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「新しい命に生きるため」

1998年8月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ6・1‐14

 大阪のぞみ教会では、九月六日に洗礼を受けるべく二名の方が準備をしてい ます。洗礼式はいつでも教会全体にとって大きな喜びです。教会は二千年の長 きに渡って父と子と聖霊の名によって洗礼を授けてきました。このことが途絶 えることなく、歴史を通じて連綿と続いてきたことは、考えてみれば大変不思 議なことです。それが時間的にも空間的にも広がって、二十世紀末の日本の一 角に住む私たちのところにまで及んでいるということは、まさに神の御業とし か思えません。

 今日、キリスト教界全体を見るならば、洗礼が必ずしも常に重んじられてい るとは限りません。そこに意味を見出さない多くの人々がいることも事実です。 大切なのは神を信じる心であり、神を信じて為される行動であり、洗礼などは (あるいは聖餐も)非本質的な儀式の一つであると考える人は、この国におい ても決して少なくありません。しかし、本当に洗礼が非本質的なものであるな らば、そして、神もまたそのように見なしておられるなら、恐らく遠の昔に失 われてしまったはずではないでしょうか。私たちは二千年の長きに渡り、時に は多くの殉教者の血が流されながらも、今日に至るまで伝えられているものが あることを、小さなことと考えてはならないのです。神が与え、神が重んじ、 それゆえ教会が変えることなく失うことなく伝えてきたものを、私たちもまた 重んじなくてはなりません。軽はずみな自分勝手な判断を下す前に、その意味 をもっともっと深く知る必要があるのだと思うのです。事実、たとえば洗礼の 意味を知らないために、信仰生活が誤った方向に向かってしまうことだってあ り得るのです。

 そのことについては、黎明期であるパウロの時代でも事情は同じであったよ うです。ですから、パウロは3節で「それともあなたがたは知らないのですか 」という言葉をもって、洗礼について語り始めるのです。知るべきことをきち んと理解していないと、人は信仰生活について自分勝手な理解によるまったく 見当外れなことを言い出すようになるからです。これは決して他人事ではあり ません。そこで、私たちはもう一度心新たに、聖書が洗礼について語る言葉に、 じっくり耳を傾けたいと思うのであります。

キリストの死にあずかるための洗礼

 はじめに1節から4節までをお読みしましょう。「では、どういうことにな るのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうで はない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きるこ とができるでしょう。それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イ エスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるた めに洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、 その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって 死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなの です。 (1‐4節)」

 知るべきことを知らないがために出てきた見当外れな見解とは次のようなも のでした。「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。」どうし て、このようなことが言われるようになったのでしょう。それはパウロが「罪 が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました(5・20)」と 語ってきたからです。人間の罪が正体を現し、その罪深さが明らかになればな るほど、罪人を救い給う神の恵みが明らかになるならば、人は罪深ければ罪深 いほどよいのではないか。要するにそういうことです。そのゆえにパウロを非 難する人もあったでしょう。曰く「パウロの伝える福音は人間を駄目にする。 人間の道徳的責任感を弱める。放縦と堕落に導くことになる。だからパウロの 言っていることは間違っているのだ。」あるいは、自分の都合の良いように解 釈する人は、自分の罪を正当化するためにパウロの言葉を使おうとするかもし れません。「どうせ何をしたとしても赦されるのだ。そこに神の恵みが満ち溢 れるのだ」と。このようなことは、誰もが一度は考えることであるのかも知れ ません。

 「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。」しかし、これが いかなる意味で語られようとも、パウロは断固としてこの見解に否を唱えます。 「決してそうではない。」その理由は如何。彼は言います。「罪に対して死ん だわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」 さて、「罪に対して死んだ」とは何を意味するのでしょう。必ずしも意味明白 な言葉ではありません。パウロもそのことを承知しているようです。ですから、 これで話しを終わりにしないで、洗礼について語り始めるのです。洗礼を理解 していないと、「罪に対して死んだわたしたち」ということも分からないから です。

