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「罪の下にある人間」

1998年5月24日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ3・9‐22

 1章18節以下でパウロは人間の罪について語り始め、特に2章からは神の 民を自認するユダヤ人の罪について論じてきました。私たちはこれらのパウロ の言葉を七回の聖日に渡って読み進んできたわけです。本日与えられている聖 書箇所には、これまでの論述の結論が記されております。9節をご覧ください。

 「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くあ りません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるの です。(9節)」

 神を認めようとしない人々も、また神の律法に従って生活しているように見 える人々も、等しく罪の下にある。不道徳な人々も、道徳的な人々も、等しく 罪の下にある。心の欲望によって不潔なことをなし、恥ずべき情欲に従って生 きている人々も、「盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、 未熟な者の教師」であることを自負している人々も、等しく罪の下にあるので す。人々の隠れた事柄を裁き給う神の前において、人間は平等です。ユダヤ人 も異邦人もありません。皆、罪の下にあるのです。それがパウロのこれまでに 論じてきたことでありました。正しい者はいない。一人もいない。

 ところで、今何気なく繰り返しましたが、この「罪の下にある」という言い 方は、妙な表現であると思いませんでしょうか。私たちは通常こういう言い方 はしないでしょう。「皆、罪を犯すものだ」とは言いましても、「皆、罪の下 にある」などとは言わないものです。「罪」とは人間の犯す諸々の悪い行為の ことであると考えているからです。しかし、ここでパウロは「罪」をあたかも 奴隷の主人であるかのように書き表しております。皆、その支配下にあると言 っているのです。皆、罪という主人のもとにある奴隷だ、と言っているのであ ります。

 もしかしたら、この表現に抵抗を覚える方もいるかも知れません。「私は自 由な者だ。誰の奴隷でもない。私は思いのままに生きている。」そう言われる 方もあるでしょう。かつて、主イエスに対して、同じことを言ったユダヤ人た ちがいました。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷に なったことはありません。」しかし、その言葉に対して、主はこう答えられた のです。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。(ヨ ハネ8・34)」ここに大切なことが言い表されております。人は悪いことを するから罪人なのではないのです。罪を犯して初めて罪人となるのではないの です。そうではなくて、罪の奴隷であるから罪を犯すのです。罪という主人の 下にあって支配されているから、たとえどれほど外側を繕うことができたとし ても、外側と内側には深刻なギャップがあり、悪しきものが内側から溢れ出て くるのであります。

 パウロはこれまでその罪の下にある人間の現実を詳細に論じてきましたが、 最終的にこれが聖書の語るところであることを明らかにいたします。10節以 下をご覧ください。

 「次のように書いてあるとおりです。
  『正しい者はいない。一人もいない。
  悟る者もなく、
  神を探し求める者もいない。
  皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
  善を行う者はいない。
  ただの一人もいない。
  彼らののどは開いた墓のようであり、
  彼らは舌で人を欺き、
  その唇には蝮の毒がある。
  口は、呪いと苦味で満ち、
  足は血を流すのに速く、
  その道には破壊と悲惨がある。
  彼らは平和の道を知らない。
  彼らの目には神への畏れがない。』(10‐18節)」

 これらの言葉はそのまま旧約聖書に記されているわけではありません。パウ ロは当時のラビがしたように、聖書の様々な箇所から引用して語ります。ここ では主に詩編とイザヤ書が引用されております。これらの言葉は三つに分ける ことができるでしょう。

 最初の部分は10節から12節です。これは主に詩編14編からの引用です。 ただ一行目の「正しい者はいない、一人もいない」という言葉は、この詩編か らではなく、恐らくコヘレトの言葉7章20節から来ています。パウロは、こ の一連の言葉の表題的な意味合いをもって、この言葉を冒頭に置いたのでしょ う。ここに言い表されているのは、神を求めようとしない人間の姿です。もと の詩編14編にはこう書かれています。

 「主は天から人の子らを見渡し、探される、目覚めた人、神を求める人はい ないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者は いない。ひとりもいない。(詩編14・2‐3)」

 神は人を求められます。しかし、人は神を求めません。「そんなことはない。 神を求めている人は多いではないか」と言われるでしょうか。しかし、人は神 に「何か」を求めはしますが、神が人を求めるように、人が神を求めることは しないものです。まさしく神との関係において「正しい者はいない。一人もい ない」のです。

 次は13節から14節です。ここには詩編5編10節、140編4節、10 編7節などからの引用があります。ここで問題とされているのは人間の言葉で す。悪いものが溢れてくるのは、まず第一にその口からであります。神を誉め 讃えるために作られた人間の口は、今や汚れたものに満ちた開いた墓となり、 その唇は蝮の毒に満ちたものとなりました。聖書はいかに多くの箇所において、 人間の言葉に宿る悪を語っていることでしょうか。そして、いったい誰がその ことを否定することができるでしょうか。まさしくその言葉において「正しい 者はいない。一人もいない」のです。

 第三は15節から18節です。主にイザヤ書59章7節以下が引用されてい ます。その前から読みますと、パウロの引用の意図がもっと明らかになります。 そこにはこう書かれています。

 「彼らは蝮の卵をかえし、くもの糸を織る。その卵を食べる者は死に、卵を つぶせば、毒蛇が飛び出す。くもの糸は着物にならず、その織物で身を覆うこ とはできない。彼らの織物は災いの織物、その手には不法の業がある。彼らの 足は悪に走り、罪のない者の血を流そうと急ぐ。彼らの計画は災いの計画。破 壊と崩壊がその道にある。彼らは平和の道を知らず、その歩む道には裁きがな い。彼らは自分の道を曲げ、その道を歩む者はだれも平和を知らない。(イザ ヤ59・5‐8)」

