「賛美するために戻ってきた人」
1998年7月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ17・11‐19
「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。(19節)」 今日お読みしました物語全体は重い皮膚病(注1)の癒しに関するものですの で、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉も、「あなたは信仰のゆえ に癒されたのだよ」と言っているように聞こえなくもありません。しかし、こ の同じ言葉をルカは四回記しているのですが、興味深いことに、最初に私たち がこの言葉を目にするのは、病の癒しについてではないのです。7章50節に おいて、罪を赦された女に対して用いられているのです。そうしますと、この 物語においても、救いが語られるこの言葉は、単に病気の癒しに関することで はないと理解できます。そして、さらにこの物語の直後を見ますと、ファリサ イ派の人々と主イエスの次のようなやりとりが記されております。「ファリサ イ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。 『神の国は、見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」と言える ものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。』(20‐21節)」 このことから、今日読みましたこの短い物語も、やはり「神の国」に関わって いることが考えられます。つまり、そこにおいて救いが語られるならば、やは りそれは「神の国に入る」こととの関連で語られていると理解すべきだという いことです。既に「あなたがたの間にある」と語られている神の国、神の恵み による御支配の内に生きるのはだれか。そして、やがて神の完全な支配のもと で最終的な救いに与るのは誰か。これらの問いに対する答えが、この物語を通 して私たちに示されているのであります。
癒された十人
はじめに11節から14節までをお読みしましょう。「イエスはエルサレム へ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、らい病を 患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、 『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った。イ エスはらい病を患っている人たちを見て、『祭司たちのところに行って、体を 見せなさい』と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。(11‐1 4節)」
これはイエス様の1行がエルサレムへ上る旅の途中の出来事です。ある村に 重い皮膚病を患っている十人の人がおりました。彼らは主のなされた病気の癒 しの奇跡をどこかで耳にしたのでしょう。この十人は主イエスを村の入り口で 出迎えました。そして、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて憐れみ を乞うたのであります。なぜ遠くの方に立ち止まっていたのかと言いますと、 彼らは人に近づくことが許されていなかったからであります。この病について は旧約聖書のレビ記13章から14章にかけて、様々な規定が記されておりま す。まずこの病気については祭司が念入りに調べて診断することになっており ました。そして、それが「重い皮膚病」と訳されているその病であることが判 明したならば、通常の社会生活を為しえない者とされるのです。レビ記13章 45節以下には次のように書かれています。「重い皮膚病にかかっている患者 は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れ た者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れて いる。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。(レビ13・45‐46) 」これが十人の置かれていた状況でありました。もっとも、彼らは独りで住ん でいたわけではなく、恐らく共同で生活していたのでしょう。彼らのひとりは サマリア人でした。残りはユダヤ人です。サマリア人とユダヤ人は敵対関係に ありました。しかし、病の苦しみと社会から締め出された苦しみとが、彼らの 対立意識を取り除いたのです。彼らは共に連れ立って、主イエスを求めて来た のでした。そして、共に叫んだのであります。「どうか、わたしたちを憐れん でください!」
