「裁く側に立とうとする人間の姿」
1998年5月17日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ3・1‐8
3章は一つの問いから始まります。これは明らかにユダヤ人の立場からの問い であります。しかし、実際にユダヤ人の一人がパウロに問いかけたわけではあり ません。これはパウロが設定した仮想の論争相手による問いかけなのです。つま り、パウロは今までの話を聞いた者から出るであろう質問を先取りして設定して、 それに答える形で論を進めているのです。
パウロは2章において、特にユダヤ人の罪を問題にしてまいりました。確かに ユダヤ人たちの生活はその倫理的な高さにおいて際だっていたかも知れないし、 そこには律法を重んじる生活があるように見えるかも知れません。しかし、神が 問題にされるのは、ただ表面に現れている事柄だけではないのです。人間は、表 面に現れてくる事柄においては「正しい人」であり得るでしょう。しかし、神は、 「隠れた事柄を裁き給う神(2・16)」なのです。そのお方の前においては、 いかに律法遵守において厳格であったファリサイ派のユダヤ人でさえ、律法を守 っているとは言えないのです。むしろ、「律法を誇りとしながら、律法を破って 神を侮っている(2・23)」とさえ言えるのです。このように、パウロは、神 の裁きの前においては、ユダヤ人も異邦人もないことを、これまでのところで明 らかにしてきたのでした。その結論は、後に3章9節において次のように表現さ れることになります。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるので しょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、 罪の下にあるのです。(3・9)」
しかし、その結論を語る前に、これまでの論述から生じるであろういくつかの 質問を想定して答えを与えているのです。それが、今日読みました箇所でありま す。私たちはこれから、パウロの論述の筋道をしっかりと追いながら読み進んで いきたいと思います。そして、ここに明らかにされている私たちの問題性をしっ かりと受け止めたいと思うのであります。
神は真実であるのか
それではまず、3章1節から4節までをお読みします。
「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面か らいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。それは いったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実 のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人 はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
『あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
裁きを受けるとき、勝利を得られる』
と書いてあるとおりです。(1‐4節)」
ここでまず問題になっているのは、「ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益 は何か」ということであります。これは、ユダヤ人がどういう点で優秀であるか、 という問いではありません。ユダヤ人が存在することの意味を問うているのです。 遠い昔のアブラハムの選びから始まり、王国の時代を経て、捕囚に至り、そして 捕囚から回復され、なお今日に至るまでユダヤの民が存在する。そして、彼らは 割礼という見えるしるしによって他の諸民族と区別されているわけです。神によ って選ばれ、形成されて、導かれてきたこのユダヤ人の歴史は意味があるのか、 と問うているのです。というのも、もし神の裁きの前において、ユダヤ人もギリ シア人も区別されないのであるならば、長い歴史を経てなおユダヤ人が存在する 意味が分からなくなるからであります。
その問いに対して、まずパウロは肯定的に答えます。「優れた点はある」と答 えるのです。彼らの存在の意義は、「あらゆる面から指摘できます」と答えつつ、 パウロはその一つだけを取り上げます。それは何でしょうか。「まず、彼らは神 の言葉をゆだねられたのです」と彼は言います。彼らは、神の裁きの言葉、そし て救いの約束の言葉をゆだねられた者たちなのです。そのような者として、彼ら は律法の書、預言者の書、詩編やその他の聖なる書物を担い、代々に伝えてきた のでした。その熱心さについては、既に申し上げたとおりです。彼らは、そのよ うにして、神の言葉を託された者としてこれを伝えてきたのであります。そこに まずユダヤ人の長い歴史の意義があると言えるでしょう。
