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「心の割礼」

1998年5月3日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ2・17‐29

 2章の冒頭において、パウロは「すべて人を裁く者よ」と語り始めました。こ こでパウロが具体的にユダヤ人に向かって語り始めていたことが17節において 明らかになります。今日の箇所には、それと関連して「律法」「割礼」などが出 てきます。さて、このような一見私たちとは何の関わりもなさそうな事柄を通し て、神は私たちに何を語ろうとしておられるのでしょうか。

外側の行為と隠れた事柄

 はじめに17節から24節までをもう一度お読みしましょう。「ところで、あ なたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法に よって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識 と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無 知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。それならば、あなた は他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、 盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み 嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破 って神を侮っている。『あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されてい る』と書いてあるとおりです。(17‐24節)」

 ここで「ユダヤ人」という名は、単に民族的な名称ではありません。「神の選 民」という宗教的な意味合いが込められている名前です。神の民であると自らを 見なす彼らは、律法を頼り、神を誇りとして生きていました。特に、ここでパウ ロが思い描いているのは、パウロ自身も属していたファリサイ派のユダヤ人であ ろうと思われます。彼らは、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導 き手、未熟な者の教師であると自らを見なしていたのでした。しかし、そのよう な誇りに生きる人々に対して、パウロはあえてこう語ります。「それならば、あ なたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。」そしてパウロは具体 的に「盗み」と「姦淫」と「神殿荒らし」の悪行を取り上げるのです。

 さて、彼らは本当にこのようなことを行っていたのでしょうか。たとえ、ユダ ヤ人社会にこのようなことが全くなかったとは言い切れないにしても、皆が皆、 盗みや姦淫を行っていたわけではないでしょう。パウロは一部の人々の悪行を取 り上げて、全体を告発するようなことをしているのでしょうか。彼の言葉を私た ちはどのように理解したらよいのでしょう。

 そこで、理解の鍵となるのは、直前の言葉であろうと思います。「そのことは、 神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通 して裁かれる日に、明らかになるでしょう。(16節)」最終的に問われるのは、 ただ単に表面に現れている姿ではありません。神が裁き給うのは隠れた事柄だ、 とパウロは言っているのです。確かに表面的に見るならば、異邦人社会において ユダヤ人たちの生活における倫理的な水準の高さは際だっていたに違いありませ ん。彼らの生活を見て、その律法を重んじる生活に惹かれ、ユダヤ人の会堂に出 入りする異邦人たちも少なからずいたのです。彼らはいわばこの世において正し い人たちの代表です。しかし、ここでパウロはあえて隠れた事柄を問題にするの です。

 かつて、主イエスが、エルサレムの神殿の境内で商売をしていた両替人や鳩を 売る者たちの台をひっくり返し、売り買いしていた人々を追い出したことがあり ました。その時、主イエスはこう言われたのです。「(聖書に)こう書いてある ではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。 』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。(マルコ11・17) 」さて、神殿は本当に強盗の巣となっていたのでしょうか。いいえ、決してそん なことはありません。そこで為されていたのは合法的な商売です。人々が神殿に 来て神殿税を納めるためには、持っているお金をユダヤの通貨に変えなくてはな りませんでした。そのために両替人が必要とされたのです。また、神殿において 捧げる犠牲の動物は傷のないものでなくてはなりません。そこでわざわざ遠くか ら動物を連れてくるのではなくて、チェック済みの動物が神殿で売られていたの です。これらは人々のニーズに答えた商売でありました。一見すると悪いことは 何もしていないように見えるのです。しかし、その裏では祭司たちと商売人たち は共謀して民衆から暴利をむさぼり取っていたのでした。そして、それは単に商 売の仕方の問題ではありません。問題はその心です。人の心の内には、神に関わ る事さえ自分の欲望のために利用したいというおぞましい思いがあるのです。礼 拝に関わる事柄においてさえ、自分に利益にしか関心が持てないのです。主はそ の「隠れた事柄」を問題にされたのです。主がご覧になるならば、彼らの行いは まさに聖なるものをかすめ取る宮荒らし以外の何ものでもなかったのです。その ような者が集まっているならば、盗賊の巣ではないか、と言われるのであります。

