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「主の恵みの年」

1998年8月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 東京神学大学修士1年 桑 満欣神学生説教
聖書 ルカ4:16‐30

 今日、わたしたちはまず、イエス・キリストが言われた言葉に感謝をしまし ょう。そして、主が与えて下さった、その救いにひとすら耳を傾けたいと思い ます。

 主イエス・キリストはこう言われました。「この聖書の言葉は、今日、あな たがたが耳にしたとき、実現した」。

 何が実現したのでしょうか。主はこの聖書の御言葉が実現したのだと言われ ます。それはすぐ前で主イエスが読んだ聖書の箇所のことです。17節に預言者 イザヤの巻物が渡され、とあります。そう、主イエスが読んだ聖書の箇所は、 イザヤ書にあるものです。イザヤ書はわたしたちのこの持っている旧約聖書の 中にあるもので、預言書の一つとなっています。預言者というのは、神様の言 葉を受けて、人々に語る役目を持っていました。ただ、その言葉がみんなにと って良いものであったり、都合の良いものであったりしたなら、人々はたぶん 受け入れたのでしょうが、預言者の伝えた神様の言葉は、警告であり、また裁 きであり、滅びの宣告でありました。

 預言者のいた時代というのは、イエスがこのわたしたちの世に受肉されて来 られるよりも前の、500年以上前のことです。その当時、イスラエルは今や滅び ようとしていた時代でした。当時の人々にとって自分の国が滅びると預言する 預言者たちを信じたくありませんでした。だから多くの人々は預言者の言葉を 信じず、ただ自分たちの力で何もかも行おうとし、自分たちの神様すらないが しろにしてしまいました。

 しかし、結果はどうであったか。イスラエルは滅びてしまいました。人々は 当時の大帝国であったバビロンにつれて行かれました。人々は預言者の言葉が 実現したのをしり、そして預言者の言葉が真実であったことを知りました。お そらく人々は絶望したでしょう。おそらく希望を失い、落胆し、もうどうしよ うもないと後悔したでしょう。なぜあのとき預言者の言うとおりにしていなか ったのだろうか。神様に心から仕えなかったのだろうか。彼らの絶望は言い尽 くせないほどのものだったでしょう。もう自分の国すらなくなってしまったの です。預言者の言葉が実現したのです。彼らは預言者の言葉を悲しみをもって 読んだかもしれません。

 預言者の言葉が実現した。けれども、ここに大きな希望も残されていました。 預言者の言葉は滅びの宣告、裁きの言葉以外に、希望についても語っていたの です。預言者の言葉の中には、イスラエルが再び国に帰ることができるという 預言もありました。そして確かにそれは実現しました。またさらにメシア、救 世主がきて、人々を解放して下さるという希望もありました。人々はそれ以来、 メシアを待ち望むようになりました。きっとその方が自分たちをさまざまな苦 しみや悲しみから解放して下さって、再びイスラエルの国を打ち立てて下さる と信じていました。

 今日読みました聖書の箇所の、預言書イザヤの巻物にある言葉、すなわち18 節と19節にある言葉は、そのメシアを待ち望む希望となる一つの箇所でした。 18節を読みますと「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知 らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」とあります。主がわた しに油注がれた。この油注がれたものというのが、メシアという言葉の意味な のです。先ほど言いました、何百年も前のイスラエルという国があったとき、 王さまや祭司が就任するとき、頭に油を注がれました。そのように油注がれる ものは王であるいうことが分かります。そして人々はメシアを、すなわち油注 がれたものを待ち望んでいました。そう彼らは自分たちを解放してくれる王を 待ち望んでいたのです。当時彼らを支配していたのはローマ帝国でしたから、 彼らにとってまさにメシアとは解放する方、新しい国を打ち立てる王を意味し ていました。

 そして確かにそれはある意味で、当然のことでした。先ほど読みました18節 からをもう一度さらに読んでみたいと思います。「主の霊がわたしの上におら れる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたから である。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見え ない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告 げるためである。」