しかし、ここで一つの疑問が生じます。「もし、ユダヤ人が異邦人と何ら変わ らない罪人であり、不真実な者たちであるとするならば、その彼らに託され担わ れてきた神の言葉は本当に信頼に値するのか。また、彼らに神の言葉を託したと いう神自身、本当に信頼に値するのか。そんな神を信じることができるだろうか 」という疑問であります。3節のパウロの言葉は、そのような問いかけを前提と しています。確かに、一般的に言いまして、担っている人々がどのような者であ るかによって、担われている物が計られる、ということがあります。不真実な者 たちが持っている物は信頼に値しないと考えられても仕方ない、ということは確 かに言えるでしょう。
例えば身近にこんなことがあり得るでしょう。教会に行ったことのない人が初 めて教会の戸を叩く。教会をまったく知らない人が、「これは神様を信じている 人たちの集まりだから、きっと天使のような清い人たちの集まりだろう」と考え て来たとします。ところが、教会に通い始めてしばらくすると、教会の中にも罪 ある人間の現実を見るようになる。人間の不義と不真実がそこにもある。天使は あまりたくさんいない、ということに気づくわけです。そう考えて改めて教会の 歴史を調べてみると、世界史的に見ても教会は随分酷いことをしてきているわけ です。そうすると、やはり「こんなキリスト教会が宣べ伝えてきた神の言葉など 信頼に値しない。こんなキリスト教会が信じて礼拝してきた神など信頼に値しな い」と考えられてしまうことはあり得ます。「その不誠実のせいで、神の誠実が 無にされる」というのは、そういうことであります。
さて、人間の不真実によって、神の誠実は無にされるのでしょうか。これに対 して、パウロは「否」を唱えます。「決して、そうではない。人はすべて偽り者 であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」つまり、人間を見て神を 判断するのは間違いである、ということであります。なぜなら、神は人から判断 されたり、裁かれたりすべきお方ではないからです。神の真実は問われるべきこ とではなくて、大前提であるべき事柄なのです。なぜなら、真実でない方は、も はや神の名には値しないし、真実でない神など、言葉の矛盾でしかないからです。 ですから、人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきだ、 とパウロは言うのであります。
これは、パウロが単に思いつきで言った言葉ではありません。既に旧約聖書の 詩編の中において語られている内容です。パウロはここで詩編51編6節を引用 します。パウロが記しているのはギリシア語訳からの引用ですので、私たちの持 っている旧約聖書の詩編とは若干言葉が異なりますが、内容的には同じです。 「(あなたは)裁きを受けるとき、勝利を得られる」という言葉は少し分かりに くいですが、これは要するに「法廷において勝利されるのは神だ」ということで す。つまり最終的に正しいのは神だ、ということであります。
旧約聖書の詩編51編6節の全体はこうなっています。「あなたに、あなたの みにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われ ることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。」ここではダビデの罪との コントラストにおいて、神の正しさ、誤りなき神の裁きが語られております。も とのギリシア語訳では、この点がもっと際だっています。パウロはそのようなこ とを念頭において、この詩編を引用しているのです。つまり、人間の罪の現実に よって神の真実に疑問が投げかけられるどころか、むしろ人間の不義のあるとこ ろますます神の真実と神の義が明らかにせられるのだ、ということであります。 神のみが信頼に値すべき方であり、唯一正しく真実な方であることが明らかにさ れるのです。それは闇が深く濃ければ濃いほど、そこに差し込んだ光の輝きが鮮 明になるのと同じです。
人を裁く神は正しいのか
しかし、ここまで聞きまして、人によっては次のような疑問を抱かれたかも知 れません。「それならば、人間の不義が現れることは悪いことではないのではな いか。それによって神の真実が明らかにされると言うのならば。」そのような問 いが生じるのは当然です。パウロもそのことが分かっているのです。そこで5節 以下において、次のように話を続けるのです。
