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「不信心な者を義とされる神」

1998年7月12日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ4・1‐12

 「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょ うか。」4章はこのような言葉で始まります。「肉によるわたしたちの先祖」 という言葉を用いていることから、ここでパウロが特にユダヤ人に対して語っ ていることが分かります。自分たちには神の律法が与えられており、それを守 ってきたのだ、という誇りに生きている人々に、パウロは語りかけているので す。パウロがこれまでのところで述べてきたことは、「人が義とされるのは律 法の行いによるのではなく、信仰による(3・28)」ということでした。し かし、神との正しい関係の根拠が人間の行いにはないのだ、という言葉は、自 分の行いを誇りに思い、神の前に良きことを積み上げてきたと考えている人に とっては、まことに受け入れ難い言葉なのです。いつの世においても福音は誇 り高い人にとってはつまずきでしかありません。そこでパウロは、なぜ「信仰 による義」であり「行いによる義」ではないのかということを、共通の土俵に 立って説き明かします。共通の土俵とは聖書です。その聖書に記され、ユダヤ 人が父祖と仰ぐアブラハム、そして真の王として仰ぐダビデを取り上げるので す。さて、旧約聖書に見るこれらの人物において、「信仰による神の義」はど のような形で証しされているのでしょうか。

義と認められたアブラハム

 まず1節から5節までをお読みしましょう。「では、肉によるわたしたちの 先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義 とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書に は何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認め られた』とあります。ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支 払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を 信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。(1‐5節)」

 彼らの父祖と仰ぐアブラハムはまた、彼らにとっては義人の代表でありまし た。彼が神との正しい関係に生きたということに関してはパウロとユダヤ人た ちの間に理解の相違はありません。そこでパウロは、アブラハムが義人とされ るのは何故であるかを語り始めるのです。それはもちろん、聖書に記されてい る事柄です。それはアブラハムの卓越した行為によるのか。神の前に誇り得る 行いによるのか。パウロは「そうではないのだ」と言うのです。聖書には何と 書いてあるでしょう。パウロがここで引いてきますのは創世記15章6節の言 葉です。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた。」義と認 められたのは、アブラハムが何かを行ったからではなくて、神を信じたからだ と聖書ははっきりと記しているのです。

 この意味するところを理解するために創世記15章を開いてみましょう。こ の場面の背景となっているのは、跡継ぎとなる子供が生まれないというアブラ ハムの苦悩です。それは神とアブラハムの関係に関わる苦悩でありました。な ぜなら、神はアブラハムを召された時、こう約束されたからです。「あなたは 生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなた を大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となる ように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪 う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。(創世記12・1‐3) 」アブラハムはこの言葉に従って出発したのでした。それがアブラハムと神と の関わりの始まりだったのです。しかし、大いなる国民にすると約束されなが ら、実際には跡継ぎとなる子供が生まれないのです。神の真実はいったいどこ にあるのか。そのような疑念が胸の内に膨らみます。ですから、15章におい てアブラハムは神に対して文句を言っております。「御覧のとおり、あなたは わたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことにな っています。」神に対してこう言わざるを得ません。彼は老齢です。時が経て ば経つほど望みの火は小さくなります。いや既にほとんど火は消えかかってい るのです。しかし、そのようなアブラハムに対して、神様は言われます。「そ の者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」そ して、アブラハムを外に連れ出して言われました。「天を仰いで、星を数える ことができるなら、数えてみるがよい。」そしてさらに言われます。「あなた の子孫はこのようになる。」

 この場面で神はアブラハムに対して何か目新しいことをしているわけではあ りません。かつて与えられた約束を繰り返しているに過ぎません。創世記を読 みますと、アブラハムに対して神はいつもそうなのです。特別なしるしを見せ るわけでもありません。期待を膨らませる何かを示すとか、確かな希望の根拠 となる何かを与えるわけでもありません。提示の仕方は変われども、結局は同 じ約束を繰り返しているだけなのです。これは何を意味しているのでしょうか。 神はアブラハムに神の言葉を受け入れ、あくまでもその約束を信じることを求 められた、ということであります。つまり、神の真実を受け入れ、神の真実に 信頼し、神の真実にその身を委ねることを求められたのです。言い換えるなら ば、彼に信仰を求められたのです。希望するすべもなかったときに、なおも望 みを抱いて信じることを求められたのです。そして、アブラハムは目の前の絶 望に逆らってあえて主を信じた。そのゆえに聖書はこう語っているのです。 「アブラム(アブラハム)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 (創世記15・6)」

 間違えてならないのは、ここで神が彼の義と認められたのは、彼の信心深さ や敬虔さではないということです。私たちはしばしばいわゆる信心深さと信仰 とを取り違えますので、このことは殊更に重要です。ローマの信徒への手紙に 戻りまして、パウロが何と言っているかに注意して見てください。彼は創世記 の引用をした後で、こう言っているのです。「ところで、働く者に対する報酬 は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信 心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認めら れます。」信心深いことは決して悪いことではないでしょう。敬虔であること は大切なことではあるに違いありません。しかし、アブラハムが義とされたの は、彼が信心深かったからではないのです。むしろ、パウロは大胆にもアブラ ハムを「不信心な者」としているのです。アブラハムを義とされた神は「不信 心な者を義とされる方」なのだと言っているのです。創世記の物語は、パウロ の言葉が決して間違いではないことを証明しています。人間の信心深さや敬虔 さなどは、時と場合によってはいとも簡単に崩れ去ってしまうものです。吹け ば飛ぶようなものでしかないのです。アブラハムにおいても然り。例外ではあ りません。アブラハムは報酬として義を得ることができるような人ではありま せんでした。アブラハムは誇るべき何かを神に差し出して、代わりに義を受け たのではありません。彼が受け取ったのは報酬ではありませんでした。恵みな のであります。ただ神の真実に身を委ね、恵みを恵みとして受け取ったのです。 彼がなおも望みを抱いて信じたというのはそういうことです。その信仰を神は 義と認められたのです。