 まさにここには解放の宣言が書かれています。油注がれたもの、メシアは解 放と自由を行うとあるのです。

 さらに19節にあるようにメシアは、主の恵みの年を告げるとあります。

 この恵みの年というのは、ヨベルの年だと言われています。ヨベルの年とは 何か。これは旧約聖書の中でレビ記という書物があるのですが、そこではいろ いろな規定やおきてが書かれています。そしてそのおきての一つとしてヨベル の年の規定が書かれています(レビ25)。そこでヨベルの年というものがどのよ うに規定されているかというと、一言で言えばすべての解放の年であると言え ます。それはたとえば、奴隷が解放される年であり、すべての借金が帳消しに される時です。すべてが自由に、すべてが解放される年なのです。それは規定 によれば50年ごとに、守るように定められています。ただそれが本当にしっか りと守られていたかというと、実際には難しかったようです。しかしそのヨベ ルの年、本当の解放の時、本当の恵みの時が今や、あなたがたが耳にしたとき に、実現した、と主が言われたのです。

 人々は喜びにあふれたでしょう。ほめたたえ、讃美をしたでしょう。22節に あります。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚い」た。

 ここまでくれば、普通に考えたら、喜びに満ちあふれたものになるはずなの に、しかしながら、ここから場面は急展開します。突然喜びから非難と怒りに 満ちたものとなるのです。

 人々はイエス・キリストの言葉をほめたたえながらも、このように言いまし た。「この人はヨセフの子ではないか」と。

 主は人々に対して一つのことわざをひきながらこう言われました。「はっき り言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」

 一般的に故郷というと、自分の住んでいたところのことを言います。確かに 主イエスが話をしておられた場所は、主がふるさととして住んでいたナザレと いう町でした。しかしながらここではもはや、単なる生まれ故郷というだけの 意味で、使っているのではないのです。ここで故郷というのは、むしろさらに 自分の属している民族、同胞、すなわちユダヤ人全体を指しているのです。昔 の時代、預言者が活動していたとき、その言葉の相手はイスラエルの王国の人 々、すなわち、ユダヤ人たちでした。ユダヤ人に対して預言者は語りかけ、ま た立ち返るように呼びかけ、また警告をしました。しかしながら、人々は預言 者の言葉に耳を傾けませんでした。今日の聖書の箇所でも、二人の人物が出て きます。エリヤとエリシャです。

 25~26節。「エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に 大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその 中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとに だけ遣わされた」

 このシドン地方のサレプタというのは、実はイスラエルの人々の町、すなわ ちユダヤ人の町ではなく、異邦人の町でした。つまり、大飢饉が起こったにも かかわらず、そのとき神様がエリヤを遣わした先は、イスラエル人ではなく、 イスラエル人ではない人の所だったのです。その時に神様の助けが与えられた のは、異邦人だったのです。主イエスはここで、神様の恵みがイスラエル人の 特権ではなく、むしろ心かたくなな彼らよりも、異邦人に与えられることを示 しました。

 また次のエリシャの例も同様です。「預言者エリシャの時代に、イスラエル にはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清 くされなかった」

 これを聞いていた人々は、憤慨し、怒りました。自分たちこそ聖書に仕える 民であり、自分たちこそその救いに入れられるもの、自分たちこそ主の救い、 メシアを待望している民であると信じていたのに、その自分たちの信じていた 聖書の言葉によって、逆に非難されてしまったからです。彼らはまさか自分た ちが、自分たち自身の聖書によって訴えられるとは、思いもよらなかったでし ょう。それだからこそ彼らは、怒りに満ち、そのような訴えをする主イエスを 殺そうとまでしたのです。

 彼らの目の前で、あれほどすばらしい話をしていたにもかかわらず、彼らの 心はかたく、主の御言葉を受け入れていなかったのです。彼らは最初の態度と とは全く逆になり、讃美の態度から、突然怒りに満ちた群集へとかわってしま ったのです。

 では、主が最初に語った御言葉は何だったのでしょうか。最初人々が感嘆し ながら聞いた言葉、そして主の話されたことは何だったのでしょうか。もう一 度その言葉を読んでみたいと思います。18節から。

 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、 主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわ れている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人 を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の 者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実 現した」と話し始められた。

 今日、この聖書の言葉は実現した。この主の恵みの年が実現した。このすべ ての自由と解放を告げるヨベルの年が実現した。この主イエスの宣言は何だっ たのでしょうか。ただ彼らの怒りを招くためだけのものだったのでしょうか。 主の恵みの年とは一体何なのか。またそれが実現したというのは何だったので しょうか。