 つまり、ここに語られているのは、悪意をもって事を為す人間の行為が語ら れているのであります。人を生かすのではなく、むしろ殺してしまう私たちの 悪意に満ちた行為が語られているのです。平和への道を知らない私たちの行為 であります。「平和を実現する人々(平和を作り出す人々)は幸いである(マ タイ5・9)」と主は言われました。しかし、私たちは平和を愛したり、平和 を求めたりしますが、平和を作り出す者ではないのが現実です。むしろ、平和 を壊すものでしかない。それは私たちの内に悪意があるからであり、悪意があ るのは罪に支配されているからです。いったい誰が「私は例外である」と言え るでしょう。まことにその行為において「正しい者はいない。一人もいない」 のです。

すべての口が封じられて

 次に19節から20節までをお読みいたします。「さて、わたしたちが知っ ているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられて います。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するよ うになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人 神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないので す。(19‐20節)」

 ここでパウロが「律法」と呼んでいるのは、モーセの五書(創世記から申命 記まで)のことではなくて、聖書全体(つまり私たちが旧約聖書と呼ぶもの) を指していると見てよいでしょう。既に見てきました10節以下はその聖書か らの引用であったわけです。そこでパウロは、この聖書の言うところは、まず 何よりも「律法の下にいる人々」、すなわちユダヤ人に対して語られているの だ、ということを確認しているのです。つまり、ユダヤ人はこれらの罪を他人 事のように考えることはできないと言うことです。罪人として裁かれるのはユ ダヤ人以外の異邦人であるかのように考えてはならない、ということなのです。 なぜなら、これらの言葉はまず彼らに向けられているからです。

 考えてみますならば、パウロが引用したわずかな部分だけでなく、旧約聖書 はイスラエルの民の罪をあからさまに語っております。神の言葉は、その担い 手であったユダヤ人とその先祖について、決して罪のない潔白な存在として語 ってはいないのです。むしろ、罪に定めているのであります。この事実を、ま ずパウロはユダヤ人たちに認めさせているのです。

 しかし、聖書に書かれている事柄は、ただユダヤ人に関わるだけではありま せん。聖書がユダヤ人の罪を隠すことなく語っているのは、ついには「すべて の人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるため」であると パウロは言うのであります。つまり、これは私たちユダヤ人以外の者にも関わ るのであります。この国に住むすべての人にも関わるのであります。聖書がユ ダヤ人について明らかにしている事柄によって、実は私たちすべての者の口が ふさがれるのです。

 私たちの口がふさがれなくてはならないのは、私たちが様々な言い訳をした り、言い逃れをしたりするからです。私たちは人と比較してまだ自分はましで あると考えたり、自分の行為を正当化したり、人は努力さえすれば神にも認め られ得る良い人間になれるかのように言ったりするのです。「あなたは罪の下 にある」という神の断罪の言葉を認めようとはしないのです。そこで、聖書は 神の律法を与えられた人々の罪を明らかにします。彼らが、神の言葉を与えら れたにも関わらず、それを守ることによっては神の前に立ち得なかった現実を 暴露します。そのように彼らが罪に支配された者であって、その行いによって は神との正しい関係に生き得なかったことを示すのです。そして、聖書は私た ちに対してもまた「あなたも同じだ」と語るのです。このようにして、私たち の口がふさがれ、世界は神によって罪に定められるのです。

 「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされな いからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」パウロが最終 的に語りたかったのは、このことでありました。義とされること、救われるこ との根拠は、私たちの側にはない、ということです。私たちがどんなに努力を したところで、私たちの側から神との正しい関係を作り出すことはできないの です。私たちが、自らの行いによって神の要求を満たし、そのことによって義 とされることはできないのです。律法によっては罪の自覚しか生じないからで す。律法は義をもたらすのではなくして、どれほど自分が義から遠いかという ことを明らかにするだけなのです。律法によっては、私たちに相応しいのは救 いではなく、裁きと滅びでしかないことが明らかにされるだけなのであります。 なぜなら、私たちは皆、罪の下にあるからです。

 しかし、これがパウロの最後の言葉ではありません。パウロは言うのです。

 「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証され て、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、 信じる者すべてに与えられる神の義です。(21‐22節)」  私たちが寄り頼むことができる「私たちの正しさ」という数々の小さなロウ ソクの火は、神の言葉によってすべて吹き消されてしまいました。私たちは真 っ暗闇の中にいる自らを、神の言葉の前に認めざるを得ません。救いの望みの 全くない罪人である私たち自身を認めざるを得ないのです。全世界の口はふさ がれました。私たちは罪の支配という闇の中に力無く望み無く立ちつくすしか ない者たちであります。

 しかし、聖書は私たちに語ります。私たちはその闇の中に捨て置かれるので はない、と。闇の中に自らを見出す者にこそ、福音の言葉は与えられているの です。この闇の中に光が差し込んできました。イエス・キリストの到来、その 生涯、その苦難と十字架の死、そしてキリストの復活と聖霊の降臨によって、 この罪の闇の中に光が差し込んできたのです。それは昇り始めた義の太陽の光 です。私たちが昇らせたのではありません。神が昇らせ給うたのです。義の太 陽の光は、私たちに一方的に与えられる神の恵みの賜物です。そうです、私た ちの行いによって、神との正しい関係に至ることはできませんでした。その正 しい関係は、神から一方的に与えられるしかありません。そして、それは与え られたのです。これは恵みによる義であって、イエス・キリストを信じること により、信じる者すべてに与えられる神の義なのであります。それゆえ、パウ ロは私たちがまず何をすべきか、ということではなくて、神が私たちのために 何を為してくださったのか、ということをこの手紙においてさらに明らかにし ていくのであります。

 
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