 そう考えて見ますならば、盗みにしても姦淫にしても、決して「わたしはそん なことはしていない」と簡単に言えないことが分かります。「盗むな」という戒 めは十戒のうちの第八戒であります。ですから、もともと単に道義上の戒めでは なくて、神との関係における戒めです。なぜ盗んではならないのか。すべての所 有権は神にあり、神がその御心に従ってそれぞれのものを人に分け与えておられ るからです。ですから、他者に託されたものを侵してはならないのです。ところ が、私たちにおいて、自分が与えられているものを大切にし、きちんと管理する にではなく、人に与えられているものを欲し、それを自分のものとして平気でい るということは、案外起こってくることなのです。この世においては発覚しなけ れば罪に定められることはないでしょう。しかし、主は隠れた事柄を問題とされ るのです。私たちの心の内に始まることを問題とされるのです。

 姦淫にしても同じです。「姦淫するな」という戒めもまた、神との関係におけ る戒めです。夫婦の絆が神によって与えられたことゆえに、その絆を大切にすべ きなのです。裏切ってはならないのです。しかし、そもそも裏切りというのは行 為から始まるのではありません。その心の内から始まります。それゆえ、主は言 われたのです。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でそ の女を犯したのである。(マタイ5・28)」既にそれが姦淫だと言われるので す。しかし、これは必ずしも男だけの問題ではないでしょう。どのような形であ れ、自分に与えられている結婚の絆、他者に与えられている結婚の絆を軽んじる ような思いを他の異性に対して持つ時、既にそれは姦淫の罪であるということな のです。神は隠れた事柄を問われるからであります。

 要するに、パウロはここで、外側に現れていることと、内面において現実に起 こっていることの深刻な食い違いを問題にしているのであります。このようなこ とが律法を誇りとする倫理的なユダヤ人の内に起こっている。それをパウロはよ く知っているのです。なぜならパウロも経験してきたことだからです。主イエス もかつてこう言われました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち 偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側 は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に 正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。(マタイ23・27 ‐28)」パウロが語っているのも同じことです。「あなたは律法を誇りとしな がら、律法を破って神を侮っている。『あなたたちのせいで、神の名は異邦人の 中で汚されている』と書いてあるとおりです。」

“霊”による心の割礼

 続けて25節以下をお読みいたしましょう。「あなたが受けた割礼も、律法を 守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていな くても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けてい なくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、 割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。外見上のユダヤ人がユダ ヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面が ユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施され た割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。(2 5‐29節)」

 外側に現れていることではなく、隠れた事柄こそ問題である。そこで、パウロ はさらにユダヤ人としてのしるし、神との契約のしるしである「割礼」について 話を進めます。この割礼は何らかの意味を持つのか、ということが当然問題にな るからです。結論は28節に書かれています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人で はなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。」

 さて、ここで困ったことが起こります。男性性器の包皮の一部を取り除く「割 礼」という儀式そのものが私たちには馴染みがない、ということです。ユダヤ人 であるかユダヤ人でないか、という議論そのものも、私たちに直接関わることの ようには思えません。そうしますと、ここでパウロが一生懸命語っていることを、 私たちとの関連で理解することが困難に思えてまいります。