 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」

 この言葉は決して意味のないものではありません。いやむしろこれこそ主が この世に来て下さった理由。これこそ主イエスの御業の要約。すべての聖書の 示す福音の真理。まことの救いなのです。これは決して怒りを招くためだけの きっかけの言葉でもなく、またこんなに恵みの言葉を語っているのに、受け入 れられなかったというだけの話なのではないのです。主の恵みの年が今や実現 した。預言者によって示されていた待望の時が、今やここに来たのだ。すべて の解放が、すべての憐れみが、すべての愛が、すべての神様の御心が本当にこ の時、実現したのです。主の恵みの年が来た。そして主ご自身がそれをみずか ら宣言したのです。救いの宣言がまさにここに主ご自身の口から与えられたの です。わたしたちの目の前で、救いの宣言がなされた。神の恵みの御業が行わ れた。主の御心が示された。この主の宣言はまさにここになければならない。 もしなかったならば、わたしたちは生きてさえゆけないほどのことなのです。 そしてそれが今やここに宣言されているのです。

 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」

 ではこの実現したと言われる主の恵みの年とは一体何なのでしょうか。何が 実現したのか。それはすべてが解放されるときだと言います。すべてが安息す るときだと言います。それは神様によって与えられる祝福の時、神様の愛に満 ちあふれた救いの時だと言えるでしょう。今や神様の救いが与えられた。しか も真の救いが、永遠の救いが実現したというのです。主が宣言なさったのは、 この救いでした。しかしこの宣言によって主はそれから何を行ったでしょうか。 ただそこで宣言されただけだったでしょぅか。突然会堂に立ち、救いが今日こ こに来たと宣言しただけだったのでしょうか。決してそうではない。主イエス ・キリストの歩みがまさにこの宣言から始まったのです。この宣言で終わった のではなく、この宣言から始まったのです。その歩みはどこへ向かっていった のでしょうか。それはまさに十字架への道でした。主はこの宣言から十字架へ と向かっていったのです。それはすべての人々の罪のために、そのあがないの 犠牲として捧げられるためであり、またそこで罪からの勝利を勝ち取るためで ありました。

 解放という言葉はさまざまな意味を持っています。自由という言葉はさらに 多くの意味を持っているでしょう。いろいろな所で自由という言葉が使われま す。それは確かにすべて正しい用法なのかもしれません。自由という言葉は、 言い尽くせないほどの用例があるでしょう。

 ここで彼らが理解していた解放とは何だったのでしょうか。彼らが理解して いた主の恵みの年、ヨベルの年はどのような自由だったのでしょうか。彼らは 再びイスラエル人のみの王国が立てられることを待望していました。ローマ帝 国の支配から自由にされて、自分たちの国を建てること。そのためにメシアが 与えられるのだと理解していました。しかし、主イエスの言われた救いの宣言 は決してそのようなものではなかったのです。主の宣言された救いとは、主が 十字架の死と復活によって勝ち取ったものは、まさに罪という最も根深く、最 もしつこく、最もわたしたちに身近なもの。そこからの解放だったのです。こ の世での国とか、この世でのしがらみとかではない。さらにそれらをしばって いる根本的なもの、人がそれゆえにこそ死んでしまう「罪」というものからの 自由だったのです。

 この罪についてわたしたちはどのように理解しているでしょうか。これにつ いての理解が、主の救いの意味をも明らかにするでしょう。またその罪の理解 によってこそ、この主の救いの宣言も明確に分かってくるでしょう。  会堂で聞いていた人々はどうだったでしょうか。彼らの求めていたのは、結 局この世のことがら。彼ら自身は救いについてどのように考えていたのだろう か。主がその救いが異邦人の所に与えられると言われたとき、彼らは憤慨して、 主イエスを殺そうとまでしました。彼らは彼らの手で救いを手に入れようとし、 それにあわなければ救いすらもみ消そうとしました。しかし主はそのように憤 る人々の間を通り抜けて行かれました。どうしてそれができたのだろうか。山 の崖までイエス・キリストを追いつめていったのに、聖書は、まるで何事もな かったように、主がそこを通り抜けていったと書いています。なぜか。それは 今日読みました聖書の箇所のほんの少し前に書いてあることが実現するためで した。4章10節から。

 「というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命 じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たるこ とのないように、天使たちは手であなたを支える。』」

