「聖霊の神殿」
1998年5月31日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1コリント6・12‐20
今日は聖霊降臨祭の主日です。この日は、キリストの昇天から十日後、集ま って祈っていた弟子たちの上に聖霊が降り、教会が誕生したその記念の日とし て祝われてきました。聖霊降臨の出来事は、使徒言行録2章に記されておりま す。今日はその出来事そのものには触れません。どうぞそれぞれお読みくださ い。ただ、ここで教会の誕生の次第について一つだけ心に留めておいていただ きたいことがあります。それは、教会とは単にあの最初の弟子たちが集まって 作ったものではない、ということであります。集まっていた方が都合良いから 教会なるものを設立したのではないのです。主導権は神がお持ちでした。神が 弟子たちを集められ、霊を注いで教会を作り出されたのであります。それは、 二十世紀末の今日の教会においても同じです。神が今日も人を招き、信仰を与 え、神の霊を注ぎ、私たちを一つとなし、導き給うのであります。目に見える ところにおいては、破れ多き罪人の集団です。しかし、目に見えざる次元にお いては、神の霊によって成る、神によって作り出されたキリストの体なのであ ります。ですから、個々の信仰者もまた、単に諸々の諸宗教の中において特に キリスト教を信奉している人ということではありません。今日の箇所において、 聖書は次のように語っているのであります。「知らないのですか。あなたがた の体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはも はや自分自身のものではないのです。(19節)」実は、同じような言葉が3 章16節にも出てきます。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が 自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。(3・16)」この場合、 神の神殿と呼ばれているのは、教会全体のことです。教会は神の神殿です。そ して、6章のこの箇所においては、神の神殿である教会における個々の信仰者 もまた、神の霊の宿り給う神殿であると言われているのです。そうしますと、 ここから信仰生活についての一つの定義を導き出すことができるでしょう。こ こには信仰者が何かということについての明確な理解が記されているからです。
信仰生活とは何か。それは、「聖霊の宿り給う神殿として生きる」ということ に他なりません。信仰生活を様々な言葉で言い表すことは可能ですが、今日、 特にこの「聖霊が宿ってくださる神殿」という言葉を心に留めていただきたい と思うのです。1998年のペンテコステ礼拝に集われた方として、教会員も、 求道中の方々も、初めて来会された方々も、ぜひこのことを覚えておいていた だきたいと思うのです。では、そのような聖霊の神殿として生きるとは、いか なることでしょうか。今日は、そのことについてさらに共に理解を深めたいと 思うのであります。
コリントのキリスト者たち
さて、先ほどお読みした19節は「知らないのですか」という言葉から始ま っています。これはコリントの教会に宛てられた手紙です。そうしますと、コ リントの教会の人々は、自分が聖霊の神殿であるということを知らない者であ るかのように生きていたということになります。それはいったいどういうこと でしょうか。彼らは神の与えてくださる聖霊については無関心だったのでしょ うか。教会については、これをただの人間の集団としか考えなくて、神に関わ る次元のことには、関心がなかったということなのでしょうか。
いいえ、実は、決してそうではなかったのです。むしろ、コリントの人たち は、聖霊については関心があり過ぎるぐらい関心がありました。それはこの手 紙全体を読みますとよく分かります。彼らは特に、聖霊によってもたらされる 超自然的な事柄、神秘的な事柄に大変関心があったようです。例えば、聖霊の 働きによる「異言」や「預言」、その他、神の力による病の癒し、奇跡的な力 ある業などに関心があり、またそのような霊の賜物を真剣に求めていた人々で ありました。そして、事実、多くの人々が神秘的な体験を持ち、また聖霊の賜 物を持っているという教師たちもいたのです。
パウロはそのような聖霊の超自然的な現れや働き、聖霊の賜物を否定しませ ん。パウロはそのような聖霊の賜物についてこの手紙の12章において触れて おります。神の霊が与えられるのですから、そこにこの世の観念においては計 り知ることの出来ないことが起こったとしても、決して不思議ではありません。 彼らは確かに聖霊を知っていたし、聖霊の賜物についても知っていたのであり ます。しかし、それにもかかわらず、パウロは彼らに対して、「知らないので すか」と言うのであります。
