「救いにあずかるのは誰か」                          マルコ7・24‐30  今日私たちに与えられている聖書箇所には、一人の母親とキリストとの出会い が記されております。その人の名前は残されていません。ただギリシア人であり、 シリア・フェニキアの生まれであったとだけ記されています。しかし、この名も 知れぬ一人の母親と主イエスとの出会いが福音書に書き記され、代々に語り伝え られてまいりました。マルコはこの女性を、主イエスを信じた最初の異邦人とし てその福音書の中に取り上げております。神の民を自負するユダヤ人たちがキリ ストを斥ける一方で、異邦人であるこの母親と娘が神の恵みにあずかるのです。 さて、この母親はいったいどのような人であったのでしょうか。また、その姿を 通して、聖書は私たちに何を語っているのでしょうか。 自らの無力を自覚した人  初めに24節から26節までをもう一度お読みいたします。「イエスはそこを 立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくな いと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼 い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出 してくださいと頼んだ。(24‐26節)」  一人の女が主イエスのもとに来て、その足もとにひれ伏しました。これはひれ 伏した相手が主イエスですので、一見何ら不思議なことではないように見えます。 しかし、これは当然起こるべくして起こったというようなことではありませんで した。なぜなら、この女はギリシア人であり、シリア・フェニキアの生まれであ ったからです。異邦人とユダヤ人の間にあった厚い壁を考えますときに、相手が 誰であれ、ユダヤ人の前に異邦人がひれ伏すということは特別なことであると考 えなくてはなりません。この異邦人の女が主イエスの前にひれ伏すに至った長い 過程がその背後にあったことを理解しなくてはならないのです。  この人には幼い娘がおりました。「汚れた霊に取りつかれた幼い娘」と書かれ ております。それがいかなる状態を指すのか明確ではありません。肉体的あるい は精神的な病であったのかもしれませんし、憑依現象が具体的に現れていたのか もしれません。あるいはその幼い娘がその行動に様々な問題があったということ かも知れません。いずれにしましても、この娘は自分ではどうすることもできな い状態にあったということです。自分の力ではどうすることもできない、大きな 悪しき力の支配のもとにあったということであります。  母親はその娘を助けようといたします。当然のことでしょう。子供が自分で解 決できないことであるならば、親がいかなる犠牲を払ってでも解決してあげたい と思うものです。何とか解放してあげたいと思う。出来ることならば代わってや りたいとさえ思います。しかし、代わることはできません。ですから、ありとあ らゆることを試みるのです。この母親も、苦しむ我が子を前にして手をこまねい ていたわけではないでしょう。娘を助けるために東奔西走してきた日々があった に違いありません。主イエスの居所をいち早く突き止め、誰よりも早くそのもと に訪れたことからも、この人がどのような日々を過ごしてきたかが分かります。 しかし、いかなる努力も、この娘を解放することにはなりませんでした。そうで す、どんなに我が子を愛していたとしても、どんなに頑張ったとしても、どうに もならないことがあるのです。  夜中に幼子が目を覚まして泣き出したら、母親はすぐにその子を抱き上げて言 うでしょう。「お母さんがいるから大丈夫よ。」親は何回そのような言葉を口に することでしょうか。しかし、よくよく考えますならば、これほど偽りな言葉は ありません。お母さんがいたら大丈夫なのでしょうか。お父さんがいたら大丈夫 なのでしょうか。そんなことはないでしょう。「これは私の子だ。私がお腹を痛 めて産んだ子だ。」そう言ったところで、その子は親の手の内にはありません。 小さな危険や、小さな苦しみからさえも、親は子を守ることができない。最終的 にはその子を守ることも助けることもできないのです。  無力。そう、親は無力なものです。娘の問題を通してその無力さを思い知らさ れたのがこの母親でありました。しかし、そのことは決して無益なことではあり ませんでした。この人は自らの無力を知ったからこそ、主イエスの足もとにひれ 伏したのです。ギリシア人である彼女がユダヤ人の足もとにひれ伏したのです。 その人にとって、もはやいかなる隔ての壁も意味を持ちません。見栄もプライド も意味を持ちません。主イエスの前にいたのは、そのような人でありました。神 の恵みにあずかるに至ったのは、律法を守っていることを誇り、清さを誇ってい るユダヤ人たちではなかったのです。