説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡

「律法からの解放」

1998年9月20日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ7・1‐6

 6章後半で、パウロは二つの道について語っておりました。一つは「罪の奴 隷」として生きる道です。その人生は恥に満ちた実を結び、死に至ります。も う一つは「神の奴隷」として生きる道です。その人生は聖化の実を結び、永遠 の命に至ります。信仰者として生きるということは、この方向転換をすること に他なりません。論旨は極めて明快です。罪の奴隷として神に背を向けて生き て、永遠の命に至るわけがありません。永遠の命に至るのは、確かに「神の奴 隷」として生きる道以外でないことも分かります。

 しかし、問題がまだ一つ残っています。「神の奴隷として生きる」というこ とと「神の律法に従って生きる」ということの違いが明らかにされていないの です。先にパウロはこう言いました。「あなたがたは律法の下ではなく、恵み の下にいるのです。(6・14)」しかし、神の奴隷として生きるということ は、結局は、神の律法に従って生きることではないでしょうか。それは「律法 の下にある」ことにならないでしょうか。パウロの言っていることはこの点で 矛盾しているのではないでしょうか。

 このように、明らかに、「律法と私たちとの関係」という問題は積み残しに されております。このままでは納得がいきません。パウロもそのことが分かっ ているようです。そこで、パウロは7章で、律法と私たちとの関係について語 り始めるのであります。

律法に対して死んだ者として  1節から4節までをご覧ください。「それとも、兄弟たち、わたしは律法を 知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配 するものであることを知らないのですか。結婚した女は、夫の生存中は律法に よって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から 解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と 言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になって も姦通の女とはなりません。ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの 体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがた が、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、 わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。(1‐4節)」

 パウロは読者が律法について知っていることを前提として話を進めます。律 法について知っている人ならば、律法が生きている人にのみ関係することを知 っています。ここで律法を知っている人々というのは、具体的にはユダヤ人の ことでしょう。しかし、「律法」と訳されている言葉は、法律一般を表す言葉 でもありますので、ユダヤ人でなくてもこの世の法律を考えて見ればよいと思 います。ここでパウロが具体例として挙げているのは結婚に関する律法です。 ある男性がある女性と結婚をしたとします。その男の人は(もちろん、女性も ですが)、生きている限り婚姻に関する律法に縛られます。その夫が生存中は、 その夫は律法によって妻と結ばれており、妻は夫に結ばれております。ですか ら、その妻が、もし他の男と一緒になれば、姦通罪となります。しかし、もし この夫が死んだら、この夫は律法の下にはありません。従って、夫は律法によ って妻と結ばれてはおらず、妻は夫と結ばれてはおりません。それゆえ、妻は 他の者と一緒になっても姦通の女とはなりません。パウロがまずここで例証し ているのは、生きている夫が律法の下にあったのに対し、死んだ夫は律法の下 にはない、ということです。死んだ夫がもはや律法の下にない、ということは その妻が夫に法的に結ばれておらず、自由に結婚できることから分かります。 死んだ者は律法の下にはいない。これをもってパウロは何を言いたいのでしょ う。まさに、これがキリストに結ばれた者の状態だ、と言いたいのであります。

 間違ってはならないのですが、神の律法が死んだとは書かれておりません。 神の律法が無効になったのでも、失われたのでもありません。神の律法は旧約 の時代から今日に至るまで厳然として存在するのであります。人が受け入れよ うが受け入れまいが、心に留めようが無視しようが、神の律法は厳然として生 きているのです。だから律法は人間に行為を要求します。神の法に従った行為 を要求するのです。しかも、それは表面的な法の遵守ではありません。なぜな ら、神は表面を見られるのではなく、「人々の隠れた事柄(2・16)」を裁 かれるからであります。そのような裁きを律法は要求します。そして、律法は、 人間の行為が要求に適わない時、罪を宣告するのです。断罪するのであります。 それが律法というものです。人間は皆、神の被造物である限り、この律法を免 れません。皆、律法の下にあるのです。それは書き記された律法を持つユダヤ 人だけではありません。なぜなら、異邦人の内にも律法は書き記されているか らです。「律法の要求する事柄がその心に記されている(2・15)」と書か れているとおりです。心に書かれた律法の文字があるのです。

