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「アダムとキリスト」

1998年8月9日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ5・12‐21

 5章からローマの信徒への手紙は新しい区分に入りました。ここからパウロ は「信仰によって義とされた者の生」について語り始めます。まず「平和」が 語られ、希望が語られ、希望の根拠である神の愛が語られました。この神の愛 によって、神と和解させられた者として希望に生きる。それが信仰によって義 とされた者であります。そして、パウロは12節から、旧約聖書における人類 の祖先アダムを登場させます。アダムとキリストを対置させることにより、義 とされた者の生の何たるかを、パウロはさらに明らかにしていくのです。

罪と死の普遍性

 それではまず12節から14節までをお読みしましょう。「このようなわけ で、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死は すべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えら れる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけで す。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を 犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を 前もって表す者だったのです。(12‐14節)」

 5章後半には二人の人が出てきます。一人は創世記に登場する罪を犯した最 初の人アダム、もうひとりはイエス・キリストです。この二人はそれぞれ私た ちに関わっております。まずはアダム。私たちはアダムと深い関係にあります。 それはアダムが生物学的に私たちの祖先であるから、という理由においてでは ありません。もしそうであるならば、創世記を自分とは無関係な古代の一神話 として片づけてしまう人にとって、アダムは何の関わりもないことになるでし ょう。しかし、アダムの物語は単に人類発生の物語ではなく、罪の発生の物語 です。しかも、アダムというのは、もともと固有名詞ではなく、「土(アダマ) 」という言葉に由来する、「人」を表す普通名詞です。(創世記2・7)すな わち、アダムの物語はいわゆる「昔々の物語」ではなく「人間の物語」なので す。人間全体における罪の普遍性を語る物語なのです。であるならば、誰も自 分をアダムと無関係だと言うことはできません。ご存じのように、旧約聖書に おいて、アダムは神に逆らい罪を犯した者として描かれています。そして、ま ぎれもない事実は、私たちにもまた罪があるということであります。アダムは 罪を犯した者として「必ず死ぬ」と言われました。まぎれもない事実は、私た ちもまた「必ず死ぬ」ということであります。このように、「罪が世に入り、 罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだ」と書かれている ことは、私たちすべてに確実に当てはまります。そのような意味で、私たちは 間違いなくアダムの末裔なのです。

 13節と14節は、これが分からない人への説明です。まっすぐな定規を当 てることによって、曲がった線は曲がったものとして認識されます。同じよう に、例えば、聖書の中に「むさぼるな」と書かれていることにより、むさぼり が罪であると認識されます。確かに、正しさの基準があって、はじめて罪は罪 として認識されると言えるでしょう。「律法がなければ、罪は罪と認められな いわけです。」しかし、認識されなければ罪は存在しないのでしょうか。そう ではありません。認識されなくても罪は罪として厳然として存在するのです。 13節と14節に書かれていることは、要するにそういうことです。すべての 人に罪があるということは、すべての人を死が支配していることから分かりま す。罪がないならば、神との断絶はないはずです。罪がないならば、その人は 神と一つのはずです。罪がないならば、永遠なる神と一つのはずです。罪がな いならば、命の源なる神と一つのはずなのです。それゆえ罪がないならば、死 を恐れる必要はないはずでしょう。なぜなら、命につながっているのですから。 死は支配していないはずですから。しかし、現に死は人間をしっかりと支配し ております。なぜでしょう。人間には皆罪があるからです。皆罪を持ち、皆死 に支配されている。人間はそのような者として確かにアダムにつながっている のです。あの創世記の物語を、古代のおとぎ話であるかのようにして斥けるこ とは誰にもできません。アダムとのつながりが意味するのは、罪と死という、 私たち人間が普遍的に背負っている宿命的な現実だからです。

 しかし、そこでパウロは、人間全体に関わるもう一人の人について語り始め ます。それはキリストです。キリストはこのアダムに連なる人間の世界に来ら れました。「実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです」とパ ウロは言います。つまり、キリストは、いわば第二のアダムとして来られたと いうことです。人間がアダムだけにつながっているならば、そこにはまったく 希望がありません。罪と死だけが支配しているところに、いかなる希望があり 得ましょう。しかし、神は私たち結ばれるべきもう一人のアダムを与えられま した。それがキリストです。最初のアダムはこの世の人間の祖先として描かれ ておりました。アダムに連なる者は、罪と死の支配するこの世に属する者です。 しかし、キリストは復活させられた第二のアダムです。「イエスは、わたした ちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたの です(4・25)」と書かれているとおりです。このお方は、この世ではなく、 来るべき世に属する第二のアダムです。恵みと命の支配する来るべき世に属す る第二のアダムです。第二のアダムは何をもたらしてくれるのでしょう。アダ ムにのみつながるのではなく、キリストに結ばれる者となるとはいかなること かを、パウロはさらに15節以下で明らかにしていくのです。

救いの普遍性

 「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの 人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリ ストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を 犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、 一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの 罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人 を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物 とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配する ようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下さ れたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得るこ とになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、 一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。(15‐19節)」

 ここではアダムによってもたらされた罪と死と、キリストによってもたらさ れた義と命とが対比されております。論旨はきわめて明瞭です。アダムとの関 わりが罪と死の普遍性を表していたように、15節以下において言い表されて いるのは、キリストによる救いの普遍性なのです。しかも、パウロが言いたい のは、キリストにってもたらされる救いは罪とは比較にならないぐらい大きな ものであるということです。

