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「命をもたらす霊の法則」

1998年10月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマ8・1‐4

 先週申し上げましたとおり、7章5節の「肉に従って生きている間は」とい うことを展開し論じているのが7章後半であり、7章6節を展開し論じている のが8章であると考えられます。前回は7章を共にお読みしました。今週から 数週間に渡り、私たちはこの8章を丁寧に読んでいきたいと思います。そうし て、私たちもまたパウロと共に、「しかし今は、わたしたちは、自分を縛って いた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文 字に従う古い生き方ではなく、"霊"に従う新しい生き方で仕えるようになって いるのです(6節)」と、確かに言える者になりたいと思うのであります。

従って、今や、罪に定められることはない

 初めに1節と2節をお読みしましょう。「従って、今や、キリスト・イエス に結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスに よって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからで す。(1-2節)」

 先週はこの2節までをお読みしました。そこで、多くの方々は「何かおかし いな」と感じられたのではないでしょうか。この8章から読みますと気づかな いかも知れませんが、確かに7章から続けて読みますと、どうも続き具合がよ くありません。「従って…?」どうしてここに「従って」が出てくるのでしょ う。その直前にはこう書かれております。「このように、わたし自身は心では 神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」7章7節 以下で、パウロは肉に従って生きる者の惨めな状態を「わたし」という言葉を 用い、自らの経験を下敷きとして語っておりました。そして、その惨めな状態 を一言でまとめたのがこの7章25節であったわけです。それに続いて「従っ て」という言葉が来たら、人はその先にどんな言葉を予想するでしょうか。 「罪に定められることはありません」では筋が通らないではないですか。むし ろ「従って…罪に定められることになります」と言う方が、話の流れとしては 自然であるはずです。

 7章を少し振り返ってみましょう。パウロが語ってきたことは、一言で言う ならば「意志と行為の分裂」でありました。このこと誰にとっても身近な問題 であろうと思います。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善 が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、そ れを実行できないからです。(7・18)」この言葉に共感する人も多いでしょ う。なぜそうなるのでしょうか。パウロの言うように、善が住んでいるのでは なくて、罪が住んでいるからです。そして、罪が支配しているからです。その 昔、「わかっちゃいるけど、やめられない」という歌が流行りました。冗談で 歌っているうちはいいでしょう。しかし、その先に裁きがあるとするならば、 笑い事ではありません。人間が7章に書かれているような負け戦を続けて一生 を送るならば、その先は見えています。「従って、罪に定められることになり ます」という言葉が当然のごとく来るはずなのです。神の断罪は死を意味しま す。神に裁かれ捨てられることは、永遠に神を失い、滅んでしまうことを意味 するのです。

 しかし、8章に入りまして、パウロは「従って…罪に定められることはない 」と言うのです。しかるべき論理はどこで覆ったのでしょう。おかしいではあ りませんか。しかし、そこで、私たちの目に留まりますのは、1節にある小さ な一言です。「キリスト・イエスに結ばれている者は」という言葉です。原文 においては、たった四つの単語です。この短い言葉が、「罪に定められること になります」という当然の結論を覆しているのです。

 実に、この8章はこうして「罪に定められることはありません」という言葉 から始まり、38節以下の次の言葉で終わります。「わたしは確信しています。 死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力ある ものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わ たしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引 き離すことはできないのです。」これが、罪に定められない、ということであ ります。これを理解する鍵となるのが、先の「キリスト・イエスに結ばれてい る者は」という言葉なのです。

 どうして罪に定められないのでしょうか。どうして結論が覆ったのでしょう か。「キリスト・イエスに結ばれている」ことによって何がもたらされたのか を、パウロは2節でこう表現します。「キリスト・イエスによって命をもたら す霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」パウロはこ れらの言葉をもって、いったい何を言おうとしているのでしょうか。

