「新人の共同体」
1998年10月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 日本基督教団香里教会 杉田常夫牧師説教
聖書 2コリント5・16‐21
わたしたち人間は誰でも、幼いときから自分の存在と、その意味を問い始め ます。『わたしはどうして生まれてきたの?」という子供の問いは、生物学的・ 生理学的な問いではなく、自分の存在の不思議を意識するようになった、子供 らしい哲学的・神学的な問いでありましょう。なぜわたしがここに存在し、生 かされているのか。何をするために生きているのか。わたしたちは誰でも、子 供らしい素朴な言葉や概念でそれを問い、考えたのではないでしょうか。いつ かそれを問い続け、考え続けることを忘れたとしても、その問いがなくなった わけではありません。ふとわれに返るとき、そのような疑問が心の底に、澱 (おり)のように沈んでいるのに気づかされます。平素は目の前のことで忙し く、忘れがちなだけなのです。わたしたちが年を取り、体が弱くなり、死期が 近づいてくると、この疑問に再び直面します。自分の人生はこれでよかったの か、何かもっと大きな課題を見落として、無意味に人生を費やしたのではない かと後悔します。死の苦しみの大きな部分は肉体的なものというより、このよ うな存在論的・人生論的な苦悩であると思います。人間として生まれたときか ら持っていた、自分の存在とその意味についての問いが浮かび上がっていくる のだと思います。
聖書はこのような問いに対して、人間を含めた全ての存在は神によって創造 されたと答えています。聖書の開巻劈頭で、「初めに、神は天地を創造された (創世記1・1)」と告げています。わたしたちは神に造られて存在し、神に 生かされて今ここにいます。神がわたしたちを造られたのですから、神の創造 の目的に従って生きるべきであります。しかし、現実はそのように単純にはい かないのです。幼い子供が自我に目覚めるとき、自己主張を始めます。その自 己主張も幼いときは、かわいらしいものですが、野放しにしておけば、獲得し た力と自由を乱用し始めます。自己中心的な欲望に任せて暴走します。ブレー キの利かない車のように、自分にとっても他人にとっても危険で破壊的なもの になります。神に造られた人間は、神のもとへ帰らなければ、本来のあるべき 人間の姿を取り戻せません。どうすれば、人は神のもとへ帰ることができるの でしょうか。
1 ただ今読まれた聖書には、「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って 知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそ のように知ろうとはしません(16節)」と言われています。キリストをどの ように知るかという、キリストの知り方がわたしたちの人生を左右します。キ リストは過去の歴史的人物として、学問的・科学的に知り尽くせるようなお方 ではありません。世の初めから神と共におられた、神とひとしいお方です。あ らゆる人間の知的な営みを超えた、神から授かる信仰によってキリストを知り、 信じなければキリストを知ったとは言えません。聖霊によってみ言葉を信じる とき、今も生きておられるキリストに結ばれるのです。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。 (17節)」と言われています。新共同訳聖書では、「キリストに結ばれて」 という表現に、しばしばお目にかかります。口語訳聖書では、「キリストにあ って」と訳されていました。わたしたちはそれに慣れていましたので、初めは どうしてもこのような訳になじめませんでした。しかし、考えてみると普通、 「誰それにあって」という言い方をあまりしません。それは聖書特有の表現で した。それが新共同訳聖書では、「キリストに結ばれて」と翻訳されたのです。 初めはしっくりしなかったのですが、人がある人と結ばれるという言い方は、 むしろ自然だと思うようになりました。この言い方は、典型的には結婚の場合 であります。運命の赤い糸に結ばれて、わたしは誰それさんと結婚しましたと 言います。(クリスチャンは神様の御心によって結ばれたと言いますが。)結 婚の絆に結ばれた二人は、互いに「わたしは生涯あなたから離れず、あなたと 一緒に生きていきます」と言い交わします。少なくとも初めのうちはそう言い ます。いつもそう言ってほしいのですが。
しかし、「キリストと結ばれる」とは、結婚以上の深いキリストとの結びつ きです。神様のお導きによって、わたしはキリストに出会い、キリストを信じ るようになりました。そしてキリストと結ばれて、生涯をキリストと共にする 決定的な出会いをしました。そのとき古いわたしはキリストと共に死んで、新 しいわたしがキリストと共に誕生しました。結婚を新生活と言いますが、それ よりもはるかに決定的な新生活が、キリストに結ばれて始まったのです。
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「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。 (17節)」神から離れて堕落した古い人間が死に、キリストに結ばれて新し い人間が誕生したのです。教会とは、神に新しく造られた人々の群れです。キ リストへの信仰によって、キリストに支配される新しい時代に生きる、新しい 被造物になった人々です。「新しい」(ギリシア語のカイノス)という形容詞 は、以前にはなかった質的な新しさ、次元の異なった新しさを意味しています。
「新しく創造された者」とは、地上的・肉体的な意味で、新しい者になった のではありません。「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしま せん。(16節)」とパウロは言います。キリストの贖罪の恵みからの判断こ そ重要であります。キリストの到来によって、罪が支配する時代は終わりまし た。今や、死人の中から復活され、昇天されたキリストが世と教会とを支配し ておられます。やがて新天新地の現れるにを待ち望む、新しい時代(中間時代) が既に始まっています。ここで、新しいと言われているのは神様との関係であ り、神様の目から見ればわたしたちは、新しく創造された者になったのです。
時々肉に従って人間的に自分を見て、「新しい人」になれると思い違いをし て、実はそうなっていない自分を責めたり、劣等感を抱く人がいます。それを 謙遜だと勘違いしてはなりません。わたしたち信徒は誰でも、正直に自分を観 察すると、信じてからでも古い人間の性質は残っています。キリストに結ばれ る以前の、汚れた性質や感情があるのに気づかされます。だからと言って、が っかりする必要はありません。わたしたちは信仰に導かれる以前は、古い性質 に支配され、その奴隷として縛られていました。しかし今は、キリストによっ て解放され、キリストがわたしを捕らえてくださいました。キリストに捕らえ られて、自由に生きられる人間になりました。自己中心からキリスト中心に生 きる者に変えられたのです。だから絶えず聖書に耳を傾け、祈りを怠らずにい るなら、そのような古い性質の影響を受けても、それに支配されることはない のです。