 では、洗礼とは何でしょうか。パウロの言葉によりますと、それは「キリス ト・イエスに結ばれる」ことであり、「その死にあずかる」ことであります。 これは直訳すると「キリスト・イエスの中へ」という言葉です。そうしますと 「キリスト・イエスの中に入れられる」という仕方で、キリストに結ばれるこ とになります。それはまたキリストの死の中に入れられることだ、とパウロは 言うのであります。もちろん、これはパウロ個人の思想ではありません。教会 が伝えてきたことです。ローマの信徒たちも、当然知っているはずのことなの です。ですから「あなたがたは知らないのですか」とパウロは言っているので す。

 さて、パウロの言うことが理解できますでしょうか。これを聞いて「ピンと こない」と思う人も多いでしょう。それでも一向に問題ないと思います。なぜ なら、パウロは明らかに、人間の経験や体験や感覚的に捉えられる事柄を語っ ているのではないからです。そうではなくて、神がどのように見なされるか、 ということを語っているのです。考えてもみてください。キリストの死とは、 具体的には紀元30年ごろゴルゴタの丘の上に立てられた十字架の上で起こっ た出来事であります。その死の中に入れられて、その死にあずかるなどという、 そんな馬鹿げたことがありますか。人間の側から捉えるならば、そのような言 葉はナンセンスです。しかし、大切なのは、人間がどう見るかではありません。 神がどう見なされるか、であります。パウロはそのことを言っているのです。 洗礼を受けた者を、キリストの内にある者、キリストの死の内にありその死に あずかっている者と、神が見なしてくださるのです。死にあずかっている者と 見なされるということは、要するに、その人が既に死んだ者と見なされるとい うことです。

 4節に書かれていることも同じように理解できます。「わたしたちは洗礼に よってキリストと共に葬られ」と書かれています。洗礼式で経験するのは、水 をかけられるということです。あるいは浸礼と呼ばれる仕方で洗礼を受ける人 は、水の中に沈められます。水をかけられたくらいで人は死にません。水の中 に沈められて十五分ほど押え込まれれば人は死にますが、洗礼式でそのような ことはしません。ですから実際に起こっていることは人が死ぬことでも葬られ ることでもないわけです。しかし、神は、その人がキリストと共に死んで葬ら れた者と見てくださる。その約束こそ、洗礼における感情的な経験よりも遥か に大事なことなのです。

 このことから「罪に対して死ぬ」ということの意味が見えてまいります。5 章で見てきましたように、私たちは皆、アダムの子孫です。皆、罪の支配のも とにあるという意味において、私たちはアダムの末裔です。そして、罪の結果 は裁きです。私たちはそれゆえ、皆、裁きとしての死の支配下にあります。ア ダムの末裔は死ななくてはなりません。それは単に肉体が朽ちることではなく、 命の源なる神から完全に分離され、捨てられることを意味します。それが罪人 の結末であるはずでした。しかし、ここに第二のアダムなるキリストが来られ、 罪なき正しい方が十字架にかかって死なれました。本当は、裁かれ滅びなくて はならないのは私たちでありますのに、あのお方が裁かれたのでした。あの方 が裁きとしての死を十字架の上で死んでくださいました。そして、神は私たち をその死の中へと入れ給うのであります。実際には、私たちは死んでおりませ ん。しかし、あのお方の死にあずかって、死んだものと見なしていただいたの です。既に罪を裁かれた者として見なしていただいたのです。これが「罪に対 して死んだ」ということです。それは何のためでしょうか。聖書は言います。 「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたし たちも新しい命に生きるためなのです。」なぜ罪が赦されるのでしょうか。そ れは私たちが死んだとされたからです。なぜ義とされるのでしょうか。それは 私たちがよみがえった者とされたからです。こうして私たちは、一度死んで復 活した者として、新しい命に生き始めるのであります。

