「主のもの」
1998年8月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 東京神学大学修士1年 桑 満欣神学生説教
聖書 ローマ14・1~12
「信仰の弱い人を受け入れなさい」
私達は今日、この言葉がどういう意味でいわれているのかをしっかりと知ら なければならない。私達の自分勝手な判断によるならば、おそらく聖書の御言 葉は、一人歩きして、なぜそんな理解がとさえ思えるような方向に行ってしま うでしょう。これは強いものは弱いものを守らなければならないというだけの 論理なのでしょうか。そうなら聖書でなくても、多くの人が、多くの書物が、 それを主張しています。では、なぜ聖書にこのようなことが書かれているので しょうか。どこが聖書と他の主張とで違うのだろうか。そのためにまず、この 信仰の弱い人とは誰のことか明らかにしてみたいと思います。
2節で、弱い人について、これは野菜だけを食べる人だ、つまり肉を口にせ ず、野菜のみを食物としている人だといわれています。なぜそのような人が信 仰の弱い人だといわれているのでしょうか。
パウロが語っている相手は、ローマの教会の人々に対してでした。つまり、 この信仰において強い人も弱い人も同じ教会にいたわけです。彼らは共に主イ エス・キリストを信じていました。誰かが信じていて、信じていない人もいた というわけではありません。信仰が弱いというのは、信じていないという意味 で語っているわけではないのです。彼らは主イエス・キリストが再び来られる ことを共に待ち望んでいました。すなわち、神の国が来るのを待望していたの です。けれどもこの神の国の待ち方が違っていたのです。信仰の弱い人は、野 菜だけしか食べなかった。これは別に生理的に肉が食べられないというわけで はありません。そうではなく、自らすすんで肉を食べない生活をしていたので す。それは彼らの神の国についての理解が大きな原因となっていました。彼ら は神の国をエデンの園での生活というものに根拠をおいていたのです。エデン の園とは何か。それは、神が人を創造されたとき、人を住まわせた地のことで す。神は人に対してこのようにいわれました。
創世記1・29~30「神は言われた。『見よ、全地に生える、種を持つ草 と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたち の食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものには あらゆる青草を食べさせよう。』」青草を食べるといわれています。これに対 して、肉を食べてはならないとは書いてないじゃないかといわれるかもしれま せんが、それに対して、さらにもう一つの言葉が彼らの根拠となっているので す。
創世記9・1~4「神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。『産めよ、 増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべての ものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの 手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とする がよい。私はこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。 ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。』」ここではじめて、 肉を青草と同じように、食べ物として与えられたとあるのです。野菜のみを食 べる人たちの、神に国についての理解はエデンの園であると先ほどいいました。 エデンの園には、はじめ人が住んでいました。しかし、罪を犯したために、エ デンの園から追放されたと語られています。アダムの罪、人の罪といわれてい ます。それ以後、人は罪あるものとされた、そして人は罪の中に生きるように なった。創世記1・29~30の約束は、人が罪を犯す前の時のものだと彼ら は理解しました。そしてさらに、罪を犯した後の約束として、このノアに与え られた、肉も青草と同じように食べても良いという言葉が与えられたのだと、 彼らは考えたのです。つまり、罪のない生活、すなわち、来るべき神の国での 食べ物というのは、野菜のみを食べる生活、まだ人が罪を犯す前の生活である と彼らは考えていたのです。