 しかし、キリストに結ばれた者は、キリストの死にあずかったのだ、と聖書 は言います。キリストの死にあずかって一度死んだ者なのです。そして、死ん だ者は、もはや律法の下にはいません。それが4節に書かれていることです。 「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対し ては死んだ者となっています。」

 では、律法の下にないということはどういうことでしょうか。もはや律法の 要求の下にはない、断罪されることもない。ただそれだけなのでしょうか。実 は、その先があるのです。もう一度4節をご覧ください。先の言葉はこう続い ています。「それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させ られた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようにな るためなのです。」

 私たちは、どうして律法の下にないのか、その理由を忘れてはなりません。 それはキリストの死にあずかっているゆえに、律法の下にないのです。ならば、 律法から解放された者に対して、大きな意味を持つのはキリストとの関係です。 ですから、ここでパウロは改めて「他の方、つまり、死者の中から復活させら れた方のものとなり」と言っているのです。既にキリストの死にあずかった者 は既にキリストに結ばれているのですが、改めて先の結婚の比喩を持ち出して、 「律法に対して死んだのは、キリストのものとなるためなのだ」と言うのです。

 もっとも、結婚の比喩はここで正確に用いられてはおりません。先の喩えは、 先の例では律法のもとにおける夫と妻との関係が語られていたのですが、ここ では律法そのものが相手である夫に喩えられています。しかも、夫である律法 が死ぬのではなく、妻であるこちらが死ぬという設定に変わっています。とい うことで、寓喩としては確かに筋が通りません。しかし、細かいことはどうで もよいのです。要するに、パウロが言いたいのは、死んで律法と縁が切れたの は、キリストと結婚するためなのだ、ということなのです。そのようにしてキ リストと結婚し、キリストのものとして生きることによって、神に仕え、神に 対して実を結ぶようになる。神に対して実を結びながら永遠の命に至る道は、 復活された主、今も生きておられるイエス・キリストのものとして生きるとこ ろにあると語られているのです。

"霊"に従う新しい生き方で仕える

 しかし、そもそもなぜイエス・キリストのものとして生きることが、神に対 する実を結ぶことになるのでしょう。なぜ律法の下に生き、律法に従うことで は実を結ぶことにならないのでしょう。このことについて理解していくために は、なお7章から8章全体に至るまで読み進まねばなりません。しかし、今日 お読みしましたところには、これから展開されていく内容の端緒とも言うべき 言葉が記されております。私たちはまず5節、6節に記されていることを丁寧 に読み、その先を読み進む上での準備としたいと思うのであります。それでは 5節以下をご覧ください。

 「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五 体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自 分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。そ の結果、文字に従う古い生き方ではなく、"霊"に従う新しい生き方で仕えるよ うになっているのです。(5‐6節)」

 律法の下にあって、律法に従って生きる生き方と、死者の中から復活させら れたキリストのものとして生きる生き方とが対比されております。6節の終わ りに至りまして、その二つの生き方は新しい表現を得ています。一方は「文字 に従う古い生き方(直訳すると『文字の古さにおいて』)」と呼ばれています。 もう一方は「霊に従う新しい生き方(直訳すると『霊の新しさにおいて』)」 と呼ばれております。同じ奴隷として仕えるにしても、古い生き方をもって仕 えるのと新しい生き方をもって仕える二通りがあることが分かります。そして、 4節によりますならば、神に対して実を結ぶのは後者だということになります。

 なぜ、律法に従う生き方が「文字に従う古い生き方」などと呼ばれているの でしょうか。もちろん、律法は「文字」として記されているのですから、理解 できないことではありません。しかし、この呼び方には、それ以上の意味合い が含まれていそうです。その理解の鍵となるのは、その前に記されている5節 でしょう。そこでは「文字に従う生き方」ではなくて「肉に従って生きている 間」という表現になっています。「文字に従う古い生き方」と「肉に従って生 きること」は、どうも内容的には同じ事のようです。