義と認められたダビデ

 続いて6節以下をお読みしましょう。「同じようにダビデも、行いによらず に神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。『不法が赦 され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない 人は、幸いである。』(6‐8節)

 ここにパウロが引用しているのは詩編32編です。悔い改めの詩編として知 られている歌です。ダビデはまことに神に愛された人でありました。神と共に 歩んだ人でした。そのことについて、パウロとユダヤ人たちとの間に理解の相 違はありません。しかし、それは彼の行いが神によって認められたからでしょ うか。彼が罪を犯すことなく律法に忠実に歩んだからでしょうか。いいえそう ではありません。彼もまた罪人の一人でありました。聖書はダビデの生涯につ いて偽ることなく語っております。彼の罪もまたあからさまに語られているの です。良く知られている出来事の一つは、「バト・シェバ事件」と呼ばれるも のでしょう。これはサムエル記下11章に記されております。ダビデは戦地に ある自分の部下の妻であるバト・シェバと姦淫の罪を犯したのです。そして、 彼女はダビデの子を身篭もったのでした。ダビデは何とかしてこの罪を隠蔽し ようといたします。そして最終的にダビデは、夫であるウリヤを激戦の最前線 に出し、戦死させてしまうのです。ウリヤが死んでバト・シェバはダビデの妻 となりました。こうして確かに彼の罪は人の目からは覆い隠されました。しか し、罪というものは人に対しては覆い隠すことができても、神と自分に対して は覆い隠すことができないものなのです。詩編32編の言葉は、その事実を明 らかにしています。「わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果て ました。御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は夏の日照りにあって 衰え果てました。(詩編32・3‐4)」

 しかし、この詩は次のように続くのです。「わたしは罪をあなたに示し、咎 を隠しませんでした。わたしは言いました。『主にわたしの背きを告白しよう 』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。(詩編 32・5)」彼が神の前に黙することを止め、神に頑なに心を閉ざし続けるこ とを止め、彼は自らの罪を神の前に認めるのであります。具体的には、預言者 ナタンがダビデのもとに送られて罪が指摘されたということがサムエル記下1 2章には記されております。もちろん、神によって与えられたこのような機会 でさえも、彼はひねりつぶそうと思えばできたのでしょう。彼の権力をもって ナタンを抹殺することは可能だったのですから。しかし、ダビデはそうしませ んでした。神の前に罪を告白したのです。いずれにせよ、彼の罪が赦されたの は、行いによるのではありませんでした。彼はただ自分の罪を自分で覆うのを やめて、神の恵みに身を委ねただけです。彼の罪が赦されたのは、ひとえに神 の恵みのゆえでありました。神が罪を覆われたのです。もちろん、神が人の罪 を覆うためにいったい何を為そうとしておられるか、ダビデはその時に知って いたわけではありません。神がやがてキリストを立て、「信じる者のために罪 を償う供え物(3・25)」となそうとしておられたことを彼は知りませんで した。しかし、それでもなお明らかなことは、彼が神の恵みを純粋に恵みとし て受け取ったということであります。神の恵みを知るゆえに、彼は自らの幸い を語るのです。「いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていた だいた者は。(詩編32・1)」このように、彼もまた、行いによるのではな く、信仰によって義とされた人でありました。

この幸いは誰に及ぶのか

 さらにパウロは言葉を続けてこう言います。「では、この幸いは、割礼を受 けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。 わたしたちは言います。『アブラハムの信仰が義と認められた』のです。どの ようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、 割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことで す。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割 礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の 父となり、彼らも義と認められました。更にまた、彼は割礼を受けた者の父、 すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割 礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。(9‐12 節)」

 パウロはユダヤ人たちからなおも出されるであろう反論を想定して語ります。 彼らは言うでしょう。「そのアブラハムもダビデも我々の祖先ではないか。ユ ダヤの民に属する者ではないか。無割礼の者たちと一緒にしてもらっては困る。 ダビデが幸いを語り得たのは、彼が割礼を受けたイスラエルの民だからだ。こ の幸いが割礼のない者にも及ぶわけがないではないか。」しかし、これに対し て、パウロは聖書に明確に記されている事実をもって答えます。アブラハムの 信仰が義と求められたのは割礼を受けてからであるか、それとも割礼を受ける 前であるか。アブラハムが割礼を受けるのは創世記の17章においてです。つ まりアブラハムが信仰によって義とされた時、アブラハムは「無割礼の者」で あったのです。そこでパウロの示す結論は次のとおりです。彼は割礼を受けた 者と割礼を受けない者、ユダヤ人と異邦人の父となった。つまり割礼のないま まに信じるすべての人の父であり、また割礼を受けているだけでなくアブラハ ムの信仰の模範に従う人々の父となったということです。

 そうしますと、9節の問いの答えも自ずと明らかになります。「では、この 幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者 にも及びますか。」もちろん、割礼のない者にも及びます。これは私たちにと っても大きな意味を持つ言葉です。私たち自身は「割礼のない者」です。しか し、アブラハムの受けた幸い、ダビデの受けた幸いは私たちと無関係ではあり ません。行いによらずに神から義と認められた人の幸いは、私たちにも与えら れているのです。私たちが自分の義を誇ることを止め、自分こそ罪人であり不 信心な者であることを認め、「不信心な者を義とされる方を信じる」ならば、 私たちもまた信仰によって義とされるからであります。信仰によって私たちも またアブラハムの子孫とされるのであります。

 
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