「水をぶどう酒に」
1998年8月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 日本基督教団粉河教会 田中高男牧師説教
聖書 ヨハネ2・1‐12
今日、朗読されました聖書の個所は、「カナでの婚礼」と呼ばれる物語であ ります。新約聖書には四つの福音書がありますが、ヨハネによる福音書は独特 の書き方がしてあります。マタイ、マルコ、ルカによる福音書は一般に共観福 音書と言われます。その訳は、その書き方や内容がとても似ているからであり ます。紀元六十五年ごろ、マルコによる福音書が書かれて、その後、マタイや ルカがマルコを参考にして記されたと言われます。その上、イエスの御生涯の 伝記のように記されています。
しかし、ヨハネは伝記と言うより説教集と言ったほうがいいような編集がさ れています。たとえば、6章は五千人の給食物語が記されていますが、その物 語と一緒に「わたしは命のパンである」と言うメッセージがあります。9章は 生まれながらの盲人の癒し物語が記されていますが、その出来事は、「わたし は世の光である」と言うメッセージへと発展していきます。
私は若い頃、オスカー・クルマンという方の「原始キリスト教と礼拝」とい うヨハネによる福音を取り扱った本を読んで、ずいぶん教えられたことがあり ます。クルマンはヨハネによる福音書には二重の意味があると言うのです。一 つは表面に現れた意味であり、もう一つは隠されている意味であると言うので あります。それを原始キリスト教会の礼拝の中で理解していくのであります。
さて、「カナでの婚礼」物語は大変ほほえましいお話であります。カナはイ エスのお育ちになったナザレから10キロ程離れた山里でありました。母マリ アが近い親戚であったと思われます。ふどう酒がなくなった事を心配するのは 身内しか出来ないことのように思うからであります。婚礼の最中にぶどう酒が なくなると宴会をしらけさせてしまい、花婿に大恥をかかせることになるから であります。何とかそれを避けたいと思うのは身内であります。そこで、この 事をマリアは長男のイエスに相談したのであります。夫ヨセフは出てこないこ とから、もう死去していたと思われます。イエスはおおよそ30才にもなって おられましたから、マリアは頼りにしていたと思われます。
ところが、その返事たるや、私どもでは考えられない御言葉であります。 「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしのときはまだ来てい ません。」文語訳では、「女よ、我と汝と何の関係あらんや。我が時は未だ来 たらず」となっています。皆さん、息子さんに物事を頼んで、「婦人よ、わた しとどんな関わりがあるのです。わたしのときはまだ来ていません」と言われ たら、びっくりして腰を抜かしてしまうのではないでしょうか。「うちの息子 の頭が変になったのではないか」と心配されるかもしれません。
母マリアは断られてしまったのであります。しかし、さすがマリアです。腰 を抜かさないで、召し使いに命じて「この人が何か言いつけたら、その通りに してください」と言いました。非凡な信仰のマリアであります。それでもなお 信じてやみませんでした。
6節に水がめの説明がしてあります。「そこにはユダヤ人が清めに用いる石 の水がめが六つ置いてあった。いずれも、二ないし三メトレテス入りのもので ある。」
「メトレテス」という単位はぴんときません。口語訳聖書では「四、五斗も はいる石の水瓶」とありますが、若いお方には外国語以上に分かりにくいと思 われます。昔は「米俵一俵四斗入り」と言うのが一つの単位でありました。一 斗は十升であります。清酒は一升瓶に入っています。醤油瓶はリットル瓶と言 って2リットル入りです。一升瓶より少しだけ大きいです。ある本には1メト レテスは40リットルだと記していました。石油のポリ容器は20リットル入 りでその倍に当たります。大体その大きさが見えてきます。
昔私の実家には炊事用の瀬戸物の瓶が置いてありました。私ども子供は学校 から帰ると井戸から水を汲んでその瓶に水を一杯になるまで入れるのが役目で ありました。その水瓶は子供心に大きいと思いました。そんな水瓶が六つも置 いてありました。その水はユダヤ人が宗教での清めに使ったのであります。
パレスチナは乾燥した土地でした。そこをサンダルのような靴を履いて歩く のですから、家に入ったときは、足を洗うことは普通の習慣でありました。例 えば、ルカによる福音書7章44節で、イエスはシモンに、「この人を見ない か。わたしはあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、 この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた」と言っておられ ます。
