「苦難・忍耐・練達・希望」
1998年7月26日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ5・1‐11
「艱難汝を玉にす」という言葉があります。「人間は苦労を経験して、初め て立派な人物になることができる」という意味です。また「堪忍は一生の宝」 という言葉もあります。「忍耐することは幸福の基であるから、忍耐を要する 経験は大変貴重なものである」という意味です。このように、苦しみを肯定的 に評価する思想は決して珍しくはありません。今日、私たちはローマの信徒へ の手紙5章をお読みしました。この3節と4節も、一見すると似たような言葉 です。「そればかりではなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知ってい るのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」 しかし、世の中には「似て非なり」ということもありますから、このような聖 書の言葉には注意が必要です。ここに語られているのは本当に「艱難汝を玉に す」の類なのでしょうか。
私たちが改めてここを読みます時、すぐに気づくことがあります。これは言 葉として良い言葉だけれども、現実にはそうはいかない、ということです。艱 難必ずしも汝を玉にしません。そうではないですか?苦難は忍耐を生みだし、 忍耐は練達を生み出すでしょうか。その練達は希望を生み出しますか。「苦難 は不平や不満を生みだし、不平や不満は腐った品性を生みだし、腐った品性は 絶望を生み出す」。これが一般的な経験ではないでしょうか。5節には「希望 はわたしたちを欺くことがありません」と書かれています。本当にそう言える でしょうか?むしろ人はいつだってはかない希望に欺かれ続けているではあり ませんか。いったい私たちはこのようなパウロの言葉をどのように受け止めた らよいのでしょう。どうしたら、パウロの語るような、苦難から希望へと至る プロセスの中に生きることができるのでしょうか。
神の栄光にあずかる希望
そこでまず5章1節から5節までをお読みしたいと思います。「このように、 わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリ ストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに 信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そ ればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦 難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたした ちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛が わたしたちの心に注がれているからです。 (1‐5節)」
最初の1節から既に明らかなことがあります。パウロは世の中の一般的な経 験を語っているのではない、ということです。信仰に関わることを語っている のです。正確に言いますと、「信仰によって義とされた者」として語っている のです。これまでのところでは「人が義とされるのは律法の行いによるのでは なく、信仰による(3・28)」ということが論証されてきました。ここから は「信仰によって義とされた者の生とは何であるのか」「信仰によって義とさ れた者として生きるとはいかなることか」ということが論じられていきます。 それゆえ、この手紙において、ここから新しい区分に入ると見ることもできる でしょう。そこでまず語られますのが「神との間に平和を得ている」というこ とであります。確かに「義とされる」ということは「神との間に平和を得る」 ということに他なりません。罪のもとにあって神との平和を失っていた者が、 神との正しい関係の中に回復され、神との間に平和を得ることです。そうしま すと、先に挙げた「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を」という言葉 も、「神との平和」との関連で語られていることが分かります。つまり、それ は一般的な原則ではなく、「神との平和」を得て初めて自分のものとすること のできる言葉として語られているのです。
では、その先を少しずつ読み進んでまいりましょう。「神との平和」はまず 何をもたらすのでしょうか。「神との平和」は希望をもたらすのであります。 パウロは、神との平和を得ている自分自身を次のように表現しています。 「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光 にあずかる希望を誇りにしています。(2節)」
ここに書かれています「今の恵み」を直訳すると「その内に私たちが立って いるところの恵み」となります。あたかも「恵み」という何か大きな家の中に 立っているかのような表現です。「導き入れられ」という言葉からは、王の宮 殿のようなものを連想させられます。いずれにせよ、パウロはその中に当然の ごとく立っているのではありません。「このキリストのお陰で」と書かれてお ります。通路はキリストが開いてくださいました。わたしたちの罪のために死 に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた主イエスが、恵みへ の扉を開いてくださったのです。そして、開かれた扉を通って、恵みの中へと 導き入れられたのです。わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に 平和を得たというのは、いわばキリストを通して恵みという大きな家に導き入 れられたということです。
そして、また「信仰によって」と書かれております。信仰によって導き入れ られたのです。そこには信仰が必要でした。どのような信仰でしょうか。4章 18節によるならば、それは「希望するすべもなかったときに、なおも望みを 抱いて、信じ」た、アブラハムの信仰と同じ信仰です。なぜなら、恵みという 家の外には希望がなかったからです。なぜ希望がなかったのでしょうか。人に は罪があるからです。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなってい ます(3・23)」という言葉を思い起こしてください。罪ある私たちは誰も 神の正しい裁きに耐え得ません。裁きに耐え得ないということは、行き着く先 は滅びしかないわけです。永遠の命にあずかることはできません。神の栄光に あずかる希望はないのです。神の栄光にあずかる希望がないということは、最 終的に何の希望もないということを意味します。なぜなら、私たちが目の前に 希望として抱いているものは、皆やがて過ぎゆくのですから。
しかし、そこにキリストが扉を開いてくださいました。私たちは希望するす べもない者であるには違いないのすが、なおも望みを抱いて、信じて、その信 仰によって導かれながら、恵みの内に入ることが許されているのです。パウロ はそのようにして、既に恵みの中に導き入れられた者として語っています。そ の幸いを次のように表現しているのです。「神の栄光にあずかる希望を誇りに しています!」そうです、神との平和を与えられ、恵みの内にある人は、もは や神の栄光にとどかない者ではありません。希望のない者ではありません。神 の栄光にあずかる希望を大いに喜んで生きることができるのです。
