「内なる戦い」
1998年9月27日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ7・7‐8・2
今日は7章7節からお読みしました。その直前には次のように書かれており ます。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によっ て五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、 自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。 その結果、文字に従う古い生き方ではなく、"霊"に従う新しい生き方で仕える ようになっているのです。(7・5‐6)」先週、私たちはこの御言葉を与え られました。この御言葉が、これから数週間に渡って読み進んでまいります7 章後半から8章にかけて、さらに展開されることになります。5節の「肉に従 って生きている間は」ということに関するのが今日お読みしました7章部分で す。そして、6節の「しかし、今は」以降に対応するのが8章です。それは8 章1節にも「従って、今や」という言葉が出てくることから分かります。
今日の聖書箇所を読みまして、誰でもすぐに気づきますのは、これまでの 「わたしたち」ではなく「わたし」という言葉が出てくることでしょう。単純 に考えれば、ここにはパウロの個人的な経験が記されているということになり ます。しかし、私たちはただパウロの経験そのものに関心を向けようとは思い ません。恐らく、パウロもそのような意図でこれを書いているのではないから です。彼が伝えようとしているのは、自分の経験を下敷きにしていたとしても、 もっと普遍的な内容であるに違いありません。先に申し上げたように、それは 「肉に従って生きている間」とはどういうことか、ということなのです。です から、私たちも、それがいかなる意味かを尋ね求めながら、ここを読みたいと 思うのです。しかも、これを他者のこととしてではなく、パウロが「わたし」 を主語として語っているように、私たちもそれぞれの「わたし」というものを 考えながら、ここを読んでいきたいと思うのであります。
罪が正体を現すため
まず7節から13節までをご覧ください。パウロは、次のような言葉をもっ て話しを進めます。「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。 」このように言うのは、先に5節において「罪へ誘う欲情が律法によって五体 の中に働き、死に至る実を結んでいました」と書いているからです。そこから 生じるであろう誤解を取り上げ、パウロはこれを否定します。そして、問題は 律法そのものにはないことを明らかにするのです。
律法は、まず罪を認識させるものです。パウロはここで例として「むさぼる な」という十戒の言葉を取り上げます。これは第十番目の戒めです。「むさぼ るな」という律法の言葉に出会う時、むさぼりの罪が認識されるようになりま す。貪欲が罪であることが意識に上るようになるのです。確かにそうでしょう。 それが戒めの言葉の持つ一つの機能です。しかし、罪を認識することは、罪か ら解放されるこを意味しません。貪欲の認識は、人を貪欲そのものから解放す ることはありません。そこに誰もが経験する大きな問題があります。いや、罪 から解放されるどころか、むしろ貪欲が意識に上ることによって、さらに貪欲 の罪は力を強めて人を支配するようになるのです。パウロが次のように言って いるとおりです。「ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさ ぼりをわたしの内に起こしました。(8節)」
人は、「むさぼるな」と言われると、それまでは無意識に欲していたものを、 こんどはむさぼりであると認識しつつ欲するようになります。こうしてさらに 深くむさぼりの罪に捕らえられていくことになるのです。「これはむさぼりの 罪である」と分かっていながら、なおあえてむさぼる時、むさぼりが本当の意 味でむさぼりになるからです。罪は律法によって意識されるものとなり、「分 かっていながらなお罪を犯す」という性質のものとなります。罪は戒めによっ てそのような積極的な活動力を得ることになるのです。これを逆に言ったのが 「律法がなければ罪は死んでいる」という言葉です。
9節以下はパウロの個人的な経験に深く根ざしているのでしょう。「わたし は、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、 罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死 に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺 き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。(9‐11節)」ここ でパウロが具体的に思い描いているのは幼子であった時の自分と、律法を学ん でユダヤの世界において成人と見なされた後の自分であろうかと思います。
大変個人的な話で恐縮ですが、私が16歳の時、一番下の妹が生まれました。 私はうれしくて、よくベビーカーを押して歩いたものです。先日、ふとしたこ とから、その頃のことを思い出しました。実は、もう20年以上も前になりま すが、私はその赤ん坊だった妹のために一つの歌を書いているのです。妹の無 邪気な仕草や天真爛漫な笑顔、妹が生まれてどんなに家の中が明るくなったか、 を歌ったものでした。そして同時に、幼い妹が持っているものは皆、私が既に 失ってしまったものであることを思いながら作った歌でありました。「オレ、 いつの間にこんなになってしまったんだろう。」幼い妹を眺めながら、そんな ことを考えていた、当時の私でありました。
私は幼子にまったく罪がないとは思いません。しかし、罪を認識しながらあ えて良心に逆らいながら罪を犯すということもないでしょう。ですから、その 生命に翳りがありません。「わたしは、かつては律法とかかわりなく生きてい ました」とパウロが言うのは、そのようなことだろうと思うのです。そして、 幼子はやがて親や周りの大人たちから、物事の善悪を教えられていきます。ユ ダヤの世界ではモーセの律法を教えられます。13歳において成人と見なされ るまでに、暗記を中心とした律法の学びをするのです。人生に掟が登場いたし ます。そのことによって善悪は明瞭になります。しかし、それによって人は罪 を遠ざけて清い者となるかと言えば、必ずしもそうではありません。むしろ、 成長するに従って、ますます汚くなっていきます。意識的に罪を犯す、しかも それが分からないように、ばれないように罪を犯すという仕方において、ます ます汚くなっていくわけです。