 わたしたちはどうなのでしょうか。主の救いと言われたとき、どのようにわ たしたちは理解しているでしょうか。また「罪」と言われたとき、わたしたち はどのように理解しているのでしょうか。これはとても難しく、とても分かり にくいことなのかもしれません。しかし、もし分かりやすく言うならば、こう 言えるのではないでしょうか。罪によってわたしたちは神の御前に立つことが できなくなってしまった。もしわたしたちが罪のまま神の御前に立つならば、 おそらくそれは神の裁きの前に立たされることと同じでしょう。主は十字架に つけられ、死んで三日目に復活し、そして天に昇り、今や父なる神の右の座に ついておられます。そして、神様の定められたとき、すなわち終末の日に再び 来られます。この時に、わたしたちは神様の御前に立たされます。神様の御前 に立たされるとき、わたしたちはそこで恐怖にふるえ、恐れ、こわくなるでし ょうか。もしそれがまさに裁きの座ならば、わたしたちは決して立つことすら できない。ただ恐怖に打ちひしがれるだけでしょう。それこそ罪の本質です。 神の前に立つとき、それは死を意味するのです。

 しかし、主によって罪をあがなわれたということはどういうことか。主によ って罪から自由にされた。救いへと解放されたというのは全くこれとは逆のこ となのです。神の御前に立つこと、それこそもっとも待ち望んでいたこと、神 の愛が行われることとなるのです。なぜならば、神の御前においてわたしたち は赦されたものとして立つからです。わたしたちの力によるのではない。ただ 御子イエス・キリストのあがないの業によって、まさに神の愛の御業によって だけで、わたしたちはそこに立ち、そして神を「父」と呼ぶことが赦されてい るのです。「主よ」と呼びかけることができる。「アッバ父よ」と叫ぶことが できる。主に向かってアーメン言うことができる。今わたしたちが礼拝に集い、 主の前で、主に向かって礼拝を捧げることができる。それはまさしく主の救い のみがなしうること。ただ主がその憐れみによってそれをして下さったのです。

 わたしたちは神の裁きしか待つことのできないものであった。主イエス・キ リストはまさに恵みとして、恵みの年の到来して、しかもわたしたちに何の支 払いも要求することなく、ただみずからを神様にあがないとして捧げられたの です。

 わたしたちはいつもなにも分からずにさまよってしまう。どうして今ここに いるのだろう。今わたしは何をしているのだろうか。本当に悩むし、本当に悲 しむ。悲しみのどん底の中で何が救いなのか分からなくなることさえあります。 しかしそのようなときこそわたしたちは、そのような自分が、そんな自分が神 様の前に立つことができる。神様に向かって祈ることができる。神様の愛をた だ求め続けることができる。そのようなものであることを知るのです。

 主の救いが今やここで実現した。主の十字架の死と復活とが今やわたしたち に与えられた。そしてさらに主の救いの宣言がすべての地で響きわたる。なぜ ならば主イエス・キリストの救いがすべての人に与えられようとしているから です。主は復活した後、弟子たちにこう言われたのです。

 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼 らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを すべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと 共にいる」と。

 すべての民を。そう主は言われました。わたしたちもすでにその中に数えら れている。今やわたしたちはこの主の救いの宣言、主の恵みの年の告げ知らせ を聞いているからです。

 ではユダヤ人たちはどうなったのでしょうか。彼らは最初、主イエスを殺そ うとまでしました。しかも事実十字架によって殺したのです。

 しかしここでの宣言はまず彼らに語られているのです。イスラエルの人々に 対して主はこの宣言をしたのです。まさしくこの21節でいわれている「あなた がた」とはユダヤ人のことです。ただ救いはこのユダヤ人が主イエス・キリス トを拒んだ故に、異邦人にも与えられることとなったのです。そしてさらにこ の主の救いはこのユダヤ人にも与えられることとなったのです。この問題につ いて、とくに論じているのがローマの信徒への手紙です。いつかそのようなこ とを考えながら読んでみて下さるとよいと思います。

 しかし、今日、今日わたしたちはただこの主の御言葉に感謝しましょう。今 や主の恵みの年が来たのだから。わたしたちが神様の御前に立つことが許され たのだから。

 最後にもう一度この主の御言葉をお読みしたいと思います。

 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、 主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわ れている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人 を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の 者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実 現した」と話し始められた。

 アーメン。ただ主に感謝いたしましょう。

 
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