「アブラハムの信仰」
1998年7月19日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ4・13‐25
「なぜなら、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による と考えるからです。(28節)」パウロはこれまでこの主題に沿って論じてき ました。なぜ律法の行いではなくて信仰によるのか。そして、そもそも信仰と は何であるのか。これは私たちにも関わる大きな問いであることに間違いはあ りません。パウロは4章に入ってもなお、このことを詳細に過ぎるほど言葉を 尽くして語ります。それは端的に言って「分かりにくいから」であろうと思い ます。簡単に説明して誰もが納得する類のことではないのでしょう。人は「行 いによらざる」という言葉を真に受け入れようとしない一方で、「信仰による 」という言葉をも自分勝手に理解しようとするものです。それはパウロの時代 の人々にしても、私たちにしても変わらないでしょう。ですから、このように パウロが詳細に論じてくれていることは私たちにとっても大変ありがたいこと であります。今日は13節以下をお読みします。アブラハム物語についてのパ ウロの説き明かしを通して、主が「人が義とされるのは行いによるのではなく、 信仰による」ということの意味を真に理解させてくださいますように。
約束と信仰
それでは、はじめに13節から17節までをお読みしましょう。「神はアブ ラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律 法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る 者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止され たことになります。実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところに は違犯もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるので す。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だ けでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたし たちすべての父です。『わたしはあなたを多くの民の父と定めた』と書いてあ るとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる 神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。(13 ‐17節)」
「世界を受け継がせる」という約束は、そのままの言葉では旧約聖書の物語 の中には出てきません。この言葉は神がアブラハムに繰り返された約束の言葉 を総括したものと言ってよいでしょう。その約束の言葉は創世記12章におい て初めてアブラハムに臨んだのでした。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れ て、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あな たを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する 人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあ なたによって祝福に入る。(創世記12・1‐3)」創世記11章までには、 神から離反した呪われた世界の現実が描かれております。しかし、その呪いの ただ中において神はアブラハムを選び、祝福の約束を与え、救いの歴史を開始 されたのです。そして、パウロが引用しているように、創世記の17章に入っ て次のような言葉が与えられます。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。 あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラ ハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。(17・4 ‐5)」アブラハムとその子孫は自ら神の祝福にあずかり、そして神の祝福を すべての民にもたらすものとなるのです。そしてアブラハムは祝福の源として 多くの国民の父となる。これが終末における希望として理解されるところから 「世界を受け継ぐ」という言葉が出てきたのでしょう。すなわちアブラハムを 父とする者たちが、最終的に救われた世界の世継ぎとなるということでありま す。それは彼ら自身が救いにあずかることに他なりません。
パウロは「その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいて なされたのです」と語ります。確かにそのとおりです。アブラハムが律法の要 求を満たしたから、約束の言葉が与えられたのではありません。アブラハムの 行いに対する報酬として、この約束の言葉が与えられたのではないのです。そ もそも、神の約束されたことの途方もないその大きさを考えます時、それが人 間の行いに対する報酬でないのは当然のことと言えるでしょう。この時、アブ ラハムには多くの子孫どころか、一人の息子もいませんでした。しかも、父の 家を離れて旅立てばカナンの地をさまよう一寄留者に過ぎません。そのアブラ ハムが地上の氏族にとって祝福となり、多くの国民の父となり、その子孫が世 界を受け継ぐ者となると語られているのです。明らかに神の約束し給うたこと は報酬ではなくて恵みでした。大いなる恵みでありました。
恵みに対する相応しいあり方は、信仰以外のものではあり得ません。これが 重要な点であります。それは身近な経験から不完全ながらも類推できることで しょう。私はその昔、ソフトウェア会社でアルバイトをしていたことがありま した。時給は九百円でした。当時としては大変よい条件でした。しかし、私は これを当然のごとく受け取ります。なぜならその契約で働いたからです。どれ ほどよい条件であったとしても、それは報酬であり恵みではありません。しか しもし仮に、会社の人が何らかの理由で私に「一億円を差し上げましょう」と 言ったなら、私はまさかそれをアルバイトの報酬とは考えないでしょう。私に は、その人を信じるか信じないかのいずれかしかないわけです。そして、もし その人が本気なら、私にただ信じることだけを求めるでしょう。
同じように、明らかに報酬ではなくて恵みとして与えられるものに対しては、 それを得るための行いではなく、ただ信じることが求められるのです。ですか らアブラハムに求められたのは、ただ「信じる」ことだけであり、信じて受け 止めて出発することであり、そして約束し給うた方の真実に信頼し続けること でありました。神の与え給うものを小さなものと考える人は、自分の行いによ って獲得しようといたします。しかし、途方もなく大きな約束であり、恵み以 外の何ものでもないことが分かっている人は、ただ信じるしかないことを知る のです。それゆえ、パウロはさらに「律法に頼るものが世界を受け継ぐのであ れば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります」と語り ます。神が約束されたものは、律法の行いの報酬として得られるようなもので はないからです。行いによって得なくてはならないのなら、誰も約束されたも のを得ることはできないので、約束は廃止されたのも同じということになるの です。いや、そもそも律法を行って何かを得られるどころか、律法は私たちの 違反を明らかにするだけなのです。私たちがいかに罪深い者であるかを明らか にするのです。報酬を言うならば、神の怒りこそ私たちの受くべき分であるこ とを律法は明らかにするのです。以上のことから、約束にあずかるのは律法の 行いによるのではないことは明白です。約束にあずかる「アブラハムの子孫」 となるのは、彼の信仰に従う者以外の者ではありません。そして、神が「わた しはあなたを多くの民の父と定めた」と言われたとおり、彼は単にユダヤ人の 父ではなく、多くの民の父となりました。アブラハムの信仰の模範に従う多く の民の父となったのです。私たちもまたアブラハムの信仰の模範に従うなら、 約束を受け継ぐ彼の子孫となるのです。