 私たちは確かにアダムの末裔です。私たちは自らの力によってこの事実に勝 つすべを知りません。しかし、キリストはさらに大きな恵みと義と命をもたら してくれました。確かに死の力は強く、すべての人は死にます。しかし、神の 恵みは罪よりも死よりも強いのです。イエス・キリストによって与えられた無 償の賜物は、罪よりも死よりも偉大です。そして、神の義は裁きよりも強いの です。裁きの原則は一つの罪によって有罪の宣告をもたらします。しかし、恵 みに基づく神の義はその原則を覆すのです。恵みが働き、神の義が与えられる 時、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるのであります。それゆ え、人がアダムにのみ連なるのではなく、キリストに結ばれて、神の恵みと義 の賜物を豊かに受けているならば、もはや死はその人を支配することはありま せん。その人はもはや悪しきものの支配下にあるのではありません。もはや人 を滅ぼす罪と死の力のもとに追い使われて奴隷のように生きる必要はありませ ん。神の恵みと義の賜物を豊かに受けているならば、その人はまことの命を得 ることができるのです。そして、命は死よりも強いのです。だから「神の恵み と義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、 支配するようになる」と語られているのであります。

 私たちは、この言葉をよく味わいたいと思います。「神の恵みと義の賜物と を豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するよ うになる。」人はもともと支配する者として生きようとしています。誰でもそ うです。しかし、神から離れたアダムの末裔が支配者として生きようとする時 に、結局は奴隷になっている自分を見出すものであります。自分を支配し、周 りを支配し、自らの人生も他人の人生も支配し、神さえも支配して生きようと する時に、実はどうしようもなく惨めな奴隷でしかない自分を発見するに至る のです。罪の奴隷、死の奴隷、まったく自由でなく無力な奴隷でしかない自分 を見出すのです。神なしに、自らが神に代わって支配者となろうとしたアダム の末裔であるとはなんと惨めなことでしょう。しかし、人はもはや嘆く必要は ありません。神の恵みと義の賜物は、私たちを解放するのです。私たちはキリ ストを通して、本当の意味で「生きる」ことができるのです。命は私たちの内 に働き、私たちを解放し、私たちを通して死の力を支配するからです。

 それはただ一人、キリストによってもたらされた賜物です。私たちの正しさ によってではありません。私たちの功績によってではありません。ただキリス トによるのです。18節と19節には、そのことが明らかにされております。 私たちが義とされて命を得ることになったのは、キリストの正しい行為による のです。多くの人がその罪にもかかわらず正しい者とされるのは、ただキリス トの従順によるのです。神の御前に謙って死に至るまで、しかも十字架の死に 至るまで従順であられたキリストのその従順によるのです。私たちは、ただこ のキリストの行為と従順の結果にあずかるだけなのです。

新しい人間として

 これまでパウロはアダムとキリストを対比して語ってきました。既に明らか なように、パウロがアダムの物語を取り上げたのは、人間の起源を論じるため ではなく、もう一人の人なるキリストについて語るためでした。それゆえ、パ ウロはアダムとキリストとの対比という話の枠から外に出て、最終的に言いた かったことを20節以下に記します。

 「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、 罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪 が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたち の主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。(20‐21節)」  律法は、人間を罪から解放して永遠の命に導く――ユダヤ人たちはそう信じ て疑いませんでした。それゆえに、神の律法を持っているということは、彼ら の誇りだったのです。しかし、現実に律法は彼らを罪から解放しませんでした。 パウロはその現実をしっかり見つめ、律法とは何であるかを語ります。律法が あるのは「罪が増し加わるためだ」と言うのです。戒めがあれば罪は失せるか と言えば、決してそうではなく、罪はますます力を加えて増え広がる。これは 人間の普遍的な経験です。また、先にも申しましたように、戒めは罪の罪たる ことを明らかにするので、罪はいよいよ悪しきものとして認識されていきます。 このように神の律法によって罪は増し加わるということが現実のこととして起 きてくるのです。では律法は悪いものなのでしょうか。このことに関しては後 に7章において詳細に論じられることになるので、そちらにゆずることにした いのですが、7章12節以下だけを見ておきたいと思います。

 「こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そし て善いものなのです。それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすもの となったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、 善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限り なく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。(7・12‐1 3)」

 つまり簡単に言えば、律法は悪なのではなくて、律法を通して罪そのものが 正体を現すのです。神の律法によって、人間を支配していたその罪が化けの皮 をはがれ、そのグロテスクな姿を現すのであります。神の律法を知ることによ り、私たちは人間を支配している罪という怪物のグロテスクな姿に直面して、 まさに絶望せざるを得ないところに追い込まれます。そう、もしキリストがお られなければ、絶望しかありません。しかし、恵みは罪よりも強いのです! 「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」と パウロは言います。人は絶望する必要はなくなりました。人間が自らについて 完全に望みを失うところにおいて、その絶望を覆してなお余りある恵みが与え られているからです。

 キリストに結ばれるならば、私たちはもはやアダムにのみ連なる古い人類で はありません。古い被造物ではありません。死をもたらす罪によって支配され ている古い被造物ではないのです。キリストに結ばれるならば、私たちは新し い被造物です。新しい人間です。罪が増したところには、恵みはなおいっそう 満ちあふれました。私たちがキリストに結ばれて、新しい被造物として生きる なら、義をもたらす恵みが私たちを支配し、私たちの主イエス・キリストを通 して永遠の命に導くのであります。

 
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