いったい何が問題だったのでしょうか。そのことを理解するために、まず1 2節まで戻りたいと思います。そこにはこう書かれています。「わたしには、 すべてのことが許されている。」新共同訳聖書ですと、この言葉は鍵括弧に入 れられております。つまり、これはパウロ自身の言葉であると言うよりは、コ リントの人たちの言葉であるという理解です。この言葉の文脈を考えますと、 それは正しい理解であると思われます。同じ言葉がここで二回繰り返され、ま た後の10章22節にも出て参ります。コリントの人々の間でかなり広く用い られていた言葉であることがうかがわれます。いったいどうしてこのような言 葉が用いられるようになったのでしょうか。それはパウロの「信仰によって義 とされる」という言葉の誤解から来たのか、あるいはギリシア的な霊肉二元論 から来たのか、詳しいことはよく分かりません。恐らく両方の要因があって、 このような言葉が用いられるようになったのでしょう。いずれにせよ、これは 「わたしたちは自由だ」という主張に他なりません。多くの人は自由であるこ とを求めておりますし、何ものにも束縛されたくないと思っているのですから、 このような言葉が広く行き渡ったことは決して不思議なことではないでしょう。
パウロはこの言葉を引用しまして、一応は肯定しているかに見えます。しか し、続けてこう言うのです。「しかし、すべてのことが益になるわけではない。 」なるほど、これは私たちの経験からも理解できることでしょう。自由を主張 し、心の欲するままに行動することは、決して益にならない。自分の感情の赴 くままに行動し、自分の願うことをことごとく行っていくならば、その結果、 人に嫌われることもあるでしょうし、人を傷つけ、自分自身をも傷つけること にもまるでしょう。自分の欲のままに生きれば、体も壊すことになるでしょう し、精神的にも決して健やかではあり得ないでしょう。特にまたパウロの用語 において「益とならない」ということは「救いをもたらさない」という意味合 いでもありますが、そのことも事実だと思います。そのように自由を主張して 行動することは、決してその人に救いをもたらしはしない。当たり前のことで あります。
また、パウロは「しかし、わたしは何事にも支配されない」と言います。 「わたしには、すべてのことが許されている」と言うならば、それに続いて、 「わたしは何事にも支配されない」と言い得ることが大事なのです。と言いま すのは、「わたしには、すべてのことが許されている」と言いながら、決して 自由ではない、ということがあり得るからであります。自分が望んで行った事 であっても、いつの間にかその事に支配されているということがあるのです。 心の欲するままに自由に生きているように思っていたら、実は自分の欲望その ものに支配されているということがあるのです。食欲に支配され、名誉欲に支 配され、性欲に支配され、物欲金銭欲に支配され、まったく奴隷のようになっ てしまっているということはあり得ることなのであります。
13節以下を読みますと、まさにコリントの人々はそのような危険にさらさ れており、実際にある者たちはそのような状態に落ち込んでしまっていたよう なのです。パウロは突然、「食物は腹のため、腹は食物のため」などと言い出 しますが、これもまたコリントの人たちが言っていたことなのでしょう。要す るに、「食いたい物を食って何が悪い」ということです。そして、その後に書 かれていることを読みますと、食欲だけではなく性欲についても同じことが言 われていたようなのであります。自分の体をもって楽しんで何が悪い、という ことであります。コリントという町は、もともと不道徳において悪名高い町で ありました。神々の神殿には数多くの神殿娼婦や神殿男娼がおり、まさに売春 宿のようになっていたのです。その影響は教会の中にまで及んでおりました。 彼らは自らの欲望のままに事を為しながら言うのです。「わたしには、すべて のことが許されている」「食物は腹のため、腹は食物のためだ」と。そこにパ ウロは彼らに15節以下のことを語らざるを得なかった事情があります。「あ なたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの 体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交 わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。『二人は 一体となる』と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊とな るのです。(15‐17節)」
体をもって神の栄光を現しなさい
