要求する事柄、すなわち神が人に求めておられる 事柄というのはすでに心に記されているのです。ユダヤ人はただ特別にそれを記 された書物として手にしているだけなのです。ですから、14節でパウロはこう 記しているのです。「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自 然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、 律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。」つまり、神 の求めることを異邦人が律法を持たずして自然に行うことがあるのは、その事実 をよく表しているではないか、とパウロは言っているのであります。
そして、パウロはさらに良心というものの存在も、この事実を証ししていると 語ります。15節をご覧下さい。「彼らの良心もこれを証ししており、また心の 思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」もちろん、 良心が常に完全な状態で人の内にあるわけではありませんし、環境や状況によっ て歪んだりすることはあるでしょう。ですから、人間の良心の判断こそ正しい判 断であるとするのは問題であろうと思います。むしろ、聖書においても、正しい 良心は神に願い求めるべきものであると語られております。(1ペトロ3・21) しかし、それにしましても、どのような形であれ、良心というものが存在する。 これは考えてみれば不思議なことであります。これは明らかに人の営みによって 生じたものではありません。この良心というものがあるゆえに、幼い子供であっ ても、子供なりにある行動について判断を下し得るわけです。そして、それは私 たちの人生を通じて働いております。いつも自分の行動についての判断がなされ 続けるわけです。時として、ある行動について、一つの思いが責める。しかし、 もう一つの思いが弁明する。丁度、法廷のようなことが、私たちの内に起こりま す。そして、法廷のようなことが起こるということこそ、まさにそこに「法」が あることを示しているのであります。ですからパウロは、「また心の思いも、互 いに責めたり、弁明し合って、同じことを示しています」と言うのです。
さて、以上のことから何が結論されるのでしょうか。ユダヤ人も異邦人も条件 は同じだ、ということであります。神の律法を聞いているユダヤ人が問われるの は、その律法に照らして神の御前に立ち得るか、ということでした。もし律法の 下にあって罪を犯したのなら神はその律法に従って裁くと言われるのであります。 同じように、律法を聞いていない異邦人にとって問われますのは、心に記されて いる律法に照らしてあなたは本当に正しい者であるのか、ということであります。 立派な人はいるでしょう。善人もいるでしょう。しかし、問題は「あなたの心に 記されている律法をもとに裁かれて本当にあなたは大丈夫だと言えるのか」とい うことなのです。もし、私たちが今まで一度も聖書の言葉や神のことを聞いたこ とがなかったとしても、この原則がそのまま当てはまります。もし書かれた神の 言葉を持たずとも、罪を犯したならば神は裁き給うということがここに明らかに されているのです。神の裁きの大原則は平等です。これは、神を信じている者だ けに関係するのではありません。神を信じぬ者にとって裁きは無関係であるので はありません。「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、 また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。」そうパ ウロが語る通りです。
そして、それは単に人の目につくことや表に現れていることによって判断が下 されるのではありません。16節は論理的には13節に続きます。「そのことは、 神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通 して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」既に1章29節以下に上げられた 不義のほとんどは、人の目からは隠れたものです。しかし、人の隠れたところに 自らの律法を記される神は、また隠れた事柄をその律法によって裁かれるのであ ります。私と神しか知らないことが裁きの対象となる。私たちが自らの人生を判 断する時に、人目にさらされたところだけを考えていてはならないのです。
パウロはこれらのことを「わたしの福音の告げるとおり」と語りました。パウ ロが神の審判に関する宣教を明らかに福音の一部と見ていたことが分かります。 つまり、神の審判を思うことなくして、神の審判の前に申し開きのできない自分 であることを認めることなくして、救いは分からないということであります。 「神は人を分け隔てなさいません。」パウロの言葉は、そのような審判者の前に 私たちを立たせます。普段人の目ばかりを気にし、人との比較でしか生きていな い私たち、隠れた事柄は隠れた事柄としか考えない私たちを、最終的な審判者の 前に立たせるのです。私たちの誇りやこだわりや、私たちのしがみついている諸 々のものを剥ぎ取られて、私たちは神の御前に立たされるのです。「神は人を分 け隔てなさいません」。この言葉の前で、自らを他者と区別している一切が無力 となり、私たち自身は無力な者として神の前に立つことになります。それこそ私 たちの知るべき自らの本当の姿です。それが救いを必要とする私たちの姿だから です。