「キリスト賛歌」
1998年6月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピ2・5‐11
本日与えられている聖書箇所はフィリピの信徒への手紙2章5節から11節 までです。この内、6節以下は、パウロがこの手紙を書いた当時の賛美歌であ ると言われております。なぜ突然この手紙の中に賛美歌が出てくるのでしょう か。そこで、本日の聖書箇所の直前を読んでみますと次のように書かれており ます。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相 手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のこと にも注意を払いなさい。(3‐4節)」このようなことが語られておりますの は、具体的にフィリピの教会に問題があったからでしょう。このように、パウ ロは教会における具体的な問題との関連で賛美歌を引用しているのです。
しかし、それにしましても、少々不自然な感を拭いきれません。皆さんはど のようにお感じになられたでしょうか。ここに引用されているのは、非常に美 しく整ったキリスト賛歌です。神学的にも重要な主題、キリストの謙卑と高挙 という主題が歌われている賛歌であります。しかし、一方、その直前に書かれ ています利己心や虚栄心の問題は、あまりにも卑近な問題に思えます。教会の 事に限らず、小さな仲間内でありましても、あるいは少々大きなコミュニティ でありましても、人間のつまらぬ虚栄心や利己心がどれほど交わりを破壊する ものであるか、ということを私たちは嫌というほど知っているのです。ですか ら、聖書がわざわざ語るまでもなく、謙遜が大切であることも、他人のことに も注意を払うべきことをも、私たちは知っているのです。しかし、知っている のに、なかなか実行できない。そのような悩みを多かれ少なかれ皆が抱えてお ります。そのような非常に身近な問題と、深遠なキリスト論が歌われている賛 美歌と、いったいどのような関係があるというのでしょうか。
キリストの謙卑
この一見非常にアンバランスな両者を結びつけているのは、明らかに5節の 言葉です。そこで私たちは、この5節の言葉に注目しながら、3節と4節に語 られている私たちに身近な問題と、6節以下のキリスト賛歌との関係を考えて いきたいと思うのです。しかし、実は、5節の言葉はなかなか翻訳の難しい節 でもあります。理解の仕方によって何通りにも訳せるのです。例えば、聖書協 会の口語訳では「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あ なたがたの間でも互いに生かしなさい」となっています。随分意味合いが異な りますでしょう。文語訳聖書では、「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」 となっていました。こちらは単純明快です。新共同訳はこちらに近いと言える でしょう。
「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるも のです。」これは要するに「キリスト・イエスを模範としなさい」ということ を言っているように見えます。特にキリストの何を模範とすべきかと言います と、その「へりくだり」であると理解することができます。というのも、3節 には「へりくだって」という言葉が出てきますし、8節にも「へりくだって」 という言葉が出てくるからです。ここでは原文においても二つの似た言葉が用 いられおります。なるほど、こう考えますと、賛美歌が引用されていることも 納得できます。フィリピの信徒たちはもちろんこの歌を知っていたでしょうか ら、彼らの虚栄心や利己心を戒め謙遜を教えるには、最も手近な良い材料であ った、ということになるでしょう。
確かに、こう考えると分かりやすい。しかし、分かりやすいことが必ずしも 真実であるとは限りません。良く読んでみますと、腑に落ちない点が残ってい ることに気づきます。まず引っかかりますのは、パウロの引用した歌の構成で す。これは明らかに前半と後半に分かれます。もし模範としてのキリストの謙 遜を言うだけならば前半だけで十分ではないでしょうか。つまり、8節までで 事足りるということです。どうして9節以下まで引用しなくてはならなかった のでしょうか。