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神様はわたしたちを「新しく創造された者」とするために、わたしたちを罪 から解放してくださいました。罪のないキリストが、わたしたちの罪のために 死んで、わたしたちの罪を負われました。このように言いますと、正しい厳格 な神様が罪ある人間に対して怒っておられ、キリストが仲に立って神様をなだ め、わたしたちの身代わりになってくださった。そのお陰で、わたしたちの罪 は赦されたのだと考えがちです。正しい神様は恐いけれど、優しいキリスト様 には甘えられる。キリスト様では恐れ多いから、なお一歩さがってマリア様に 甘えるキリスト者もいます。しかし、そのように神とキリストとを対立的に理 解するのは、三位一体の信仰から言えば、神を誤解していると思います。神と キリストと聖霊が一体であるなら、人間の罪を取り除かれるのは、神とキリス トと聖霊が一体になってなされた、神の御業であると言わねばなりません。
そこで聖書は、「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ」 たと言います。「和解」とは神の敵であった罪人と神との間に、平和と交わり が成立したことを言います。それは神がキリストによって、わたしたちの罪を 赦された結果であります。対立する人間同士の和解は、しばしば足して二で割 る折衷案によって成り立ちます。しかし、神は決して妥協案を示されたのでは ありません。キリストは神と罪人の間に立って、和解を成立させるのではあり ません。和解を行う主導権は神にあります。「神は、キリストを通してわたし たちを御自分と和解させ」たと言われています。
神が人を御自分に和解させるというのは、どのような仕方でしょうか。それ は二人の人の意見がけわしく対立して、一方は他方に対して腹を立てているの ですが、彼は相手に復讐しようとはしないで、真心からの言葉と行為とによっ て、相手の心を和らがせようとする時の状況にたとえられます。父親が反抗す る息子に対して、忍耐強くその言い分に耳を傾け、遂に息子の心を獲得する状 況に似ています。神は愛をもってわれわれを獲得しようとしておられ、御子の 死によってわたしたちを受け入れる愛を現わされ、わたしたちを御自身と和解 させてくださったのです。
この世で「和解」と言うときは、対等の立場にある者同士の間に成立するも のです。しかし、ここでは相手が神様ですから、むしろ、「神から提供される 和解の恵みをつつしんで受け入れ、おしいただく」という意味です。「罪と何 のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたした ちはその方によって神の義を得ることができたのです(21節)」と言われて います。
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こうして「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」のです。神から罪の 赦しを受け、神と和解させられた人々の群れである教会が生まれました。「教 会」(ギリシア語でエクレシア)という言葉は、呼び集められた人々を意味し ます。町の政治のために呼び集められた、市民たちの集会がエクレシアと呼ば れていました。最初のクリスチャンたちは、その言葉を取って自分たちの群れ をキリストのエクレシア、神のエクレシアと呼びました。
「キリストに結ばれる人」は、各自が個人的にキリストと関わるだけではあ りません。神の家族・神の国という全世界的・全宇宙的な規模の共同体に加え られるのです。キリスト者はキリストを頭とする共同体の一員として、キリス トに結ばれています。キリストに起こったことは、すべてわたしたちに起こっ たこと、また将来起こることなのです。キリストが死んでくださったとき、す べての人はキリストと共に死に、キリストのよみがえりの命にあずかり、新し く創造された者になったのです。
時々、教会は信仰生活にとって、あってもなくてもよい付け足しであると思 っている人がいます。信仰の大切さは分かっているが、教会をそれほど大切に 思わないという人や、教会に無関心な人を時々見掛けます。そういう態度はど こから出てくるのでしょうか。教会を建物や、組織、制度として理解している からではないでしょうか。新約聖書によれば、教会とはわたしたち信徒の群れ のことです。キリストに結ばれている信徒の群れが教会です。ここに一緒にい なくても、キリストに結ばれて新しく造られた、すべての信徒たちの群れが教 会です。
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このような教会の本質から、教会の使命が何であるかが明らかになります。 「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のため に奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストに よって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を わたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めて おられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリス トに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。(18‐20節)」
「和解の言葉」とは、十字架によって明らかにされた、救いをもたらす福音 です。神は教会に、この福音を委ねられたのです。神が人間に和解の恵みを、 キリストを通して提供されました。この和解の恵みを取り次ぐ任務が、パウロ に与えられました。パウロだけでなくすべての信徒に与えられたのです。和解 の福音は教会に委ねられています。教会はすべての人々を、神と和解させる務 めを与えられています。キリストの愛は、「和解のための奉仕」を、全信仰共 同体に要求しています。キリストの十字架の死は、罪のために神から引き離さ れた人々を、神と和解させるためでありました。
わたしたちも「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただき なさい」と、周りの人々にお勧めする役目を与えられています。この務めは、 キリストに結ばれて、新しく創造されたわたしたち教会の光栄ある務めです。