主イエスはそのような彼らに言いました。「祭司たちのところに行って、体 を見せなさい。」彼らは憐れみを求めているのです。それは具体的には病気が 癒されることであったに違いありません。ルカによる福音書5章に出てきます 同じ病を負った人は、主によって触れられることによって癒されております。 彼らもまた、そのような特別な癒しの行為を期待していたに違いありません。 しかし、主は彼らに「祭司たちのところに行け」と言われるのです。これはい ったいどういうことでしょうか。
先に取り上げましたレビ記には、重い皮膚病が癒された時の手続きについて も記されております。14章2節以下にはこう書かれています。「以下は重い 皮膚病を患った人が清めを受けるときの指示である。彼が祭司のもとに連れて 来られると、祭司は宿営の外に出て来て、調べる。患者の重い皮膚病が治って いるならば、祭司は清めの儀式をするため、その人に命じて、生きている清い 鳥二羽と、杉の枝、緋糸、ヒソプの枝を用意させる。(レビ14・2‐4)」 こうして、清めの儀式を執り行うのです。それは癒された人が社会生活に復帰 するための定められた手続きでした。ですから皮膚病が治っていなかったら祭 司に見せに行っても意味がないのです。彼らが主イエスに命じられた時、彼ら の上には何の変化も起こってはいませんでした。にもかかわらず「行け」と主 は言われるのです。何を意味しているのでしょうか。主は信仰を求められたの であります。信頼と従順を求められたのです。そして、彼らは神の憐れみを信 じて御言葉に従ったのです。彼らは祭司たちに体を見せるために出発しました。 そして、途中で癒されたのです。まさに彼らは信じたとおりになったのでした。
このような、信仰に伴って神の御業が現れたという物語は、聖書の中に数限 りなく見出すことができます。今日の物語に恐らく最も近いのは、列王記に記 されているナアマン将軍の癒しに関する物語でしょう。列王記下5章に、アラ ムの王の軍司令官ナアマンという人物が出てきます。彼はこの十人と同じ、重 い皮膚病を患っていた人でした。彼はイスラエルにいる預言者のことを耳にし、 癒しを求めて預言者エリシャのもとに赴きます。彼はエリシャが出てきて患部 に手を置き、主に祈って癒してくれるものと思っておりました。しかし、ナア マンが家の入り口に着くと、エリシャは使いの者をよこしてこう言ったのです。 「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻 り、清くなります。」ナアマンはこの言葉に憤慨し、立ち去ろういたします。 しかし、家来にいさめられ、預言者の言葉通り下って行ってヨルダン川に身を 浸したのでした。すると彼の体は元に戻り、清くなったのです。病は癒された のでした。
このような旧約聖書の物語が彼らの心の内にもあったのかも知れません。彼 らはあのナアマンと同じように、信頼して従ったのです。ですから、ここで私 たちが見落としてならないことは、彼らは決して不信仰な人々ではなかった、 ということなのです。彼らは信仰によって行動した時に、確かに神の御力を経 験したのです。このような物語は聖書に数多く見ることができます。そして、 今日の私たちもまた経験することであります。現代に生きる私たちもまた、主 に信頼し、主に従って歩み出す時に、様々な場面で神の奇跡を経験いたします。 神は生ける神だからです。
しかし、私たちが知るべきことがそれだけであるならば、今日の物語は14 節までで終わりにしてよいでしょう。しかし、ルカはその先を書き記すのです。 私たちが決して見落としてはならない、もう一つの大切な主題があるからです。 さて、ルカはさらに何を私たちに伝えようとしているのでしょうか。
戻ってきたサマリア人
15節以下をご覧ください。「その中の一人は、自分がいやされたのを知っ て、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏し て感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。『清く されたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人の ほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。』それから、イエス はその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを 救った。』(15‐19節)」
ルカは物語を続けます。ひとりの人が大声で神を賛美しながら戻ってきまし た。その人はサマリア人でした。ほかの九人はどうしたのでしょうか。当然の ことながら、言われたとおり祭司のところに体を見せにいったのです。しかし、 主はこのことに驚いてこう言われました。「清くされたのは十人ではなかった か。ほかの九人はどこにいるのか。」このような箇所を読みますと、私たちは 少々納得できない思いに駆られ、主に口答えしたくなります。「何を言ってお られるのですか、イエスさま。あなたが祭司のところに行けと言ったから彼ら は従順に祭司のところに行ったのではないですか。」そうです。彼らは先にも 申しましたように、主の言葉に従って出発したのです。必ず癒されると信じて 進んだのです。そして、事実、彼らの信じたとおりになったのです。ならば、 あとは主が言われたように、祭司に見せて社会に復帰するだけではないですか。 彼らのどこがいけないのでしょう。
