「信仰による義」
1998年6月21日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ3・21‐31
パウロはローマの信徒への手紙1章16節と17節においてこの手紙の主題 を提示し、次のように書きました。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユ ダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だ からです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わり まで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書 いてあるとおりです。」しかし、パウロはそこからすぐに「神の力」「神の義 」そして「信仰」という主題について展開し始めるのではなく、むしろ人間の 不信心と不義について語り始めます。そしてさらに、不信心な者たちだけでな く、正しい者として他者を裁いている人々、敬虔な者たちもまた神の裁きに耐 えないことを明らかにしていくのです。その一連の論述の結論は3章9節にお いて次のように纏められておりました。「既に指摘したように、ユダヤ人もギ リシア人も皆、罪の下にあるのです。」こうしてこの手紙は、まず私たちが皆 罪の支配という闇の内にあるという事実を、私たちの目の前に突きつけるので あります。
しかし、深い闇を認識しはじめる時、もう一つの言葉が私たちの耳に響いて まいります。「ところが今や!」という言葉です。そして、私たちは救いの言 葉を聞くのであります。既に主題として提示されていた「神の義」「神の力」 そして「信仰」が、圧倒的な輝きをもって闇の中に分け入り、再び私たちに迫 り来るのであります。その時に、パウロが人間の罪についてかくも厳しく語っ てきたことの意味が明らかになります。罪を暴く断罪の言葉が、人間の聞くべ き最後の言葉ではないのです。実に、救いはこの世の空虚な慰めや気休めの言 葉の内にはありません。罪が罪でないかのように語る言葉の内に救いはありま せん。現実を直視せず、臭いものにただ蓋をするだけの言葉の内に救いはあり ません。そうではなくて、罪と死の支配のもとにある人間であることを認めた 上で、なお「ところが今や!」と語り得るところにこそ救いがあるのです。な ぜ罪を暴く断罪の言葉が人間にとって最後の言葉ではないのか。なぜ全く新し い「今や」を語り得るのか。パウロは21節から、その根拠となる神の行為と しての出来事、神と人との関係を決定的に変えてしまった一つの出来事を説き 明かし始めるのであります。
律法とは関係なく
初めに24節までをお読みいたしましょう。「ところが今や、律法とは関係 なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すな わち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神 の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受 けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、 神の恵みにより無償で義とされるのです。」
ユダヤ人は神の言葉をゆだねられた民でありました。(3・2)彼らは神の 御心を明らかにされ、神の律法を与えられた民でありました。しかし、彼らの 歴史は、人間が罪の下にあり、神の律法を守り得ないことを明らかに示した歴 史でもありました。文字として書き記された律法であろうと、あるいは心の中 に記された律法であろうと、律法を守ることによって人間は神との正しい関係 に生きることはできないのです。皆、罪の下にあるからです。20節において 次のように書かれている通りです。「なぜなら、律法を実行することによって は、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか 生じないからです。」
これが23節では次のように言い換えられております。「人は皆、罪を犯し て神の栄光を受けられなくなっていますが…」。これは直訳するならば「神の 栄光に届かない」ということです。この言葉を理解するために、少し遡って2 章6節以下をご覧いただきたいと思います。そこには神の裁きの大原則が記さ れておりました。「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、 忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与 えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお 示しになります。すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、 苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人 にも、栄光と誉れと平和が与えられます。(2・6‐10)」ここで「栄光」 は「誉れ」や「不滅のもの」と並べて書かれているところを見ますと、これは 終末における救いと関わることであることが分かります。ですから、神の栄光 にあずかることは、すなわち神の国に入れられることであり、救われることで あり、永遠の命にあずかることであると言い換えることができるでしょう。そ うしますと、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」と いうことは、だれ一人としてこの神の裁きの大原則に耐え得ないということを 意味します。