そして、さらに気になりますのは、「へりくだって、死に至るまで、それも 十字架の死に至るまで従順でした」というくだりです。はたして、神と等しい 方が十字架の死に至ったというのは、本当に私たちが考えるような謙遜の模範 であり得るのでしょうか。そもそも、へりくだりと十字架という二つは、そん なに単純に結びつくものなのでしょうか。いと高き神に等しい方が最低の死に 方をした、というだけで、それが本当に謙遜の模範となるのでしょうか。実際、 キリストが単に私たちに謙遜の模範を示しただけであるならば、十字架にかけ られて殺されるようなことはなかっただろうと思うのです。謙遜であることは 通常は尊敬こそされ、十字架にかけられて殺されるようなことはないからです。 神であった方がその栄光を捨てて、人間の姿となられた、というだけであるな らば、あるいは謙遜の模範となり得るかも知れません。しかし、それだけの話 であるならば、十字架の死というのは明らかに余計です。
このように考えますと、8節の「へりくだって」というのは、いわゆる徳目 としての「謙遜」ではないことが分かります。重要なことは「誰に対してへり くだったのか」ということなのです。そして、それは同じ8節に記されている 「従順でした」という言葉と深く結びついております。誰に対して従順だった のでしょう。言うまでもなく「神に対して」であります。キリストは神に対し てへりくだり、神に対して従順であった、とこの歌は歌っているのです。むし ろ、その従順に力点があるのです。
キリストが「従順であった」とは、キリストが神の御心に従った、というこ とであります。では、その神の御心とは何でしょうか。聖書が一貫して語って いる神の御心は人間の救いであります。キリストが従った神の御心とは、人間 を救おうとしてキリストを送り給うた神の御心に他なりません。罪を犯して神 を離れ、永遠の命を失い滅びへと向かっている人間を救おうとされる神の御心 であります。キリストはこの御心に従順であられたのです。死に至るまで、し かも十字架の死に至るまで従順であられたのです。
実は、この「十字架の死に至るまで」という言葉は、もともとの賛美歌には 含まれていなかった言葉であろうと言われます。ここで詩文のリズムが狂うか らです。そうしますと、これはパウロがあえて解説として入れた言葉であると 理解できます。ここにパウロの意図が少なからず現れております。パウロが 「十字架の死に至るまで」という言葉を加えたのは、神の御心がキリストの十 字架の死を通して人間を救うことであったからです。彼はそのことをここで強 調しているのです。その意味するところを、パウロは他の手紙においても繰り 返し明らかにしております。例えば、彼はコリントの信徒へ宛てた手紙の中で このように語っています。
「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたし たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお 授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人 々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリス トの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和 解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのた めに罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができ たのです。(2コリント5・18‐21)」
罪ある私たちが神との交わりへと回復されるために、神は罪なきお方を罪人 として断罪されたのであります。それが神の御心でありました。そして、その 御心に従順に従ったのが、罪なき方であられたキリストだったのであります。
要するに、この歌において私たちがまず読みとらなくてはならないのは、模 範とすべき謙遜な姿ではないのであります。そうではなく、虚栄心と利己心に 満ちた罪人である私たちを救うためにキリストが何を為してくださったのか、 ということなのです。
キリストの高挙
そうしますと、賛美歌の引用が8節で終わらない理由もおのずと明らかにな ってまいります。神の御計画は、キリストが十字架につけられ死んでしまうこ とで終わらなかった、ということであります。神の御計画は、最終的に父であ る神に栄光が帰せられるところに至るのです。11節において、「父である神 をたたえるのです」と書かれているのは、そういうことです。いかにして神が たたえられるに至るのでしょう。それは、「天上のもの、地上のもの、地下の ものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリスト は主である』と公に宣べ」ることによってであります。「公に宣べる」とは、 信仰を告白することです。「天上のもの、地上のもの、地下のもの」というの は、当時の世界観から出た言葉です。要するに「すべての被造物が」というこ とです。では、「イエス・キリストは主である」との信仰を告白することが、 どうして神に栄光を帰し、父なる神を誉め讃えることになるのでしょうか。
