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「誇りを取り去る神の義」

1998年6月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ3・21‐31

 人はいつでも他者との比較の中で生きているものです。他者と比べて自らを 誇り、あるいは他者と比べて自らを卑下したり卑屈になったりして生きている ものであります。時には自分の誇りを保つために人を自分より低く見なくては なりません。こうして他者を見下すようなことをいたします。イエス様のたと え話の中に、次のように祈ったファリサイ派の人が出てきます。「神様、わた しはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、ま た、この徴税人のような者でもないことを感謝します。…(ルカ18・11) 」どうして、「ほかの人たちのように」とか「この徴税人のような者」という 言葉が、神との対話において出てくるのでしょうか。本来、神との関わりにお いては意味のないことではないですか。しかし、神とは関係なくとも人の誇り との関わりでこのような言葉が出てくるのです。そして、実に、そのような人 間の誇りが、しばしば人と人とが共に生きることを不可能にしているのであり ます。

 パウロの手紙をここまで読みましてお気づきのように、彼はユダヤ人とギリ シア人をしばしば並記しております。「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも (1・16)」「ユダヤ人はもとよりギリシア人にも(2・9、10)」「ユ ダヤ人もギリシア人も(3・9)」というようにです。しかし、パウロがして いることは、当時の常識としては決して当たり前のことではありません。ここ で「ギリシア人」は非ユダヤ人一般を指すと見てもよいと思うのですが、いわ ばこの両者は共に生きることが出来ない者たちの代表なのです。この両者を並 べて同等に扱うということは、どちらにとっても腹立たしいことなのです。ユ ダヤ人には神の律法を与えられ、それを守っているという誇りがある。それゆ え異邦人を見下しています。「私たちはこのギリシア人のような者でないこと を感謝します」という思いで生きているのです。一方、異邦人には異邦人の誇 りがある。そしてその誇りの故にユダヤ人を見下し、あるいは彼らに対して敵 意を抱くということが起こってくるのです。このユダヤ人と異邦人の問題の根 は大変深く、実は、教会もまたこの問題を長く引きずることになりました。そ の様子は使徒言行録を読みますとよく分かります。異邦人キリスト者とユダヤ 人キリスト者とが共に生きることは、それほど簡単ではなかったのです。また、 異邦人伝道ということが、最初からごく自然に行われていたわけではありませ ん。当然のことながら、パウロがこれを書き送っているローマの教会において も、この問題は厳然として存在していただろうと思うのです。

 しかし、ここでパウロは「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除 かれました」と語り始めます。パウロはこれまで書いてきたことの当然の帰結 としてこれを書き記すのであります。すなわち、福音による救いが当然もたら すものとして、喜びをもって「誇りは取り除かれた!」と書き記すのでありま す。福音は、人と人とが共に生きることを不可能にさせていた「人の誇り」を 完全に閉め出してしまうのだ、と言うのであります。

人の誇りを取り除く神の義

 それでは27節以下をご覧ください。「では、人の誇りはどこにあるのか。 それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そ うではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは人が義とされ るのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。(27‐ 28節)」

 ここでパウロが用いている「法則」という言葉は、21節の「律法」という 言葉と同じです。一種の言葉のあそびを用いているので、若干言葉が入り組ん でいますが、意味するところは明らかであります。ここで対比されているのは 行いによって義とされる道と信仰によって義とされる道であります。律法を守 り行う者がその行いによって神との正しい関係を得るという法則が、この「行 いの法則」です。しかし、これに対して、「信仰の法則」は、28節にあるよ うに「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」という 法則であります。

 パウロは26節に至るまで、この「信仰の法則」を明らかにしてきたのでし た。それは「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない (3・20)」という認識から始まりました。23節にあるように「人は皆、 罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」という認識から始まるのであ ります。人の行いは神の正しい裁きの原則の前に耐え得ない。人がその行いに よって受くべきものは、「栄光と誉れと平和(2・10)」ではなく、神の怒 りと裁きでしかないのです。人から神へと向かう行為によっては、神と人との 関係はどうすることもできない。しかし、そこで「律法とは関係なく」神の義 が示されたと、パウロは21節から語り始めたのであります。神との正しい関 係は、人の行いによるのではなく、神の救いの行為によって与えられるものと なりました。人はただ信仰をもって受けるだけの者となったのです。「ただキ リスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるの です。(24節)」これが「信仰の法則」です。それは神が行為者となること であり、人間が完全に受け身となることなのです。