彼らは神の国を待ち望んでいました。そして自分たちの教会で、来るべき神 の国での生活を指し示そうとしました。そのため、彼らは、神の国での生活を エデンの園に入れられた生活としてとらえ、野菜のみを食べる生活をしようと したのです。彼らのそのような行動の根拠こそ、まさに神の国を切に待ち望む 信仰から来ていたと言えたでしょう。ここまで聞くと、私達は何とすごい信仰 だと思うかもしれない。自分もそのくらい神の国を待ち望んでみたい。そう思 ってしまうかもしれない。しかし、注意しなければならない。パウロは、ここ で、そのような人たちに対して、信仰の強い人だといっていただろうか。決し てそうではない。彼らこそ信仰の弱い人であるといっている。なぜ彼らの信仰 が弱いといわれるのだろうか。
パウロがここでいっているのは、野菜のみを食べる生活によって神の国を指 し示そうという考え、そのような規律を自らに課さなければ、自分の信仰が保 てないという人たちに対して、パウロは信仰の弱い人たちだといったのです。 逆に言えば、彼らは肉を食べることによって、彼ら自身の信仰が消されてしま うとさえ思ってしまっている。彼らは自らの信仰の助け、支えとして、そのよ うな規律ある生活をしているのです。そのような支えなくしては、彼らは信仰 を保つことができない。パウロが信仰の弱い人だと語ったのは、そのような人 たちのことを指していたのです。「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考え を批判してはなりません」この言葉は、そのような支えなしに、信仰を保ち、 神の国を待ち続けている人たちにいわれています。彼らは信仰において強いと いわれています。信仰の弱い人たちを批判してはならない。彼らを非難するこ とは、その彼らの信仰すらも取り上げてしまうことになりかねないからです。 しかし、パウロはここで、ただ信仰の強いものが弱いものを受け入れるという ことだけを語っているのではなかった。さらにもう一つの問題があったのです。
3節「食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人を も受け入れられたからです」裁いてはならない。逆に言えば、これは現実に野 菜だけしか食べない人が、何を食べても良いといっている人たちを裁いていた ということを示しています。ただ単に彼らは、信仰において弱いというだけで はない。彼らはその信仰の支えとして、規律を持とうとしていました。野菜を 食べ肉は食べないというのも、その規律の一つだったのでしょう。そしてその 規律をもっているが故に、彼らはその規律にそくさない他の人たちを、その規 律によって裁いていたのです。
パウロはそのような人たちに対して裁いてはならないといいました。それは 彼らの規律そのものを批判しているわけではありません。むしろそれらが彼ら の信仰の支えになっているならば、それをそのまま持ち続けていることも良し としています。パウロの非難しているのは、そのような規律が彼らの信仰の支 えとなるのではなく、彼らの信仰そのものになってしまうことだったのです。 規律を守ることが信仰であり、守らないことが不信仰であると判断されてしま うならば、それはイエス・キリストが来られる前の悪しき律法主義に戻ってし まうこととなるのです。パウロ自身が、キリストに出会う前までは、律法主義 の塊のような人でした。パウロ自身そのように語っています(フィリピ3・5~ 6)。だからこそ、彼はそのような考え方に陥ってしまうことに対しては、人 一倍敏感だったでしょう。
人が人を裁くとはどういうことなのでしょうか。4節の言葉「他人の召し使 いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、 その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせ ることがおできになるからです」教会の主人、私達の主人とは誰か。この主人 である方だけが、そのしもべを裁くことができるといわれます。なぜならばし もべは主人のものだからです。私達の主人とは誰か。私達は誰のものか。 私達は、自分は自分のものだと言えるのでしょうか。自分で自分を裁くこと ができるだろうか。裁くというのは生半可なことではありません。裁きとは、 その人のすべてにかかってくること。命にかかわってくる事柄です。裁きの結 果は死をも意味します。そして同時に裁きにおける和解は、生をもを意味しま す。私達は自分は自分のものだといって裁けるだろうか。 確かに自分を殺すこ とはできるかもしれない。しかしそれのみ。私達は自分で自分を生かすことが できるだろうか。私達の生命は、ただ主によってのみ生かされているのではな いだろうか。私達の主人。それこそ私達の主なる神、イエス・キリストです。 この主が私達のすべてを担っている。私達の死も、また生も主のものとされて いるのです。私達は主のものとされている。だからこそ7~8節のようにいわ れるのです。