 「罪と死との法則」――確かに、既に読んできました7章には、肉にある者 を支配する「罪と死との法則」が描き出されておりました。それは、いわば登 場人物が定まっている演劇の筋書きのようなものでありました。登場人物は 「わたし」と「罪」と「律法」です。主人公は「わたし」です。敵は「罪」で す。「律法」は「わたし」が「罪」に支配されないことを要求しますが、助け てはくれません。「罪」に支配される者を断罪するだけです。「罪」は、「五 体」と呼ばれる「行為するわたし」を罪の法則の下におき、さらに「内なる人 」と呼ばれる「意志するわたし」を捕虜にします。惨敗です。この負け戦の先 にあるのは死です。滅びです。もし、登場人物がこの三者でしかなく、「わた し」が主人公であるならば、他に展開のしようがありません。他に展開のしよ うがないこの筋書きこそ、まさに「罪と死との法則」であります。肉にある者 は、その結論の定まった舞台の上を右往左往するしかありません。それが肉に ある者の人生であります。

 しかし、パウロは言うのです。「キリスト・イエスによって命をもたらす霊 の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」どうにもならな いように見えたその筋書きが変わるのです。登場人物が変わることにより、ま た主人公が変わることにより、筋書きが変わるのです。新しい筋書きにより、 古い筋書きは破棄されます。もう死に向かっての物語を進行させる必要はあり ません。「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法 則からあなたを解放したからです。」

 その新しい筋書きによれば、罪によって神から切り離されて死に至るのでは なく、イエス・キリストによって神に結びつき命に至ります。それは律法によ るのではなく、聖霊によるのです。「わたし」が主人公ではなく、「神」御自 身が主人公であるからです。それゆえ、パウロは3節において、神が私たちの ために為してくださったことを語るのであります。その神の行為に基づいた、 「イエス・キリストによって命をもたらす霊の法則」を明かにするためであり ます。

肉において罪が処断されて

 それでは3節をご覧ください。「肉の弱さのために律法がなしえなかったこ とを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い 肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。 (3節)」

 パウロは「律法が霊的なものであると知っています(7・14)」と言いま した。霊的であるとは、人からのものではなく、神からのものである、という ことです。それは悪しきものではなく、善きものであるはずでした。その要求 は、死に導くためのものではなく、命へと導くためのものであるはずでした。 しかし、問題は人間の側にありました。肉の弱さがそこにありました。要求を つきつけ、罪を宣告する律法は、肉の弱さを持つ人間に対して無力だったので す。律法は命をもたらすことができませんでした。かえって、罪の力を強め、 支配を堅固なものにしたのです。

 しかし、神は律法の文字を与えただけではありませんでした。神は世を愛さ れました。神は御自身の御子を世に与え給うたのです。パウロがあえて「(神 は)御子を…この世に送り」と表現しているとおりです。パウロが語ろうとし ているのは、神が何を為されたのか、ということなのです。神の行為だけが真 に人を救うからです。イエスというお方は、単に神を示した偉大な人物ではあ りません。もしそうであるならば、イエスにおいて現れたのは、人の行為でし かなく、神の行為ではありません。神の行為でなければ、そこに救いはありま せん。人の行為は人を救い得ないのです。では、神は何をしてくださったので しょうか。神は、まず「御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送」られました。 そしてさらに「罪を罪として処断された」のです。言うまでもなく、一方はク リスマスの物語が伝えることであり、もう一方は聖金曜日からイースターに至 る物語が伝えていることです。

 神の御子は人となられました。これは驚くべき神秘です。永遠なるお方が有 限なる世界に来られました。聖なるお方が罪深い世に来られました。神である 方が、肉となられました。パウロがあえて「罪深い肉と同じ姿で」という表現 を用いているのは、彼の慎重さのゆえです。主イエスは、私たちとまったく変 わらない、人間となられました。それは決して仮の姿ではありませんでした。 私たちが肉であるように肉となられました。私たちが誘惑にあうように、主イ エスも誘惑にあわれました。私たちと同じように試練を経験されました。しか し、あのお方は、罪深くはありませんでした。罪に支配されませんでした。パ ウロは別の手紙で、このお方を「罪と何のかかわりもない方(2コリント5・ 21)」と呼んでいます。当然、ここでも同じことを考えているのです。これ らのことをすべて言い表しているのが「罪深い肉と同じ姿で」という表現であ ると考えてよいでしょう。