これは実際に私たち自身のことを考えてみるとよく分かります。「おのおの の行いに従って報われる神」の裁きの前に立って、私たちは自らを永遠の命に ふさわしいものと見なすことができるでしょうか。神の栄光にあずかる希望を 当然のこととして考えることができるでしょうか。できないだろうと思うので す。むしろ、「怒りと憤り」が示されても仕方のない者ではないでしょうか。 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」という言葉に対 して、私たちは自分自身を例外にはできません。その「人は皆」の中に当然、 私もいるし、あなたもいるのです。これがまた、先に述べられた「律法を実行 することによっては神の前で義とされない」ということに他なりません。人間 から神に向かう行為、下から上に向かう行為によってはどうしても神の栄光に 届かないのです。この下から上に向かう方向においてはどうにもならないのが、 神と人との関係なのであります。
しかしそこで、まさにその絶望的な状況において、「ところが今や、律法と は関係なく…神の義が示されました」と語り始めるのです。下から上に向かう 方向、人間が神に向かう方向においてはどうにもならなかったことが、上から 下へ向かう神の行為において決定的に現されたのです。それが「律法とは関係 なく」ということです。「律法とは関係なく」神から生じたことでありますか ら、人間はあくまでも受ける側です。それは神の創造的な救いの業としての 「神の義」でありますから、神との正しい関係はもはや人間が作り出すのでは なくて、神が作り出して人間に与えてくださるものとなった、ということであ ります。人間はただ信じて受けるだけなのです。それが22節に書かれている ことです。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべ てに与えられる神の義です。」
人間は神の裁きの前に平等だと以前申しました。さらに言うならば、人間は 罪の下にあって自らの力で自らを救い得ないといことにおいて皆等しいのです。 絶望において等しいのです。しかし、それゆえに救いにおいてもまた平等なの であります。律法とは関係なく神の義が現されました。それゆえ、すべての者 が信じて受けることができます。そのようにして、もはや神の怒りと憤りでは なく、神との正しい関係を得、神との交わりを得ることができるのです。「そ こには何の差別もありません。(22節)」何の差別もないのは、それが私た ちの行為や功績によるのではなく、キリスト・イエスの贖いの業によるからで あります。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、た だキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされ るのです。(23‐24節)」
「贖いの業」とは何でしょうか。ここでイメージされているのは奴隷の売買 です。そこにいるのは債務の故に奴隷となった者です。これが私でありあなた です。奴隷は自分を解放することができません。自分で自分を救い出すことは できません。自分に寄り頼む限り、そこには絶望しかありません。しかし、そ こに一人の人が来てくれました。相当な額を払い、買い受けて、そして解放し てくれました。この買い受けのための代価を「贖い」と言います。つまり、こ こで語られていることは、救いは徹頭徹尾キリストによる贖いの業によるとい うことであり、神の恵みによるのだ、ということであります。神の恵みによる のですから無償なのです。「無償」と訳されている言葉は元来「贈り物として 」という言葉です。贈り物なのですから、私たちは受け取ればよいのです。
罪を償う供え物
続いて25節以下をお読みしましょう。「神はこのキリストを立て、その血 によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人 が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐 してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であること を明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(25‐26節)」