私達が主のものであるというのは、どのような意味があるのだろうか。信仰 の弱い人も強い人も、この主のものであるということによって生かされていま す。その歩みは共に神の国を待ち望むものでした。そしてその生活全てが主の ためであり、神様への感謝に基づいていると6節でいわれています。全ての力 が対抗できないほど強く、いかなる悪にも揺るがない方、神が主人となって下 さった。それまでの主人は罪の力でした。それは死を与えても、命を与えるこ とができなかった。だがイエス・キリストはその過去の主人に対して勝利し、 私達の主人となったのです。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人 にも生きている人にも主となられるため」だったのです。主が死んでそしてよ みがえられた。私達もその復活にあずかることが約束されている。死はもはや 私達の最終的なゴールではない。もし死が最後のゴールならば、私達の生活は 決して主のためでもなく、全く感謝もない生活となってしまう。しかし決して そうではない。私達の主は、死んだら何も関係なくなる方ではない。主はしも べを立たせることもできる。すなわち私達はこの主によって、死んだ後も復活 にあずかることによって、生きるものとされたのです。主が私達を立たせて下 さる。
教会に集う私達の目はどこに向かうのか。それこそ主が再び来られること、 神の国が再び来られることを待ち望んでいる。その時、私達は主の前に立たさ れる。私達はみなその時神の裁きの座の前に立つのです。パウロはローマの人 々に、だからこそ10節のように語ったのです。人が人を裁くとはどういうこ となのか。人が誰かに対して、この人は救われないということができるのだろ うか。救いのために祈ることはできるでしょう。しかしそのような救いについ ての判断を、神でないものがするのか。人間に救いについての裁きを下すこと ができるのだろうか。神が来たるべき時に来る。その時の裁きすらも指し示そ うというのだろうか。それこそ人間の傲慢なところではないだろうか。いつ人 間が神になったのだろうか。私達の目は、ただ主なる神に向くべきではないだ ろうか。私達の向かうべき所、待ち望むべきは、人の行う裁きではない。神の 国が来る、キリストが再び来られることなのではないだろうか。
11節の聖書の箇所は、その来るべき裁きの姿、様子について語っています。 すべての舌が神をほめたたえる。讃美の姿こそ、終末の姿、神の国の到来であ ると語られています。
パウロがこの手紙を書いている相手、すなわちローマの教会では、食べる人 と食べない人、また日を重んじる人と重んじない人との間で、軽蔑と裁きが行 われ、仲たがいしていたとあります。しかしパウロはこれらの人たちを、神は 受け入れたのであると書いています(3節)。主のものとされたと書いているの です(8節)。
どうして主に受け入れられ、主のものとされている教会の人々の間で、裁き 合いが行われるのか。しかもその裁き合いは、ただの人間的な裁き合いではな い。ただの人間的ないがみ合いならば、まだパウロは和解の勧めだけをすれば 良かったでしょう。互いに許しあいなさいと言えたでしょう。しかし、彼らの 裁き合いは単なる人と人との間の事柄ではなかった。それは人の救いに関わる 事柄だった。彼らは自分たちが神になってしまっていたのです。
これこそ人の最も陥りやすいことではないでしょうか。誰かと争い、いがみ 合うことを私達はよくします。またそうしている人たちを見下したりする。特 にそのいがみ合いのただ中に自分がいるとき、私達はその人が同じ救いにあず かっているということについても忘れ、時には裁きすら考えてしまいそうにな る。共に神の国に入るということが言えなくなっていく。その時その人は自分 の救いを絶対化するし、神様を自分の味方、自分のものにさえしてしまう。神 様は私達のものなのだろうか。
私達こそ主のもの、私達が主のものなのです。私達です。私なのではなく、 私達です。たとえ今、その人をあなたが裁いたところで、それがあなたと神の 国について何の益があるのだろうか。天において喜びがあるのだろうか。私達 一人一人が主の前で、自分について申し開きするのです(12節)。私達が誰か 他の人について告訴するわけではない。一人一人主に対して、それぞれに申し 開きをする。誰かの裁きが主の裁きを決定するのではない。
しかしながら、ここで裁きの場は、すべての舌が神をほめたたえるとありま す。なぜならば、裁こうとしていたあなたも、裁かれようとしていた人も、ま た弱い人も、強い人も、共に主が受け入れられたからです。裁きの座はもはや ただの裁きではない。それはむしろ讃美の声あふれる、喜びの場となる。キリ ストが再び来られることを待ち望みたい。それは喜びと感謝に満ちた時の到来 だから。「私達は、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために 死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私達は主のものです」 アーメン。