アブラハムの信仰
では、アブラハムの信仰とはいかなる信仰であったのでしょうか。パウロは そのことを18節以下で明らかにしております。「彼は希望するすべもなかっ たときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と 言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百 歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せな いと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って 神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美し ました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していた のです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。(18‐22節)」
アブラハムの信仰については既に17節でも次のように語られておりました。 「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラ ハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」それはいったい何 を意味するのでしょうか。アブラハムは希望するすべもなかったときに、なお も希望を抱いて信じたのだ、とパウロは言うのです。「希望するすべもなかっ たとき」と訳されている言葉は「希望に逆らって」とも訳せる言葉です。人間 が自然にして抱くことのできる希望が失われてしまう時があります。木が枯れ ていくように、希望が枯れていくことがあるのです。しかし、アブラハムはそ のような消えゆく人間的な希望に逆らってなおも信じたのだ、と書かれている のです。
アブラハムは決して夢想家ではありませんでした。アブラハムの希望が枯れ ていったのは、彼が現実を直視したからです。彼は現実に目を閉ざして生きる 者ではありませんでした。あえて見ないでおこう。あえて考えないでおこう。 そうやって生きる者ではありませんでした。「そのころ彼は、およそ百歳にな っていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知 りながらも…」と書かれています。「体が衰えており」という部分は直訳する と「既に死んでいる」と書かれているのです。「サラの体も子を宿せない」と いう箇所も原文では「サラの胎は死んだ状態だ」と書かれているのです。「死 」という言葉はそれが比喩的に用いられるにせよ、文字通りの意味で用いられ るにせよ、人間の絶望を伴う言葉であります。しかし、アブラハムは絶望しか ないことを認めた上で、なおも神を神としたのです。神を神として賛美したの です。神に栄光を帰したのであります。
それは、「神は約束したことを実現させる力もお持ちの方だ」とあえて信じ ることに他なりませんでした。アブラハムは失われゆく人間的な希望を後目に、 神を信じて望みを抱いたのです。もちろん、これは簡単なことではありません でした。創世記を読みますと、アブラハムはいわゆる「信仰の勇者」ではあり ません。神の約束を信じられなくて、神の前でひれ伏しながらも心の内で密か にそれを笑ったことさえありました。(創世記17章17節)しかし、そのよ うな彼に、神は約束の言葉を語り続けたのです。彼は神の言葉に支えられなが ら神の約束を信じたのでした。そのようなアブラハムを聖書は、「死者に命を 与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」を信じた者として記し ているのです。そのような信仰が義と認められたと記されているのです。
わたしたちの信仰
このようなアブラハムの信仰に従う者が、神の約束にあずかる彼の子孫とな るのです。それゆえ、「それが彼の義と認められた」という言葉もまた、単に アブラハムのためだけに記されているのではありません。私たちのためでもあ るのです。23節以下をご覧ください。「しかし、『それが彼の義と認められ た』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたした ちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活 させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたち の罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたので す。(23‐25節)」
私たちもまた、現実を直視するならば、絶望するしかありません。どこまで も醜く、汚く、全く罪に支配されている人間の現実、そして逃れがたい力をも って支配する死に完全に捕らえられてしまっている自らの現実を直視する時に、 私たちが自然に抱くことの出来る希望など、木っ端微塵に打ち砕かれてしまい ます。であるならば、見たくないものには目を閉ざし、考えたくないことは思 考の隅に追いやり、自らを誤魔化して生きていくしかないのでしょうか。そう やって辛うじて望みを繋ぎながら生きていくしかないのでしょうか。いいや、 そうもいかないでしょう。人は遅かれ早かれ、人間が何であるかということを 直視せざるを得なくなる時が来るのです。この世に属する希望は失せていくも のです。
ならばどうしたらよいのでしょう。アブラハムは失われゆく望みに逆らって、 なおも望みを抱いて信じたのでした。「死者に命を与え、存在していないもの を呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父 となったのです。」それは私たちにとっては何を意味するのでしょうか。わた したちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じるということに他なりま せん。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とさ れるために復活させられた(25節)」と書かれております。私たちが義とさ れるための全てが既に成し遂げられました。キリストの十字架と復活において、 すべては成し遂げられているのです。私たちの罪の解決も死の解決も、既に備 えられているのです。私たちもまた、アブラハムの子孫として、罪と死から救 われ、神の支配し給う世界を受け継ぐことが許されているのです。これは確か に途方もない恵みの約束に思われます。それこそ、私たちが自分の行いの見返 りとして手に入れることができるようなものではありません。それは報酬とし てそこにあるのではなくて、本来、私たちのまったく手が届かないような、遙 かに大きな、遙かに豊かな恵みなのであります。それは恵みなのですから、た だ「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だ」と信じるしかありま せん。約束してくださった方の真実と御力に信頼するしかありません。信じて 受け取るしかないのです。そして、それが正しいことなのです。このことに関 しては、自分の行いをもって神と取り引きすることは、全く正しいことではあ りません。それは愚かなことです。それは一億円を一日8時間のアルバイト代 として受け取ろうとするようなものです。
それゆえ聖書ははっきりと「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させ た方を信じれば、わたしたちも義と認められます」記しているのです。こうし て、私たちもまたアブラハムの信仰の模範に従い、アブラハムと同じように義 と認められ、信仰によるアブラハムの子孫となり、共に約束にあずかる者とな るのです。