そうではなくて、自分の弱さを知ったこの 異邦人でありました。「困ったときの神頼み」という言葉があります。あまり良 い意味で使われないことも多いようです。しかし、考えて見れば、困らないと人 はなかなか神に向かないということも事実です。人は自分の無力さと向き合わな ければ、見栄やプライドや様々なこだわりを捨てて、主のもとにひれ伏すことは できないものです。いかなることであれ、人が自らの弱さを思い知らされる出来 事というものは、人生において必要なことであり、人が主のもとに導かれるため の大切なプロセスでもあるのです。 パン屑を求める人  次に、27節から30節までをお読みいたしましょう。「イエスは言われた。 『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、 小犬にやってはいけない。』ところが、女は答えて言った。『主よ、しかし、食 卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。』そこで、イエスは言われた。 『それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出 てしまった。』女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出て しまっていた。(27‐30節)」  主イエスの足もとにひれ伏した母親の願いに対して、主は意外なことに大変冷 たい言葉をもって答えられます。母親の願いを斥けられるのです。ここで「子供 たち」というのは、明らかにユダヤ人のことです。「小犬」とは異邦人のことで す。ユダヤ人たちは、異邦人を汚れたものと見なし、軽蔑を込めて「犬ども」と 呼んでおりました。主イエスの言葉も、一般的なユダヤ人の言葉と変わらないよ うに思えます。神の恵みはまず「子供」であるユダヤ人に向けられているのであ って、それを「犬」である異邦人に与えるのはよくないのだ、と言っているわけ です。さて、主はなぜこのようなことを言われたのでしょうか。主はユダヤ人は ユダヤ人であるゆえに清く、異邦人は異邦人であるゆえに汚れた存在であり、神 の恵みに値しないと考えていたのでしょうか。  このことを理解するために、私たちはまずこの物語の置かれている文脈を視野 に入れておきたいと思います。この章の前半には、ユダヤ人たちと主イエスとの 論争が記されております。汚れと清めについての論争です。事の発端は、主の弟 子たちが手を洗い清めることをしないで、食事をしていたことでした。ファリサ イ派の人々が見て、これを咎めたのです。ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人 たちは、例えば市場から帰った後などは、身を清めてでなければ食事をしないの が常でありました。(4節)それこそ、汚れた人々に触れて汚れを受けたかも知 れないということで、念入りに身を清めたわけです。また、食物についても、汚 れたものと清いものが分けられており、汚れたものは一切口にしないのです。汚 れを受けることになってしまうからです。しかし、主はそのようなユダヤ人たち を前にして、群集を呼び集めて次のように言われたのでした。「皆、わたしの言 うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるも のは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。(14‐15節) 」これについては、さらに弟子たちに次のように説明しています。「人から出て 来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るか らである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、 悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。 (20‐23節)」つまり、汚れとは、ユダヤ人であるか否か、身を清めたか否 か、汚れたものを口にしたか否か、ということよりも、もっと人間の本質的なこ とであるということが語られているのです。単に異邦人ではないから、身を清め たから、私は汚れていない、と言えないのです。いや、汚れていないだけではな くて、むしろ人を汚す存在でさえあり得るということです。  そう言われて、主はゲネサレの地方から、異邦の地であるティルスに行かれた のでした。そこでこの母親に出会ったのです。であるならば、ここでの主の答え が、単に「ユダヤ人は清く、異邦人は汚れた犬であるから、神の恵みに値しない 」ということでないことは明らかです。では、なぜ主はこのようなことを語られ たのでしょうか。