 そこで、人は何とか話を一般化しようといたします。多くの人はこう考えるわ けです。「宗教においては外面的な儀礼や儀式が大事なのではなくてその精神が 大事なのだ。その精神を欠いたら、外面的なしるしや名称などいくら持っていた って何にもならない。それが純粋な宗教というものだ。パウロは要するにそうい うことを言いたいのだ。」そして、さらに私たちに身近なこととして、これを現 代のキリスト者に当てはめたりいたします。つまり、単純に「割礼」を「洗礼」 に、「ユダヤ人」を「キリスト者」に言い換えるのです。「あなたがたが受けた 洗礼も、キリスト教的に生きればこそ意味があり、そうでなければ洗礼を受けて いないのと同じです。だから、洗礼を受けていない者が、キリスト教的な精神で 生きていたら、洗礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないです か。…外見上のキリスト者がキリスト者ではなく、また、肉に施された外見上の 洗礼が洗礼ではありません。」そう言い換えて、この箇所が分かったような気に なるわけです。そこで真面目なキリスト者は考えます。「あの人は、洗礼を受け てはいないけれど、わたしよりもずっとキリスト教的だ。中身はあちらの方がキ リスト者であり、わたしはキリスト者とは言えない。」さて、そのように自分自 身を反省することは必ずしも悪いことではありませんが、それでこの箇所を正し く理解したことになるのでしょうか。

 結論から言いますと、二つの理由によって、これを単純にキリスト者と洗礼の ことに言い換えることはできません。第一に、パウロは改めて洗礼については6 章で語り始めます。そして、パウロ自身は、洗礼を受けているか受けていないか は本質的な意味を持たない、とは言わないのです。パウロ自身は、割礼と洗礼を 本質的にまったく異なるものと見ています。ですから、私たちがこれを混同して、 勝手な言い換えをすることはできません。

 第二に、これはもっと大事なことなのですが、パウロが「割礼を受けていない 者が、律法の要求を実行すれば…」と言う時、それは大変重い意味を持っている のです。それは既にお話ししてきたことから明らかでしょう。そこでは単に外面 的な遵守が問題になるのではなくて、隠れた事柄が問題となるのです。そうしま すと、本当はどうしても「律法の要求を完全に実行するなどということがそもそ も可能なのか」というところに行き着かざるを得ない事柄なのです。「律法の要 求を実行する」ということは、突き詰めて考えるならば、決して当たり前のこと ではないのです。「キリスト教的に生きる」などと言い換えて平気な顔をしてい られないことなのです。

 「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が 割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり…」とパウロ は言います。内面がユダヤ人であること、すなわち内面が神の民であること、そ れは決して簡単なことではありません。実は、そのこと自体、神の奇跡なのです。 内面が神の民となり得るとしたら、それこそユダヤ人にとっても異邦人にとって も神による奇跡なのです。ですから、パウロは続けてこう言うのです。「内面が ユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施され た割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」内 面が問題となるならば、内面から変えられなくてはなりません。それは文字、す なわち律法の為しえることではありません。それは神の霊だけが為しえることな のです。聖霊によって心に割礼が施されなくてはなりません。「心の割礼」とい う言葉は、既に旧約聖書に出てくる言葉です。例えば、申命記に次のような言葉 があります。「あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を 尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにし てくださる。(申命記30・6)」つまり、心の割礼とは、人が心を尽くし、魂 を尽くして神を愛するようになることなのです。ただ表面的な律法の遵守、形だ けの敬虔な行いなどとは違うのです。神を愛し、神の命によって真に生きる者と なる。それが心の割礼であります。そして、それは人間の為しえることではない のです。申命記もはっきりとそれは神の業であり、救いの働きによることが語ら れているのです。神を愛する者となるには、頑なな心の包皮が取り除かれなくて はなりません。それは聖霊の御業によるしかないのです。

 パウロは単に外面的な儀式やしるしは意味がないと言おうとしているのではな いのです。パウロが語ろうとしているのは、あくまでも救いの事柄なのです。ユ ダヤ人であろうが異邦人であろうが、いかにしても手のほどこしようのない内面 の最も深いところに、イエス・キリストによる救いの御業が必要とされているこ とを、パウロはここで明らかにしているのであります。

 
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