「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して 何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正し くないのですか。決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世を お裁きになることができましょう。またもし、わたしの偽りによって神の真実が いっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪 人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、『善が生 じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主 張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然で す。(5‐8節)」
パウロは「人間の論法に従って言いますが」と前置きしてこう言います。「怒 りを発する神は正しくないのですか。」先ほど、神の真実に対する問いかけが出 されたように、ここで神の正しさに対する問いかけがなされます。神が人の罪を 裁くということは、そもそも正しいことなのか、という問いかけであります。そ の根拠は先に申し上げたことです。人の不義が神の義を明らかにするということ です。人の不義さえ、神は御自身の栄光のために用い給うのです。そこで「人間 の不義は神にとって良いものとなっているのに、なぜなおも神は怒るのか。おか しいではないか。怒る神の方が正しくない」という主張が生まれてくる。これが 「人間の論法」です。
これは、もう少し個人的な言葉使いで7節で繰り返されております。ここでは 「わたしたち」ではなくて「わたし」になっています。つまり、一般論ではなく て、人が心の中で密かに思うことであります。「わたしの偽りによって神の真実 がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも 罪人として裁かれねばならないのでしょう。」そして、そのような密かな思いは、 次のような結論に至るわけです。「善が生じるために悪をしよう。」つまり、 「神の真実と正しさが現れ、神の栄光が豊かに現れるために、私たちは悪をしよ う」ということです。神の光が際だつようになるために、私は周りを暗くする方 に参与しよう、というわけです。
さて、ここまでの話は、パウロの語ってきたこと、すなわち「ユダヤ人も異邦 人も変わることなく罪人である」というところから出てきたことを思い起こして ください。つまり、人間の取りようによっては、パウロの語るメッセージから 「悪をしようではないか」という結論を引き出すことができるのです。そして、 事実、そのような結論を引き出して、「これはパウロの主張である」と言ってい た人がいたようなのです。そのように言ってパウロを中傷する人がいたようなの であります。
しかし、パウロはそのような取り違えに対して、断固たる「否」を語ります。 そもそも「神は正しくないのではないか」などという話が出て来るところから間 違っているのです。そのような主張は分を弁えない人間の傲慢に他なりません。 人間をすべて偽り者としても神を正しいとすべきだ、と先にパウロが語った言葉 を思い起こさなくてはなりません。最終的に世を裁くのは神であります。人間は 裁かれる側にあるのです。それが神が神であり、人間が人間であるということで す。
さて、このようにパウロが反対者を想定して立てましたいくつかの問いを見て きましたが、ここに私たち人間の現実が浮き彫りにされているように思えてなり ません。まず第一に、ここに明らかにされているのは、あくまでも裁く側に身を 置こうとする人間の姿であります。神の前に出ても、裁かれる側の者として自ら を見ないで、神をさえ人は裁こうとするのであります。神は不真実であると言い、 神は不義であると言う。そうやって、神の真実と義を認めさえしなければ裁きは 自分と無関係であると考える。そのような傲慢さと浅はかさが、確かに私たちの 内にあることを認めざるを得ないでしょう。
そして、第二に明らかにされているのは、何としても自分の不義を正当化しよ うとする人間の姿であります。「わたしの偽りによって神の真実がいっそう明ら かにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁か れねばならないのでしょう。」このように、一人の人の密かな心の内には、確か に自分に罪があることを認める思いがあるのです。偽りがあることを、他の誰も が知らなくても、神と自分だけは知っているのです。しかし、そんな自分を裁か れるべき罪人であるとは認めたくない。あくまでも自分を正しい者としたいので す。ですから、色々と理由をつける。屁理屈をこねる。そして、それを人にでは なくて、自分に言い聞かせて、自分を納得させようとするのです。そのためには、 神様さえ悪者にするのです。さらには、人は最終的に「善が生じるために悪をし よう」とさえ言うのであります。
パウロは明言します。「こう言う者たちが罰を受けるのは当然です。」罰を受 けるのが当然であると言われているのは、単に人が罪を犯すからではありません。 今日お読みしました聖書箇所に明らかにされているように、神と人との関係が根 本的に正しくないからであります。