そこで私たちは視点を変えて、なぜあのサマリア人が帰ってきたのかをまず 考えたいと思うのです。単純に考えまして、まず第一の理由は「驚いた」とい うことなのでしょう。もちろん、彼も信じて従ったのです。しかし、その身が 癒された時、神の御業が現れた時、それを当然のこととは考えなかった、とい うことであります。それはもちろん病気の癒しそのものに驚いたということで もあるでしょうが、それにもまして、神が彼を心にかけてくださっているとい う事実そのものに驚いたのだと思うのです。そして、神が恵みを与えてくださ るとするならば、その根拠は自分の側には全くないということに気づいたので しょう。自分の内に優れた何かがあったから、神が病を癒してくださったのだ とは思えなかったのです。それがたとえ彼の信仰であったとしても、その見返 りとして神が彼を癒してくれたとは思えなかったのであります。だから主イエ スのもとに「戻って来た」のです。神の恩寵をいただくのに彼の側に何の根拠 も資格もないとするならば、それはひとえに主イエスを通してであることが彼 に分かったからです。メシアであるイエスのゆえに、その御名のゆえに、彼は 神の恵みに与ったのだということを悟ったから、彼は帰ってきて主イエスに感 謝したのです。その彼の思いは、彼が主の「足もとにひれふして感謝した」と 書かれている言葉からも分かります。
このサマリア人と対比しますと、ほかの九人の問題が明らかになります。な ぜ彼らは主のもとに帰ってこなかったのか。それは癒された彼らにとって主イ エスはもはや重要な存在ではなかったからであります。なぜもはや重要な存在 ではないのか。少なくとも二つの理由が考えられるでしょう。第一の理由は、 彼らの心を占めていたのは「神とわたしとの関係」ではなくて「病気とわたし との関係」であったということであります。彼らの求めの中心は病気が癒され ることにありました。そのために主を求め、そのために神の奇跡を求め、また 癒しという結果を得るために主を信じ、神を信じたのです。彼らは今やその結 果を得たのです。神との関係ではなくて病気との関係が問題であるならば、そ の問題は既に解決したのです。あとは社会に復帰するだけではないですか。だ から彼らはまっすぐに祭司のもとに行ったのです。先にも申しましたように、 それが社会に復帰するための手続きだったからです。彼らにとって、奇跡行為 者としてのイエスは、もう必要がなくなりました。このようなことは、現代に おいてもいくらでも起こり得ることですから、私たちにも十分理解できること でしょう。私たちにとって中心課題が「神とわたしとの関係」ではなくて「悩 み事と私との関係」であるならば、主イエスの存在が私たちにとって意味がな くなってしまうのは当然のことなのです。
そして、癒された彼らにとって主が重要な存在でなくなった第二の理由は、 神の御業を彼らがどのように受け止めたか、ということに関わります。彼らは 奇跡そのものには驚いたでしょうが、しかし、彼らはその神の恵みを受けたこ とを当然のごとくに受け止めたのであります。彼らは恵みを受けるに十分な根 拠を自らの内に見ていたということです。戻って来たのはサマリア人であり、 戻って来なかったのはユダヤ人であったというルカの描写は、その点を象徴的 に表しております。彼らの意識の中にあった根拠とは、彼らの「信仰」であっ たのかも知れません。彼らは信じて従ったのですから。そのように、人は「信 仰」さえも、その見返りとして神の恵みを要求できる人間の業績であるかのよ うに考えてしまうものなのです。そのように考える人から、主イエスへの感謝 が生まれようはずもありません。
病気を癒されたのは十人でした。しかし、「あなたの信仰があなたを救った 」という言葉を聞いたのは帰ってきたこのサマリア人だけでありました。さて、 最初の問いに戻ります。誰が神の国に入り、神の国に生きるのでしょうか。誰 が神の恵みの支配を経験して生きるのでしょう。救われた人とはどのような人 なのでしょう。それは単に神の偉大な奇跡の力を経験した人ではありません。 それは神の不思議な御業によって苦難や重荷が取り去られた人ではありません。 神の恵みを当然のように要求し、それを得る人ではありません。そうではなく て、神の恵みに与る根拠がこちら側にはまったくないことを知る人です。ただ 主イエスを通してのみ、神の恵みに与ることができると知る人であります。そ して、主に感謝し、神を賛美し、神を礼拝して生きる人、その人こそ神の国に 生きる人であり、最終的に神の完全なる救いに与る人なのであります。
(注1)古い版の新共同訳では「らい病」と訳されておりましたが、最新の版 ではいわゆるハンセン氏病との混同を避けるために「重い皮膚病」と訳される ようになりました。この説教では、後者の訳を用いています。