そこで注目すべきは、やはりここであえて「イエス」の名が言及されている ことでしょう。ただ単に「キリスト」と言われているのではなくて、「イエス の御名にひざまずき」と書かれ、「イエス・キリストは主である」と書かれて いるのです。それは、全ての者がひざまずくのは、あの十字架にかけられたナ ザレのイエスという方に対してであるということを意味しております。「主で ある」と告白されるべき方は、紛れもなく、あのゴルゴタの丘で十字架にかけ られたあのお方に他ならないことを、この言葉は明らかにしているのです。
なぜ十字架にかけられた方が主と告白されるのでしょう。それは神がイエス を高く上げ、あらゆる名にまさる名を与えられたからであります。その名こそ 「主」という名であるわけです。それは旧約聖書においては、まさに神の名で あるのです。その名を与えられたのは、先にも申しましたように、キリストが 神の御心に完全に従い、救いの業を全うしたからであります。考えて見てくだ さい。十字架にかけられて死んだ者を神と等しい方として崇め礼拝するという ことは、当たり前のことではありません。むしろこの世の見方からするならば 異常なことと申せましょう。しかし、それにもかかわらずなお「イエス・キリ ストは主である」と告白するならば、それはまさに十字架にこそ救いがあるこ とを告白することに他ならないのです。言い換えるならば、自分はあの十字架 によってしか救われ得なかった罪人であることを認め、告白することを意味し ます。ですから、そこにはもはや人間の誇りはありません。ただ十字架によっ て罪を贖われ救われたことを告白するところには、人間の誇りが入る余地があ りません。救いの御業は、ただ一重に神の恵みであることを言い表すことにな るからです。それゆえ、そのことが神に栄光を帰することになるのです。それ こそが神を誉め讃えることなのです。
全世界が、全被造物が、そのように神をたたえるようになる。全宇宙がその ような礼拝を神に捧げるようになる。神の御心はそこに向かっているのです。 しかし、現実にはそのようにはなっておりません。すべての膝がイエスの御名 の前にかがめられている事実を私たちはまだ見てはおりません。しかし、大切 なことは、現状がどうであるか、ではないのです。神の御心によって導かれて いるこの歴史がいったいどこに向かっているのか、ということなのであります。 この全被造物の歴史は神の国における礼拝へと向かっているのです。既に事は 始まっているのです。それゆえに、私たちはここにいるのです。イエス・キリ ストは主である、と告白する者としてここにいる。神に栄光を帰する者として、 神を礼拝する者としてここにいるのです。これは、既に事が始まっていること の確かなしるしです。キリストにおいて決定的な仕方で始まっている。そして、 神の御心はゴールに向かって進んでいるのです。このように、パウロが引用し たこの賛美歌は、キリストが私たちを救うために十字架にかかられたことを歌 っていると共に、そのキリストの御業によって救いに与った者がいったいどこ に向かっているかを明らかにしているのであります。
以上、見てきましたように、パウロがこの賛美歌を引用している意図は、た だ単にキリストの謙遜を模倣しなさい、ということではありません。5節が意 味しているのは、そのようなことではないのです。先にも引用しましたように、 口語訳はこれを「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あ なたがたの間でも互いに生かしなさい」と訳しております。この場合、キリス ト・イエスにあっていだいている思いとは何かと言えば、それは十字架によっ て救われた者としての信仰告白であり、賛美なのです。「イエス・キリストは 主である」と告白することであり、そうして神に栄光を帰することなのです。 つまり、救われた罪人がキリスト・イエスにあって捧げる礼拝なのです。それ が互いの間で生かされる時、人は虚栄心や利己心から解放されていくのでしょ う。そこにこそ、まことのへりくだりが起こるのです。
真の謙遜は真の神礼拝からしか生まれません。それがキリストであれ、他者 の謙遜を模倣して自分も謙遜になったつもりでいるだけならば、結局はいつの 間にかその自分の謙遜さを誇るようになっているものです。人はそこまで虚栄 と高ぶりに毒されている者だからです。ですから、私たちがまず考えなくては ならないのは、まことの礼拝者となることです。私たちのこのような罪深い性 質をどうしたらよいか、ということではなくて、まず十字架を仰いでまことの 礼拝者となることなのであります。