もう一つは食事の時に手を洗うために使いました。当時のユダヤ人は箸やフ ォークを用いないで手で食べたと言われます。またメニューが変わる毎に手を 洗うこともあったようであります。このような水の清めは旧約聖書の律法には 規定されていませんが、その基本はレビ記19章2節の「あなたがたは聖なる 者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なるものである」とい う律法の書から出てきたものであると思われます。
シナイ山で神はモーセに、「あなたたちはわたしにとって祭司の王国、聖な る国民となる」と仰せになりました。その聖なることを保つために、色々な言 い伝えが生まれてきたのであります。その一つが手を洗うことでありました。
8節から10節をご覧ください。水がぶどう酒に変わりました。しかも最上 級のぶどう酒でありました。世話役は驚きました。万事めでたしめでたしで、 お話が終わるものではありません。単に花婿を気の毒に思い、水をぶどう酒に 変えて助けてあげた、という話なら、もっとすんなりと奇跡が行われたと思い ます。しかし、この物語には、分からぬ事、ひっかかる事がいくつかあるので す。
その一つは、4節の「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです」とイエ スがおっしゃった事であります。自分の母に対して、「婦人よ」と呼ぶことは、 当時のユダヤ人はどんなに感じたのか、分かりません。ヨハネによる福音書1 9・26で、「イエスは母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦 人よ、ご覧なさい。あなたの子です』と言われた」とあります。これは、弟子 のヨハネに母マリアを託された言葉と言われています。しかし、いずれにして も現代の庶民の私どもの耳には「他人行儀」のようにしか聞こえません。イエ スは平素、母マリアにどのような呼びかけをしておられたか、知る由もありま せんが、恐らく他の子供たちと同じように呼んでおられたと思います。違和感 はなかったと思います。
むしろ、ここが特別であります。なぜなら、ここでは、マリアの子イエスと して振る舞っておられるのではなく、イエス・キリストとして振る舞っておら れるのであります。身内のイエスとして言っておられるのではなく、神の子キ リストとしておっしゃっておられるのであります。それは「わたしの時はまだ 来ていません」というお言葉と、11節の「弟子たちはイエスを信じた」とい う言葉の内に表されています。
イエスの時とはどんな時でありましょうか。「わたしの時は、まだ来ていな い。(7・6、8、30)」「人の子が栄光を受ける時が来た(12・23) 」「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り(13・1)」 「父よ、時が来ました。(17・1)」
イエスの時とは、イエスが人間の罪を負って十字架につかれる時でありまし た。という事は、イエスはキリストとしての業と無関係に何もなさらないとい うことであります。
別の言い方をするなら、母マリアの必要のためにイエスは物事をなさらない、 ということであります。人間的な言い方をするなら、「同じ、水をぶどう酒に 変えてやるなら、気持ちよくしてやれ。」これが人間の言い分であります。
教育的な見地から言うと、子供のおねだりを拒否しながら「今度一回だけだ ぞ」と言って子供の要求を聞くことは良くない、と言われます。「駄目なこと は駄目」と最後まで聞いてはいけない、と言われます。その点、私は失格者で あります。
イエスはどうしてマリアの願いを聞かれたのでありましょうか。いいえ、母 マリアの願いを聞かれたのではありません。それは、はっきりと拒否されたの であります。
しかし、イエスが水とぶどう酒にされたのは、マリアのニーズのためではな く、神の栄光の現れるために、キリストとしてのみ業を為されたのであります。
では、その御業とは何かと言うことになります。少し謎めいた言い方ですが 「ユダヤ人の清めの水をぶどう酒に変えられた」と言うことであります。ユダ ヤ人は身を清めるのに熱心でありました。この事でイエスはユダヤ人から良く 非難されたようであります。
たとえば、マタイによる福音書15章2節、「なぜ、あなたの弟子たちは、 昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」