大人は子供を叱ります。それは大事なことですし、必要です。「君たちは何 もわかっちゃいない」と言います。確かにそれは本当でしょう。大人の方が分 かっていることは多い。しかし、では分かっていれば正しく生きていることに なるのか、悪から解放されて清いのかと言えば、そんなことは決してないわけ です。むしろ分かれば分かるほど、ますます汚くなっていく。罪の支配は強力 になっていくわけです。正直に自らを振り返れば、誰だって、「いつの間にこ んなになってしまったんだろう」と考えざるを得ないでしょう。パウロはその ことを言っているのです。「掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死 にました。そして、命をもたらすはずの掟が死に導くものであることが分かり ました。」律法は命に導くものであるはずでした。しかし、現実にはそうなら ないのです。
それは律法に問題があるからではありません。「律法は聖なるものであり、 掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。」問題は「罪」にあります。 本来善いものであるはずの律法を用いて、罪は人間を支配し、死をもたらすの です。まさにそのことにおいて、罪がその正体を現すのです。この世において、 罪は仮面をかぶっております。慕わしい、時には麗しい装いをもって臨むので す。あたかも幸福を約束するかのような美しい姿で、時には純粋な愛と見間違 えるような面持ちで存在するのです。しかし、掟を通して、その仮面が剥がさ れて、グロテスクな姿を現すのです。私たちを滅びに至らせる怪物が正体を現 すのであります。
肉にある者の負け戦
そして、パウロはもう一度、律法そのものが罪でも、神に逆らうものでもな いことを述べた上で、問題の核心に入っていきます。「わたしたちは、律法が 霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り 渡されています。(14節)」
これがパウロにとっていつの経験であるかがしばしば議論されてきました。 パウロの回心前のことなのか、それともキリスト者としてのパウロの経験であ るのか。ある人は、25節にまで至る敗北感に満ちた描写から、これがパウロ の回心前であると論じます。別の人は、14節が現在時制で書かれていること から、これをキリスト者の経験と考えます。
では、私自身はどう考えるかといいますと、この「いつの経験か」というこ とには大して関心がありません。その理由は一番冒頭において申し上げました。 パウロの意図はそこにないからです。確かにパウロの経験がベースにあるでし ょう。しかし、パウロが論じたいのは、5節の「肉に従って生きている間は」 ということの内容なのです。すぐに気づくことは、7章後半にはイエス・キリ ストも聖霊も出てこないということです。(後に述べますが、25節は除外し て考えます。)つまり、ここには分裂している「わたし」と律法と罪しか出て こないのです。そのような構図の中で一つの戦いが描写されているのです。回 心前か後かということよりも、このような構図そのものに目を向けなくてはな らないのです。
彼は律法を善いものして認めています。ですから律法が善となすことを行い たいと望みます。律法が悪と定めることを行いたくないと思います。強く言う ならば、悪を憎んでいるということになるでしょう。しかし、望んでいること が出来ない。かえって望まないことをしてしまう。ということは、望んでいる 自分とは異なる力が存在することになります。それが罪なのです。そして、悪 いことに、その罪は内に住んで私たちを支配しようとするのです。ここでパウ ロが語っているのは、誰もが経験する、深刻な「意志と行為の分裂」です。1 8節でパウロは次のように言うのです。「わたしは、自分のうちには、つまり わたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意 志はありますが、それを実行できないからです。」
21節以下では、パウロはこの状態を「意志するわたし」と「行為するわた し」の葛藤として描きます。「意志するわたし」は、22節では「内なる人」 と呼ばれ、23節では「心(別な訳では理性)」と呼ばれます。これに対して 「行為するわたし」は「五体」と呼ばれ、25節では「肉」とも呼ばれていま す。そして、この二者の間には絶えざる戦いがあります。「意志するわたし」 が、その法則によって完全に治めることができないのです。別の法を持った 「行為するわたし」がいて、「意志するわたし」に戦いを挑むのです。そして、 どちらが勝つかと言えば、この「行為するわたし」なのです。人の内に住む罪 という強力な怪物がそちらに荷担しているからです。「内なる人」は勝てませ ん。完全な負け戦です。敗北者は捕虜になるしかありません。22節と23節 に書かれているのは、このような現実です。「『内なる人』としては神の律法 を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、 わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。(2 3‐24節)」ここで、最終的に人は嘆きの叫びをあげざるを得ません。「わ たしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわ たしを救ってくれるでしょうか。」
ここでパウロは勢い余ってこの問いに答えてしまいます。「わたしたちの主 イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」これは口述筆記で手紙を書 いているのですから、仕方ないことでしょう。この文は括弧に入れておくのが よいと思います。あくまでも、パウロが7章において論じたかったことはその 後の言葉だからです。「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えてい ますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だ れがわたしを救ってくれるでしょうか。」もし、そこに「わたし」と律法と罪 しかないならば、どこにも救いはありません。負け戦の構図は滅びに至るまで 変わりません。この戦いの構図が変わるとするならば、その救いは外から来る しかないのです。そして、救いは来たのです。それゆえ、7章後半には見出さ れなかった新たなる御名が、8章の初めから見出されることになります。その 御名の見出されるところにこそ、救いがある。そこにこそ「肉に従って生きて いる間」にはどうにもならなかった負け戦が新たなる展開を見せる「今」があ るのです。私たちはその新しい「今」に生きることができる。もはや、肉に従 って生きる敗北者である必要はないのです。それゆえ、パウロは8章に入って、 次のように語り始めるのであります。「従って、今や、キリスト・イエスに結 ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによっ て命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 (8・1‐2)」