このように読み進んできますと、パウロがなぜ19節において「知らないの ですか」と言っているのかが見えてまいります。彼らに欠けていたのは聖霊に ついての認識ではありませんでした。そうではなくて、彼らは自分自身につい て無知であったのです。知るべきことを知らなかったのです。自分の体が神か らいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であるとはいかなることか、というこ とを弁えていなかったのであります。聖霊の神殿であるということは、聖霊を 自分のものにすることではないのです。自分自身が神のものとなることなので す。「あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」と書かれていると おりです。
なぜ自分自身のものではないのでしょうか。パウロはそもそも何故に聖霊の 神殿となることができたのかを思い起こさせます。「あなたがたは代価を払っ て買い取られたのです」とパウロは言うのです。私たちが、聖霊の宿ってくだ さる神殿であり得るということは、決して当たり前のことではありません。私 たちは、もともと全く相応しくないものだからです。私たちは神から離れ、罪 の下に生きてきたものなのです。神を神として崇めず、神から与えられた自ら の体をも真に尊ばず、汚れたことを汚れたこととも思わず、罪を罪とも思わず に生きてきたのです。罪に汚れたこの身がどうして聖霊の神殿となり得ましょ うか。それは、神が私たちの罪を赦し、憐れみ給うことにおいて、初めて可能 となるのです。そして、私たちの罪が赦されるのは、私たちの償いの行為によ るのではありません。私たちの負債はあまりにも大きいのです。支払うことが できません。私たちは自らを解放し得ない、罪に売り渡された奴隷のような者 でした。私たちが赦されるためには、誰かがその全てを支払ってくださらなく てはなりません。そして、そのことを為しえるただ一人のお方が、代価を支払 ってくださったのであります。あのカルバリの丘において、十字架の上で、イ エス・キリストが私たちの罪の負債を、自らの肉を裂き、血を流して、その命 をもって、支払ってくださったのであります。これが、私たちを神のものとす るために、私たちを聖霊の神殿とするために、神の子の支払い給うた代価であ りました。
このことを、コリントのキリスト者は忘れていたのです。彼らが今ある恵み に入れられるためにどんなに大きな犠牲が払われたか、代価が払われたかを忘 れていたのです。そして、それはいつの時代の人にも言えることです。忘れて しまうのです。思い出さなくてはなりません。キリストの犠牲という尊い代価 が払われて今の私たちが神のもとにあるのです。私たちはキリストの尊い命と いう代価によって買い取られたものです。もし買い取られなかったら、罪と死 の奴隷として永遠に滅びるしかなかったのです。だから、私たちはもはや私た ちのものではないのです。どこに向かうべきでしょうか。「だから、自分の体 で神の栄光を現しなさい」とパウロは言います。「神によって買い取られた体 で神の栄光を現しなさい」と言うのです。
これは命令であると同時に、大きな希望を与える励ましの言葉でもあります。 ギリシア人にとって肉体は滅ぶべき悪でしかありませんでした。魂の牢獄でし かなかったのです。彼らがそう考えたのは不思議でもなんでもありません。人 は肉体を持つ故に苦しみ、悩み、そして、この肉体を通して罪を犯します。そ う考えます時に、この体をもって神の栄光を現すなど、不可能のようにさえ思 います。また、さらに言いますならば、パウロがここで「体」と呼ぶのは、肉 体も精神も含めて人間の全体です。ならば、なおさら難しい。私たちは意志に おいて、感情において、知性において、欠陥だらけです。いったい神を汚すこ とはできても、神の栄光を現すことなどできるのでしょうか。
しかし、パウロは、ギリシア人が聞いたら驚くような事を当然のごとく語る のです。「だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」それは、ただ単にギ リシア的思考とヘブライ的思考との違いではありません。パウロにとって、こ の体は単に罪の支配のもとに滅びゆくものではないからです。この体は「神か らいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」だからです。私たちは自分自身の頑 張りと努力によって神の栄光を現そうと努めるのではありません。信仰生活と はそのようなものではありません。信仰生活は、神の神殿として生きる生活で す。神の栄光は神殿を通して、聖霊自ら現されるでしょう。
そこで大切なことはたった一つのことだけなのです。「この体は私の体だ」 と主張しないことです。「私の体を私のために用いて何が悪い。私の人生を私 のために用いて何が悪い」と言わないことです。買い取られた自分、神のもの である自分を自覚して生きること、それが神の神殿として生きることに他なり ません。そのような人こそ、自らの体をもって神の栄光を現す人となるのです。