 それゆえ、そこには人間の誇りが入る余地はまったくないのです。人との比 較だけで生きているならば、自分の行為を誇ることはできるでしょうが、神の 義が関わってくる時に、神との関係が問題となる時に、もはや人は誇れなくな るのです。なぜなら、自分の救いのために自分は何も為していないし、為し得 ないからであります。ですから「信仰の法則」は人の誇りを取り除くのです。

 逆に言えば、人の誇りが閉め出されていないところには、依然として「行い の法則」が生きているということが言えるでしょう。ここに書かれていること を私たちはよく考えなくてはなりません。パウロは「人の誇りは取り除かれた 」と言うのですが、実際にはそうなっていない、ということがあり得るのです。 例えば、28節を誤解して「律法の行い」に代わるものが「信仰」だと受け止 められることがある。つまり「信仰」が「律法の行い」に代わる別な「行い」 のように考えられてしまうのです。そうしますと、たちまち計量的な比較が始 まります。「あの人の信仰は立派だけれども、私の信仰は十分ではない。だか らあの人はその立派な熱心な信仰によって確かに救われるかもしれないけれど、 私の信仰では救われないかもしれない」などと考えてしまう。あるいは逆に、 「私の信仰は本物だけれども、あの人の信仰はまだまだ浅い」などと考える。 「信仰」についても誇ってみたり卑下してみたりということが起こってくるの であります。卑下することと誇ることは同じものの裏表です。それはどこから 来るかというと「信仰の法則」からは来ないのです。信仰の法則は誇りを取り 除くのですから。するとそこにあるのは「行いの法則」であることになる。 「行いの法則」の支配していることになるのです。そして、この「行いの法則 」によって、神が信ずる者すべてに与え給う神の義、ここでパウロが語るとこ ろの神の義は閉め出されてしまうのであります。「では、人の誇りはどこにあ るのか。それは取り除かれました。」この御言葉の前に、私たちは自らの福音 理解を省みなくてはなりません。

神は唯一である

 続いて29節と30節をお読みしましょう。「それとも、神はユダヤ人だけ の神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあ ります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに 義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(29‐3 0)」

 神との正しい関係が、ただ信仰のみによって与えられるとの使信は、本来人 にとってこの上なく喜ばしい知らせであるはずです。しかし、実際には、これ を受け入れることは易しいことではありません。なぜなら、既にパウロが語り ましたように、それは人の誇りを取り除き、否定するからです。人が自分自身 の誇りを取り除かれることを良しとすることは、決して易しいことではないの です。人はいかに自分の行いについての誇りにしがみついていることでしょう。 パウロは、それゆえ、「信仰の法則」がユダヤ人にとって受け入れ難いことを よく知っております。なぜなら、自分自身も、ユダヤ人としての誇りに生きて きた人間だからです。いや、「信仰の法則」が受け入れ難いのは、何もユダヤ 人だけではありません。私たちにとっても同じです。人は皆、誇るべきものを 何とか自分のもとに確保しておきたいのです。それが神に対してであってもそ うなのです。

 ですから、ここからパウロは、なぜ「信仰によって」なのかを、論じ始めま す。そのことにかなり多くの言葉を費やしこの手紙4章にまで至ります。私た ちはこれから何回かに分けて、パウロの論ずるところに耳を傾けていきたいと 思うのです。まず彼は、なぜ「律法の行いによって義とされる」ことが救いの 道として成り立たないかを、ユダヤ人たちの信仰告白の言葉をもとに語り始め ます。それがこの29節以下の言葉です。