 あのお方は私たちと何ら変わらない人間として神の前を歩まれました。御自 身は罪を犯されませんでしたが、罪深い私たち人間の一人として、神の前を歩 まれました。まさに私たちの代表として、神の前に生きられたのであります。 そのご生涯の最後は十字架でありました。神に呪われた者として、あのお方は 死なれました。ただローマ人やユダヤ人の権力者たちによって裁かれ、殺され たというのではなく、神に断罪された者として、その地上の生涯を終えられた のであります。

 しかし、厳密に言いますならば、そこで処刑されたのは「罪人イエス」では ありませんでした。主イエスは、罪に支配された者として処罰されたのではな いのです。主イエスは罪に支配されることはなかったからです。そうしますと、 そこで神によって処罰されたのは、「罪に支配された人間イエス」ではなくて、 「人間を支配している罪そのもの」であることが分かります。それは、主イエ スが十字架で死んだままではなく、復活させられたことからも明らかです。罪 は処分され、キリストは蘇ったのです。パウロが「その肉において罪を罪とし て処断されたのです」と言っているのは、このことであります。神が罪そのも のを罪として処断されたのは、何ゆえでしょうか。それは罪を処断し、罪人を 赦すためであったのです。

 それゆえ、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪そのものがすでにキリ ストにおいて処分された者とされているゆえに、もはや罪人として罪に定めら れることはないのです。このゆえに、キリスト・イエスに結ばれている者は、 罪によって神から切り離されて死に至るのではなく、イエス・キリストによっ て神に結びつき命に至るのです。これこそが、まさに「キリスト・イエスによ って命をもたらす霊の法則」です。これによって「罪と死との法則」から解放 されるゆえに、1節の結論があるのです。「従って、今や、キリスト・イエス に結ばれている者は、罪に定められることはありません。」

律法の要求が満たされるため

 さて、実は原文において、3節はそのままで独立した文ではなくて、4節に つながっています。神が罪を罪として処断し、罪人の罪を取り除き、罪と死と の法則から解放したのには、神御自身の目的があるのです。「それは、肉では なく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。 (4節)」

 「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません 」という聖書の宣言は、また、罪に定められることをいたずらに恐れて生きて はならないことを意味します。罪に定められることへの恐れに駆り立てられて、 その恐れのゆえに律法の義の要求を満たそうとする者であってはならないので す。それは肉に従って歩むことに他ならないからです。それゆえ、人はまず律 法から解放されなくてはなりません。

 しかし、私たちが律法から解放されることは、律法そのものが廃棄されるこ とを意味しません。ここで語られていることは、いわゆる律法無用論や無律法 主義による放縦の生活とは無関係です。キリストが肉の姿を取られ、その肉に おいて罪が罪として処断されたのは、ただ私たちが罪人として裁かれないよう になるためではありません。私たちの内に律法の要求が満たされるためなので す。本来、命に導くはずであった律法が無力なゆえに為し得なかったことが実 現するためなのです。しかし、それは既に述べてきましたように、人の力によ って成就するのではありません。すべては神の為し給う業であります。人を清 め、命を与え、神の御心に従う者とするのは、神の賜る聖霊なのです。クリス マスとイースターの先にはペンテコステがあるのです。それゆえパウロはただ 「律法の要求が満たされるためでした」と言いません。「肉ではなく霊に従っ て歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」と言うのです。 大切なことは、肉に従ってではなく、霊に従って歩んでいるということです。 霊に従って歩むには、「わたし」は主ではなく従にならなくてはなりません。 7章に描かれている文の多くのように「わたし」が主語となるのではなくて、 8章に見る多くの文のように「聖霊」が主語とならなくてはなりません。人生 の主人公の位置は神に明渡さなくてはならないのです。罪を罪として処断し、 罪を取り除くのが神の御業であるならば、律法の要求が私たちの内に満たされ るよう導き給うのも神の御業だからです。

 
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