 パウロは「肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の 中に働いた」と言います。ただ罪へ誘う欲情が働いた、というのではありませ ん。「律法によって(律法を通して)五体の中に働いた」と言うのです。彼が 意味するところの内容は、7章7節以下において詳しく論じられることになる でしょう。今日は、ただ8節の言葉だけを心に留めておきたいと思います。 「ところが、罪は掟(すなわち「むさぼるな」という掟)によって機会を得、 あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。」

 これは実に多くの人々の経験することであろうと思います。罪は戒めの言葉 に出会って力を弱めるでしょうか。罪は戒めの言葉に出会って私たちの五体か ら手を引くのでしょうか。私たちが「これをしてはならない」「あれをしては ならない」という言葉の中に身を置けば、罪の力から解放されるのでしょうか。 いいえ、そうでないことは、私たち自身が一番良く知っています。罪は戒めの 言葉に出会って、かえって力を強めるのです。私たちが「むさぼるな」という 掟を知り、むさぼりが罪であることを知るれば、人の内からはむさぼりが消え るのでしょうか。いいえ、そうではありません。ますますむさぼりの罪は力を 増して私たちを支配してくるではありませんか。

 そのような罪の力に対する律法の無力さを認めず、なお律法を遵守すること によって神の奴隷として生きようとすることを「文字に従う古い生き方」とパ ウロは呼ぶのです。律法は文字です。文字は要求はしますが、私たちを助けて はくれません。文字は私たちの外にあるのであって、内側から私たちを動かす 力を持ちません。私たちを潔める力もなければ、罪に打ち勝たせる力をも持ち ません。律法を足がかりにしてさえも私たちを支配してくる罪の力から、律法 そのものは私たちを救い出してはくれないのです。律法の文字のもとにいくら 身をおいても、成し遂げるのは自分です。文字は助けてくれませんから、百パ ーセント自分でやらなくてはなりません。自分の力で何とかしなくてはなりま せん。そこで一生懸命戒めの言葉に従おうと頑張ることでしょう。

 しかし、それがまさに「肉に従って生きている」ということに他ならないの です。「肉」が意味するのは、単にこの肉体ではありません。いわゆる「肉欲 」のことでもありません。「肉」とは、この世に属する存在としての私です。 「肉」とは、アダムの末裔としての私です。「肉」とは、罪と死の支配下にあ る私です。そのような私として生きていることこそ「肉に従って生きている」 ことに他なりません。肉に従って生きている人にとっては、この罪深い世に属 するものが全てです。アダムの子孫としての人間から出るものが全てなのです。 そして、それが全てである故に、またそこに肉にある者の限界があります。肉 にある者が、文字に従う古い生き方をもって神に仕えようとしても、神に対す る実を結ぶ者とはなりません。肉は死に至る実しか結ばないのです。さて、こ れは律法に厳格に生きようとしたユダヤ人たちだけの問題でしょうか。いいえ、 そうではありません。今日のキリスト者においてもいくらでも見られることで あります。律法に対して死んだ者であるという認識を欠いているために、依然 として断罪されることを恐れつつ、自らを打ち叩き、力を振り絞って聖書の戒 めに生きようとしている人。しかし、本当は無力な自分に失望落胆し、疲れ果 てている人。あるいは外面だけを一生懸命に繕ってキリスト者らしく生きよう としている人。他人事ではありません。

 救いをもたらすのは肉から出てくる何かではなくて、この世に属さない一人 のお方、死者の中から復活されたイエス・キリストに結ばれているという事実 なのです。永遠の命への道を歩ませてくれるのは、律法の文字ではなくて、キ リストに私たちを結び付け、新しい命に生かしてくださる御方、神の霊、聖霊 なのです。そのことが分からない人は聖霊を求めません。その生活には祈りが ありません。

 永遠の命に至る道は、罪の奴隷として生きる道ではなく、神の奴隷として生 きる道です。しかし、私たちは文字に従う古い生き方によって神に仕えるべく 召されているのではありません。律法から解放され、復活のキリストと結婚し て結ばれた者として、"霊"に従う新しい生き方で神に仕える者となるようにと 招かれているのであります。

 
説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