それゆえ、さらにパウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」と 言うのです。神の栄光にあずかる希望だけが、苦難を大いなる喜びに変えるこ とができるからです。その理由が3節と4節に記されています。苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むからです。どうして苦難が忍耐を生むのでし ょうか。それは希望があるからです。目先の希望ではありません。最終的な希 望があるからです。どんなことがあったとしても最終的に神の栄光にあずかる ことを知っている人は忍耐することができます。ここで「忍耐」というのは、 単にいやいや我慢することではありません。そうではなく積極的に留まること を意味します。逃げ出さないで、投げ出さないで、そこに留まる。それがここ に語られている忍耐です。希望がない人は留まることができません。逃れるこ とばかり考えます。希望こそ苦難から忍耐を生み出させる源なのです。
そして、忍耐は練達を生み出す。この「練達」という言葉は、精錬され、不 純物が除かれた金属を表現するのに使われる言葉です。同じように、忍耐を通 して、人はその生活から、人生から不純物を取り除かれ、純化されていきます。 このようにして人は神の栄光にあずかるその時に向けて備えられていきます。 それゆえ、練達は新たに希望を生むのです。こうして神の栄光にあずかる希望 が益々確かにされていきます。なんという壮大な循環過程でしょうか。このよ うな良き循環を支えるのは神の恵みの内にあるという認識です。そして、恵み の内に生きる者の心に注がれる神の愛です。苦難の中にあってなお、その心の 中に注がれる神の愛です。その愛があってこそ、希望は苦難を契機としてなお 確かな希望を生み出すのです。ですからパウロは神の愛に基づいて確信をもっ て次のように宣言するのです。「希望はわたしたちを欺くことがありません。 わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれてい るからです。」
希望をもたらした神の愛
そこで、パウロはさらに「神の愛」の何たるかを説き明かし、希望の根拠を 明らかにしてまいります。6節から8節までをご覧ください。「実にキリスト は、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死 んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のため に命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人 であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、 神はわたしたちに対する愛を示されました。(6‐8節)」
パウロがここで語ろうとしているのはキリストのことです。ナザレのイエス というお方としてこの地上を歩まれ、十字架にかかられて死なれた方のことを 語り始めるのであります。これは何を意味するのでしょうか。「聖霊によって 心に注がれる神の愛」というのは、単に私たちの感覚的な経験を意味している のではない、ということです。「なんとなく神様の優しさを感じた」という類 のことではないのです。神の愛は、この世の歴史の中にただ一度起こったあの 出来事と分かち難く結びついているのです。
「キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたし たちに対する愛を示されました」とパウロは語ります。神の愛はどこにおいて 示されたのか。それは十字架においてでありました。「正しい人のために死ぬ 者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれま せん。(7節)」これが人間の理解できる限界です。自分自身が価値を見出す ことができるもののためになら命を捨てることができる。それは理解できます。 しかし、キリストにおいて示された神の愛とはそのような限界を越えています。 価値ある者のためではなく価値なき者のために、義人のためではなく罪人のた めに、キリストは死んでくださいました。私たちが信心深かったからではあり ません。私たちが強く、正しい人間であったからではありません。弱く、不信 心であり、罪人である私たちのためにキリストは死んでくださったのです。そ れは私たちが赦されて義とされるためでありました。それは私たちが神と和解 させていただくためでした。私たちが神との間に平和を得るためでありました。 このキリストの十字架にこそ、神の愛は示されたのです。
5節に語られている神の愛とは、この愛に他なりません。つまり、聖霊によ って心に神の愛が注がれるということは、十字架において示された神の愛が分 かるということなのです。時間的にも空間的にも離れているあの出来事の中に 神の愛を見、その愛をもって今この私もまた愛されているのだ、ということが 分かるということなのです。それは決して当たり前のことではないでしょう。 それは人から出てくることではありません。神だけが為しえることであります。 それゆえ「聖霊によって」なのです。
そして、このように聖霊によって、十字架における神の愛を示された者こそ が、確かな希望をも得るのであります。パウロは9節以下で次のように語って おります。
「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、 キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であっ たときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解 させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだ けでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇り としています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。 (9‐11節)」
神の愛が注がれ、神と和解させていただいたことを喜ぶことができるならば、 最終的に待ち受けているのは神の怒りではないことを確信することができます。 私たちの行き着くところは完全なる救い以外の何ものでもないことを知るので す。ですからパウロは「わたしたちは神を誇りとしています」とさえ言い切る のです。これは神を絶対的な味方として見ることができる人だけが語ることの できる言葉であるに違いありません。現在においても、将来においても、敵で はなく絶対に味方である方として神を見る者としてパウロは語っているのです。 これがパウロの語ってきました「神の栄光にあずかる希望」の根拠なのであり ます。すなわち、苦難から忍耐へ、忍耐から練達へ、練達から希望へという循 環の中に生きることを得させる、完全なる希望の根拠なのです。
5章に入り、このようにパウロは信仰によって義とされた者の生を語り始め ました。彼はこれらのことを「わたしは」と表現するのではなく「わたしたち は」と表現しています。すなわち、これは信仰によって義とされた者すべてに ついて語られていることなのです。信仰によって義とされて、私たちもまた、 パウロがそうであったように、神との平和を得て生きることができます。神と の平和を得て、私たちもまた、パウロがそうであったように、神の栄光にあず かる希望を誇りとして生きることが許されているのです。神の栄光にあずかる 希望を誇りとして、私たちもまた、パウロがそうであったように、苦難から忍 耐へ、忍耐から練達へ、練達から希望へという、神の愛によって支えられたプ ロセスの中に生きることが許されているのであります。