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「実を結ぶ枝」

1998年9月13日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ15・1‐10

 今日の説教題は「実を結ぶ枝」となっています。与えられている聖書箇所は 良く知られている「ぶどうの木」のたとえです。この説教題は私が付けました。 しかし、個人的なことを申し上げますと、私はもともとこのような言葉が好き ではありませんでした。私自身、実を豊かに付けている枝であるかどうかと問 われるならば、いつでもはなはだ心もとないからです。15章の冒頭には、ず いぶん恐いことが書かれているではありませんか。

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつなが っていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶ ものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。(1‐2節)」

 ここで語られています「実」とは何でしょうか。16節には次のように書か れています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがた を選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、ま た、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしが あなたがたを任命したのである。」ここを単純に読みますならば、「実」とは 明らかに宣教の実りであります。そうしますと、そのような宣教の実を結んで いない枝は、父なる神が取り除かれる、ということになります。大変恐いこと です。

 教会の中のお年を召した方々が、「わたしは神様のために何にもできなくて 申し訳ない」と言われるのを耳にすることがあります。私自身のこともさるこ とながら、そのようなお年を召された方々がこの箇所を読むときに、いったい どのようなことを考えられるのだろう、と案じたりもいたします。「ああ、私 は切り取られ、捨てられる!」そんな恐怖に苛まれるようなことにならないだ ろうか。余計なお世話ですが、そんなことを考えたりもいたします。というこ とで、「実を結ぶ枝」という言葉は、私個人としてはあまり好きな言葉ではな かったわけです。皆さんにとってはどうでしょうか。

キリストにとどまる

 しかし、この聖書箇所を丁寧に読んでいきますときに、主の言葉を理解する 上で見落としてはならない大切なことが記されていることに気づかされます。 先ほど読みましたところに記されている「わたしの父は農夫である」という言 葉です。実りのある枝か否かを見られるのは父なる神だと言うのです。判断さ れるのは父なる神なのです。人間ではありません。そうしますと、「わたしが どれほど大きな働きをしたか」というように、単純に人間の目をもって比較評 価できる類のことではなさそうです。たとえ人間の目には実りの見えないとこ ろにも、神は豊かな実りをご覧になるということがあり得るでしょう。逆に、 人間の目には豊かな実りが映っているところにおいても、神はまったく実りを 見られないということだってあり得るわけです。

 そのように考えながらこの15章を読みますときに、なるほど、ここでは 「豊かな実りとは何であるか」ということに重点が置かれていないことに気づ かされます。そうではなくて、「いかなる枝が実を結ぶのか」というところに 重点が置かれているのです。「実を結ぶ枝」とはどのような枝でしょう。それ はキリストという幹に生命的につながっている枝だ、と言うのです。つながっ ているか、つながっていないかが問題の焦点となっているのです。

 3節以下をご覧ください。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既 に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつな がっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶこ とができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結 ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわ たしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに 実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたし につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そし て、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。(3‐6節)

 豊かな実りは枝の努力によって結ばれるのではありません。枝そのものに実 を結ぶ力はありません。幹に生命的につながっている時、その命によって枝は 実を結ぶのです。それゆえ「実」のことだけを考えていてもだめなのです。枝 と幹との関係を問わなくてはなりません。ここでキリストが与えられた約束は 「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人 は豊かに実を結ぶ」ということです。1節の言葉は一見すると、この約束と矛 盾するように思われます。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝」 と書かれているからです。しかし、このようなことは植物であるならば、いく らでも見られることでしょう。これは要するに、つながっているように見えな がら、実質的には命が通っていない枝であるということです。つまり、ここで は、つながっているということの内実が問題とされているのです。それゆえ、 私たちはまず「キリストにつながる」とはいかなることかを理解しなくてはな りません。

キリストの言葉を内にとどめる

 そこで7節以下をお読みしたいと思います。「あなたがたがわたしにつなが っており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何 でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わ たしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 (7‐8節)」

 「つながる」という言葉は「とどまる」とも訳せる言葉です。そして、訳文 では分かりませんが、その「とどまる」という言葉が7節において二回用いら れているのです。直訳するならば、ここは「あなたがたがわたしにとどまって おり、わたしの言葉があなたがたの内にとどまっているならば」と書かれてい るのです。キリストにつながる(あるいはとどまる)ということは、単に神秘 的な結びつきということではなさそうです。不思議な気分でもなければ、非日 常的な興奮でもありません。具体的に、キリストの言葉が私たちの内にとどま ることに他ならないのです。

 「つながっていなさい」「とどまりなさい」ということが語られるというこ とは、その背景として「離れていく者」「とどまらない者」が存在することを 意味します。そして、そのような「離れていく者」との関連で思い起こされる のは、この福音書の6章です。どうぞお開きください。そこにはまず「パンの 奇跡」に関する物語が記されています。そして、その奇跡物語との関連で、主 イエスの長い説教が語られているのであります。そのテーマは「命のパン」と いうことです。主は「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決し て飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない(6・35) 」と語られたのでした。そしてさらに56節以下では、次のような言葉を語ら れるのです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内 におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしを お遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者も わたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたの に死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。 (6・56‐58)」ここで「わたしの内におり…その人の内にいる」と訳さ れているのが、先ほどの「とどまる」という言葉です。