義の道具として自分自身を神に献げよ

 以上のことから明らかなことは、キリストの死にあずかって罪がゆるされ義 とされたのは、罪の奴隷であり続けるためではない、ということです。続いて 11節までをお読みしましょう。「もし、わたしたちがキリストと一体になっ てその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わた したちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された 体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ 者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、 キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活さ せられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキ リストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれ たのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このよ うに、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ば れて、神に対して生きているのだと考えなさい。(5-11節)」

 キリストに結ばれた者となったということは、既に見てきたように、キリス トにおいて起こったことが私たちのものとなる、ということに他なりません。 洗礼において死の姿にあやかったならば、復活の姿にもあやかるのです。キリ ストの死にあずかったということはまた、キリストと共に十字架につけられた ということに他なりません。パウロはここで、いわゆる「自我を磔殺」の話を しているのではありません。「古い自分」と訳されているのは「古い人間」と いう言葉です。これは滅び行くアダムの末裔としての自分です。それは既に十 字架につけられてしまったのです。神がそう見られるのです。ここに私たちの 救いの根拠があります。救われるためには古い人間としての自分が一度キリス トと共に十字架につけられて死ぬしかないからです。そして、事実それは起こ ったのです。しかし、それはただ私たちが死んだものとして罪を赦されるため だけではありません。それは私たちが「もはや罪の奴隷にならないため」であ りました。ある主人の奴隷が死んだら、その人はもはや奴隷ではありません。 主人ももはやその人の主人ではありません。同じように、罪はもはや私たちを 支配し滅ぼし去ることのできる主人ではあり得ないのです。

 そこで大切なことは何でしょうか。私たちもまた、神が見給うように自分自 身を見るということであります。キリストはただ一度罪に対して死なれ、神に 対して生きておられます。そのお方の内にあるならば、当然、私たちもまた罪 に対して死んでおり、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているこ とになるでしょう。11節においてパウロはそのように「考えなさい」と言う のです。「考えなさい」というのは、あたかもそうであるかのように思い込む、 ということではありません。そうではなく、事実を事実として認めることに他 ならないのです。今はただ神のみが見ることのできる事実――私たちが既にキ リストと共に死に、キリストと共に復活し、キリストと共に新しい命に生きて いるのだという事実――を、私たちもまた信仰によって受けとめるということ であります。このことによって、初めてその先へと進むことができるからであ ります。

 それでは12節以下をお読みしましょう。「従って、あなたがたの死ぬべき 体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、 あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえっ て、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義の ための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支 配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいる のです。(12‐14節)」

 私たちが罪に対して死んだのであって、罪が私たちに対して死んだのではあ りません。罪は生きています。罪は依然として私たちを支配しに来るでしょう。 時として罪の大きな力に屈服させられるようなこともあるでしょう。これはす べてのキリスト者の経験するところであります。しかし、私たちは惑わされて はなりません。11節にある正しい認識に立つときに、どうすべきかが分かり ます。罪はもはや私たちの主人ではありません。私たちは罪の奴隷である必要 はないし、奴隷であってはならないのです。五体を不義のための道具として罪 に任せてはならないのです。

 罪に支配されない唯一の道は、自分自身を神に献げることであります。五体 を義のための道具として神に献げることなのです。私たちはアダムの末裔であ る古い人を神に献げることはできませんでした。しかし、今や、私たちはアダ ムに連なる古い人ではなく、一度死んだものとして神の前に存在します。義と された新しい被造物として御前にあるのです。だから私たちは自分自身を献げ ることができるのです。私たちは死者の中から生き返った者として、自分自身 を神に献げることが許されているのです。それこそが、キリストと共に復活し た者として新しい命に生きることに他なりません。洗礼は、その新しい命に生 きる人生のスタートに他なりません。このことを正しく理解するならば、「恵 みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」などという言葉が出て来 ようはずがないのです。

 
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