花婿の家は金持ちではなかったと思います。ぶどう酒がなくなるぐらいの貯 えしかない家でありました。しかし、清めの水は、石の水瓶六つ分置いてあっ たということは、清めがどれほど重んじられていたかを物語るものであります。 汚れを恐れる氏族でした。日本人もユダヤ人とこの点は良く似ています。清め の習慣があります。子供が産まれると宮参りをして清めてもらいます。七五三 も結婚式も事ある毎に清めてもらうのであります。
葬式に参加すると会葬の礼状に「お清めの塩」を付けて渡されるのでありま す。ユダヤ人は清めの水で身が清められると思っていたと思います。しかし、 イエスがその水をぶどう酒に変えられた事は「人間はもはや、この水で清めら れるものではない」事を示されたのであります。
ユダヤ人は選民イスラエルとして、神の聖なる民として、清く保つために手 や足や体を洗ったのであります。しかし、肝心の心を、魂を水で洗う事は出来 なかったのであります。「あなたたちは聖なる者となりなさい」は、手足の清 い事ではなく、心の清い事、魂の清い事であります。イエスもおっしゃいまし た。「口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのである。 (マタイ15・11)」「しかし、口から出てくるものは、心から出てくるの で、これこそ人を汚す。(同15・18)」
水は人の心や魂を清める事は出来ないのであります。ぶどう酒は何を意味す るのでしょうか。キリスト教会でぶどう酒といえば、主の聖餐に用いられるぶ どう酒を連想させられます。それは、主イエス・キリストが人間の罪の贖いの ために十字架上で流された御血を意味します。人間の罪、汚れは、主イエス・ キリストの御血によらなければ清められないのであります。
主イエス・キリストがこの世に来られたのは、迷信のような人間の言い伝え による清めを否定して、その罪から人間を救い出すために、完全な清めの御血 を与えるためでありました。「これは多くの人のために流される私の血、契約 の血である」というメッセージと共に受けるぶどう酒であります。
マリアは人間的な思いからイエスにお願いしました。それは花婿に恥をかか せないために、と言う、人間の美しい愛からであります。しかし、それでもイ エスの御業は人間の欲望や面子に奉仕するものではありません。イエスの御業 は神の御旨の遂行であり、神の栄光のためであります。そして、人間の善意に 満ちた、愛に溢れることであっても、神の御心とは髪の毛一筋ほども重なった り交わったりすることはないのであります。人間の願いは罪深いものであり、 罪から生まれた汚れたものであります。神の御心は百パーセント聖なる義なる ものであるからであります。
例えば、コリントの信徒への手紙(一)13章2、3節「たとえ、預言する 賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を 動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全 財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き 渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」とありますが、この愛を 「神の愛がなければ」と置き換えてお読みになればはっきりします。また、別 な言い方をすれば、「人間的なものであれば」に置き換えてお読みになればは っきりします。
母マリアは人間的発想であり、人間のニーズであります。主イエス・キリス トは、神の御心から出るものであります。
私たちの祈りも願いも考えも、考えてみれば礼拝までも、人間的であり、罪 深いものであります。人間の目には立派に見えても、神の御心とは似ても似つ かぬ賤しいものであります。
そして、そんな賤しいものを主イエス・キリストは拒否されますが、それだ けではありません。水をぶどう酒に変えてくださいます。御自分の十字架上に 流される御血によって贖い、清め、神の御業のために造り変えて下さるのであ ります。それは奇跡であります。
私どもの礼拝生活も、祈りも、人の目から見れば、素晴らしく見える面もあ ります。しかし、神の目からご覧になれば恥ずかしい悲しい罪に満ちたもので あり、とても神の御前に出せるものではありません。しかし、主イエス・キリ ストは、それを見捨て給わないのであります。それを十字架の血で清めて御業 のために用いて下さるのであります。水をぶどう酒として下さるのであります。 何と幸いなことでありましょうか。