 ユダヤ人たちには、彼らが毎日唱える言葉がありました。それは「シェマ」 と呼ばれております。それは申命記6章4節以下の「聞け(シェマ)、イスラ エルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、 力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という言葉で始まる信仰告白で す。そのように、彼らは日々、神は唯一であるという信仰を告白しているので す。そして、神が唯一であるならば、どうしてユダヤ人だけの神でありえるか、 とパウロは語るのです。当然、ユダヤ人以外の者にとっても神であるはずでは ないか。また、ユダヤ人以外の者にとっても神であるならば、どうしてその神 との正しい関係が、モーセの律法の遵守によってのみもたらされ得ることがあ るだろうか。なぜユダヤ人に固有のものに依存することがあるだろうか。彼の 結論はこうです。当然、それらによらず、ユダヤ人にとっても、異邦人にとっ ても、すべての人にとって平等に与えられる救いの道があるはずだ。ゆえに、 救いの根拠は人間の側のいかなるものによらないのだ、ということであります。 救いの根拠が人間の側のいかなるものにもよらないとするならば、それはただ 神の恵みの御業によるのであって、人にはただ信じるだけしか残されていない のです。「割礼のある者(すなわちユダヤ人)を信仰のゆえに義とし、割礼の ない者(異邦人)をも信仰によって義としてくださる」とはそういうことです。

 さて、このパウロの言葉を読みますときに、私たち自身を省みて様々なこと を考えさせられます。神が天地の造り主であり、絶対者であるならば(もちろ ん「絶対者ならざる神」など、言葉の矛盾でしかないのですが)、その神が唯 一であるということは論理的に当然の帰結であると言えるでしょう。その唯一 なる神への信仰をユダヤ人たちは告白していたわけです。しかし、彼らが律法 の行いに固執することによって、実質的には、唯一なる神をユダヤ人のみにと っての神(いわば一民族神)にしてしまっていたのです。さて、翻って、私た ちはどうなのでしょうか。昔の伝道者の書物を読みますと、彼らが唯一なる神 をこの国に伝えるに際して、いかに困難を経験したかを知ることができます。 「日本には日本の神がいる。どうして西洋の神を伝えに来たか」という抵抗に 遭うわけです。さすがに、世界がこれほど狭くなった現代において、「日本の 神様がいるのに、西洋の神様を伝えるな」などと言う素朴な人々は少なくなっ てきただろうと思います。しかし、ではこの国に生きるキリスト者はどうなの か、と考えますと、神は唯一だと言いながら、実質的には多神教的な思考をそ のまま引きずって生きているのではないかと思うのです。つまり、ともすると、 こうして礼拝しています主なる神は、ただ教会に来ている人々にとっての神で しかないかのように、この国の多くの人々にとっては無関係であるかのように、 彼らにとっては他の神がいるかのように、考えているのではないかと思うので あります。

 なぜ神はキリストを十字架にかけ給うたのか。なぜ信仰によって義とされる 道を備え給うたのか。それは神は唯一であり、ユダヤ人の神であると共に異邦 人の神でもあり、この国の人々の神でもあり、そして神はこの国の人をも信仰 によって義とし、神との正しい関係に生かすことを望んでおられるからなので す。

 「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそう ではない。むしろ、律法を確立するのです。(31節)」

 パウロはここまで述べてきたことに対して、ユダヤ人たちから当然出るであ ろう問いを想定して、それに答えます。確かにパウロは「わたしたちは、人が 義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考える」と言いま した。しかし、これは律法を無にすることではないのです。むしろ、パウロの この結論は、彼が律法を神の義の要求として真剣に受け止めた結果なのです。 他人との比較の話であるならば、人は自分の正しさや良き行いを誇ることがで きるでしょう。律法を与えられていない異邦人たちとの対比で、律法を与えら れているユダヤ人を考えるならば、確かに彼らは律法を守っている人々だと言 うことはできるでしょう。また、それがユダヤ人たちの誇りであったと思うの です。しかし、律法が神の義の要求であり、神の裁きの基準であるならばそう はいかないでしょう。絶対者の前にその行いが問われることであるならば、い ったい誰が自らの行いを誇ることができるでしょう。しかも、隠れた事柄を裁 き給う主の前に、いったい誰が自らの正しさを誇ることができるでしょう。で きないのです。パウロの論述はそこから始まったのでした。律法が律法として 確立されるというのはこういうことなのです。行いによる義を主張する人は、 どこかで神の義の要求を割引して誤魔化さなくてはなりません。パウロはそう しなかったのです。律法が律法として確立されるならば、人は信仰によってし か義とされないことは明らかなのです。そして、ただ信仰のみによって義とさ れ、人間の誇りが取り去られるところにおいてこそ、真に人は神と共に生き、 また他者と共に生きる者となるのであります。

 
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