ここでパウロの言葉の描き出すイメージが、奴隷の売買からイスラエルの神 殿における祭儀へと移ります。年に一度の「贖罪日」に行われる贖いの儀式で す。大祭司はその日、自分自身のため、またイスラエルの人々の罪のために、 罪を償う供え物として雄牛と雄山羊を屠るのです。雄牛が、雄山羊が、血を流 しながら、悲鳴を上げながら、苦しみながら死んでいきます。そして、流され た動物の血を、大祭司は垂れ幕の奥である至聖所へと携えて行き、「贖いの座 」すなわち契約の箱の蓋の上と前方に振りまくのです。ここで「罪を償う供え 物」と訳されている言葉は、この「贖いの座」を指す言葉でもあります。しか し、それにしましてもこの場面を想像しながら、私たちは一つの思いを禁じ得 ません。「なんと理不尽なことか!」と思わざるを得ないのです。罪を犯した のは人間でしょう。なのに何の罪もない雄牛が苦しみながら死んでいく。なん と理不尽なことでしょうか。
確かに、このような旧約の祭儀は、私たちには到底受け入れがたいもののよ うに思われます。しかし、イエス・キリストの出来事を通して見る時に、この 受け入れがたい儀式の意味するところが見えてくるのです。そうです。この理 不尽きわまりない祭儀は、まさにこの世において最も理不尽な死、正しい方が 十字架の上で死んだというあの出来事を指し示すものなのです。イエス・キリ ストの死こそ、まさに神の備え給うた「罪を償う供え物」であり、また「贖い の座」なのです。旧約の犠牲、またその贖罪がなされた場所は、それを前もっ て指し示すよう定められた雛形だったのだ、ということが分かるのであります。 それゆえパウロもここで、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる 者のために罪を償う供え物となさいました」と語っているのであります。
しかし、「罪を償う供え物」についてパウロが語ることの意図は理解できる としまして、なお一つの問題が残ります。それは「なぜ罪を償う供え物が必要 なのか」ということであります。実際、教会の内外において次のような質問を 幾度耳にしたか知れません。「なぜ、神は罪を償う供え物などを必要とされる のか。なぜキリストの十字架が必要なのか。神が人の罪を赦して義とし給うこ とを望まれるなら、どうしてただ罪の赦しを宣言するだけではいけないのか。 」日本人の内には罪や過去の過ちを「水に流す」という観念があります。です から、「神様が罪を赦そうとしておられるなら、何もややこしい過程を経なく ても、単純に水に流してくれたらいいじゃないか」と思うわけです。罪の代価 が払われて打ち立てられた関係なんて「水くさい」と思うのです。
私たちはこのような国に生きる者であるゆえに、「罪を償う供え物」につい て、聖書の語るところの「神の義」との関連においてしっかり理解しておかな くてはなりません。パウロはこの文の最後において何と語っているでしょうか。 「…今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、 イエスを信じる者を義となさるためです」と言っているのです。
確かに「神の義」とは、罪人を義とし神との正しい関係へと回復する神の救 いの御業です。その意味において「神の義」とは「神の救い」と同義語です。 しかし、「神の義」とは同時に「神の正しさ」であるのです。そして「神の正 しさ」と「神の救い」は別々の事柄ではなくて、同じ「神の義」という言葉に 含まれる一つの事柄なのです。すなわち、神は御自分の正しさを放棄すること によって罪人を義とされるのではないということです。神は「正しい神」であ ることをやめて罪人を救われるのではないのです。そうではなくて、神は自ら の正しさ、神の義を貫くことによって罪人を救われるのであります。「御自分 が正しい方であることを明らかにし」かつ「イエスを信じる者を義となさる」 のであります。そのような義が示されたのが、イエス・キリストの出来事に他 ならないのであります。そもそも、神の正しさが貫かれないところに真の救い などないのです。
罪を償う供え物となられた十字架のキリストを仰ぎみてください。そこには 罪人の赦しがあります。しかし、同時に神の正しさがその極みまで現されてい るのであります。キリストの十字架において、私たちは神が罪を憎み給う神で あることを見るのです。キリストの十字架において、私たちは神が罪を裁き給 う義なる神であることを見るのです。私たちが神との関係に回復されることは、 無償の贈り物であると同時に「神の義」であるゆえに、かくも厳しい過程を経 なくてはならなかった事実を、私たちはキリストの十字架に見るのであります。
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証され て、神の義が示されました。」そうです、確かに神の義は「律法とは関係なく 」示されました。しかし、それが神の義の貫かれた行為であるゆえに、私たち は十字架の福音が、この世の空虚な慰めや気休めの言葉とは決定的に異なるこ とを知るのです。また、「罪など気にしなくていいよ」という安易な勧めや、 罪が罪でないかのように語る偽りの言葉でもないことを知るのであります。そ れゆえ、またそこにまことの救いがあることを知るのであります。