このことを理解するために、私たちはさらに母親の言葉に注意 を払いたいと思います。母親はいったい何を主の言葉から聞き取ったか、そして、 どのようにその言葉を受け止めたのか、ということに注目したいと思うのです。  母親はこう答えました。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑は いただきます。」この答えから、少なくともこの人は二つのことを受け入れてい ることが分かります。その第一は、神が中心なのであって人間ではない、という ことです。「まず、子供たちに」というのは、神様には神様の御計画があるとい うことであります。神様には神様のなさり方があるのであって、神の御心による 順序がある、ということであります。主は、その計画と順序に従おうとしている のであって、この母親もまた、それを認めなくてはならなかったのであります。  私たちは、なかなかそのことが受け入れられないものです。私たちが公平と認 め得る仕方で神は行動すべきであると、心のどこかで考えているものです。神の 計画ではなくて、私たちの計画通りに、神の順序ではなくて、私たちの順序に従 って、神は動くべきであると考えているのです。しかし、主はまず、そのような 人間中心の考えを捨てることを求められるのです。このフェニキアの生まれであ った女性の周りには、人間中心の宗教はいくらでもあったでしょう。彼女が選び 得る神々はいくらでもあったに違いありません。しかし、主のもとにひれ伏した 彼女に対して、神との関係においては彼女が中心ではなく、彼女の求めが中心で もないことを、主は明らかにされるのであります。そして、その言葉を受け入れ、 この人は神の前に謙ったのであります。  そして、第二に彼女が受け入れたことは、彼女は神に何かを求める資格などな いのだ、という事実です。この人はパン屑を求めたのでした。パン屑を求めたと いうことは、パンそのものを求めることは出来ないと、彼女が認めたことを意味 するのです。  確かに、助けを必要としているのは悪霊に支配されている娘の方でありました。 問題は娘の方にあるのであって、母の方にあったのではありません。母は何とか 娘を助けようとして主のもとに来たのです。それは主イエスを通して、神の助け を求めたということでしょう。しかし、主のもとにひれ伏したこの母親は自らは 何も問題がないかのように助けを求めることは許されなかったのであります。主 イエスの冷たい拒絶の言葉を通して、他ならぬ彼女自身、神の前に立ち得ない者 であることを認めなくてはならなかったのであります。何もいただけなかったと しても、本来仕方のないものであることを認めなくてはならなかったのです。な ぜなら、彼女自身汚れた者であるからです。それは先にも申しました通り、単に 彼女が異邦人であるからではありません。汚れの本質は主が語られましたとおり、 ユダヤ人であるか否か、身を清めたか否かにあるのではなく、その人の内にある もの、そして内から出るものに関わるからであります。しかし、その内にあるも のが問題とされるならば、いったい誰が神の前に立ち得るでしょうか。誰が汚れ ていない者として神に近づき、神の助けを求めることができるでしょうか。この 人は、異邦人だから汚れているというのではないのですけれど、やはり当然のご とくに神に近づくことはできないのです。ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、 それは同じなのです。  彼女は、主の御言葉の前に謙りました。そして、せめてパン屑にでもあずから せていただけるよう、憐れみを求め続けました。神の恵みにあずかったのは、こ のような人でした。それは、神の救いを受けることを当然のこととして考えてい たユダヤ人たちが、キリストの前に謙ることなく、主を斥けてしまった姿と明ら かなコントラストとなっております。さて、私たちはいかなる者として主に近づ こうとしているのでしょうか。  かくして、幼い娘は解放されました。この母の祈りは聞き入れられました。こ の結果、娘が具体的にどうなったのかは明らかではありません。しかし、いずれ にせよ、この悪霊追放の奇跡は神の国のしるしです。イエス・キリストをとおし て、神が私たちを罪と死から救い給うことを指し示しているしるしです。キリス トは私たちの救いのために自らを命のパンとして与えてくださいました。この物 語は、命のパンにあずかるのは誰であるか、救いにあずかるのは誰であるかとい うことを示している物語として読むことができるでしょう。救いにあずかるのは、 自らを清い者、強い者とみなし、救われることを当然のこととして考える者では ありません。そうではなく、無力な者としてキリストに近づき、神の前に立ち得 ない自分であることを認めて神の憐れみを求める者が、命のパンにあずかり、主 の御救いにあずかるのであります。