 しかし、ここで「とどまらない」者たちが起こってくるのです。「ところで、 弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こん な話を聞いていられようか。』(60節)」「このために、弟子たちの多くが 離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。(66節)」彼らは、イエス のなさるしるしを見て信じた人々です。彼らは、パンを増やされた主イエスの 奇跡に大喜びした人々であるに違いありません。しかし、主イエスの言葉につ まずいたのです。主イエスが天から降って来た命のパンであり、主イエスを食 べる(すなわち「信じる」)ことが永遠の命を得させるのだ、という主イエス の言葉を、彼らは受け入れなかったのです。主の御言葉は彼らの内にとどまら なかったのであります。

 では、とどまったのは、どのような人々だったのでしょう。67節以下をご 覧ください。「そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか 』と言われた。シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところ へ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ 神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。』(6・67‐6 9)」そのように告白する十二人だけがとどまったのです。

 世のもの、朽ち行くものだけを追い求め、キリストさえもその手段としか考 えない人は、キリストにとどまることができません。キリストが人間の欲求を 満たしてくれる内はそこにおりますが、やがて離れて行くことになります。人 間の欲求に反すること、すなわち困難や迫害、自分に都合が悪いことが生じて くると、離れて行くことになるのです。つながっているように見えながら、実 は命の通わない枯れ枝であることが、そこで明らかになるのです。

 とどまったのは、主イエスこそ永遠の命の言葉を持っていると告白する者た ちだけでありました。この永遠の命の言葉を内にとどめることこそ、キリスト につながり、キリストにとどまることに他ならないのであります。

キリストの愛にとどまる

 15章に戻りましょう。9節以下をご覧ください。「父がわたしを愛された ように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わ たしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたし の掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。(9‐10節)」

 さて、ここには先に現れた「とどまる」という言葉が三回出てきます。「キ リストにつながる」という言葉が、ここではさらにキリストの愛にとどまるこ ととして言い換えられているのです。キリストの愛にとどまるとはいかなるこ とを意味するのでしょうか。その前提となっているのは、「父がわたしを愛さ れたように、わたしもあなたがたを愛してきた」と言われる、キリストの愛で あります。まず、キリストが私たちを愛された。それゆえに私たちはキリスト の愛にとどまることができるのです。

 しかし、それは単に「キリストの愛を思って生きる」とか「キリストに愛さ れていることを感謝して生きる」といったことではありません。ここでキリス トは「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」と言 われるのです。さてキリストの言う「わたしの掟」とは何でしょうか。これは すぐ後の12節に明瞭に記されています。「わたしがあなたがたを愛したよう に、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」つまり、キリストに つながって生きるとは、キリストの弟子たちが互いに愛し合って共に生きるこ とに他ならないのであります。

 このような言葉において明らかなように、キリストにつながって生きること を考えるときに、ただ「キリストとわたし」の関係だけを考えていてはだめな のです。「わたしは一人でキリストにつながって生きていきます」ということ は成り立ちません。そのことは、キリストが「ぶどうの木」をたとえとして用 いたことからも明らかです。枝が一本だけ幹から出ているぶどうの木を見たこ とがありますでしょうか。わたしはありません。つまり「ぶどうの木」のイメ ージは、一つの幹から沢山の枝が出ているというイメージなのです。ある人が ぶどうの枝として幹につながるということは、当然他の枝が沢山つながってい る幹につながることに他なりません。要するに、このたとえで描き出されてい るのは、キリストにつながる共同体、すなわち教会なのです。教会から自らを 切り離して、ただキリストとだけつながっているということはできないのです。 キリストにある兄弟あるいは姉妹から自らを切り離して、キリストにだけつな がることはできないのです。

 さて、これらのことは「最後の晩餐」において語られました。「最後の晩餐 」ということで私たちが思い起こすのは、教会において繰り返されている「聖 餐」であろうと思います。ところがヨハネによる福音書には、他の福音書が語 るような聖餐の制定に関する記事がありません。例えば、聖餐のパンについて、 「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念と してこのように行いなさい(ルカ22・19)」と主が語られたような言葉は、 この福音書には出てこないのです。なぜでしょうか。ヨハネは聖餐そのものの 起源ではなく、聖餐の意味そのものを明らかにしようとしているからでありま す。この「ぶどうの木のたとえ」においても、そこにやはり聖餐が示されてい るのです。私たちが聖餐にあずかるとはどういうことかが、主の言葉の中に示 されているのです。それは御言葉を内にとどめることであり、キリストの愛に とどまることです。

 聖餐において、私たちはキリストのみが永遠の命の言葉を持っていると信じ 告白し、キリストの言葉から離れず、キリストを食べ続ける(つまりキリスト を信じつづけ、その命にあずかり続ける)のです。そしてキリストの愛にとど まるものとして、互いに愛し合う教会を形作って生きるのです。それがキリス トにつながるということです。実を豊かに結ぶために何か特別なことが求めら れているのではありません。それは、どのような状況にあっても、ただひたす ら共に御言葉を聞き共に聖餐にあずかり続け、ごく当たり前の教会生活を淡々 と続けていくことに他ならないのです。大切なことは、そのようにキリストに つながって生きることなのであって、自分自身が実り豊かな者であるか否かを 心配しつつ問いながら生きることではないのです。

 
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